ロト
天界の秘義1428
「ロトもかれとともに行った」。これは感覚的なものを意味していること、『ロト』により感覚的な形体的な人間の方面の主が表象されていることは以下の記事におけるロトの表象から明白であり、そこにはロトはアブラムから引き離されて、天使たちに救われたと言われているが、しかし後になって、かれが引き離されたときは、ロトは他の表象を着けたのであって、それについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。主は他の人間のように生まれたもうたが、しかし処女である母から生まれたもうたこと、主もまた他の人間のように感覚的な形体的なものを持たれたことは明白であるが、しかし主の感覚的な形体的なものは後には天的なものに結合して、神的なものになされたという事実により主は他の人間とは異なっておられたのである。主の感覚的な形体的なものそれ自身が、またはそれと同一のことではあるが、主の感覚的な形体的な人間が、すなわち、それが天的なものにより神的なものに結合したときになったものではなくて、主の子供時代の状態の中にあったような主の感覚的な形体的な人間がロトにより表象されているのである。
天界の秘義1547
「ロトはかれとともに」。これは感覚的なものを意味していることは、すでに簡単に述べておいた(1428番)、しかしロトがここに特別にとり扱われているため、かれが主の中に表象しているものがいかようなものであるかを知らなくてはならない。パロはついには主を離れ去らせた記憶知を表象したが、しかしロトは感覚的なものを表象しており、この感覚的なものにより外なる人と感覚的なものにぞくした外なる人の快楽とが意味され、かくて最も外的なものであって、人間をその子供時代に魅了してかれを善から引き離してしまいがちなものが意味されているのである。なぜなら人間が欲念から発した快楽に耽溺するに応じて愛と仁慈にぞくした天的なものから引き出されるからであり、それはそれらの快楽の中には天的な愛と一致することができないところの、自己と世から発した愛が存在しているためである。しかしながら天的なものに完全に一致しているものの、外なる形では同じように見えるところの快楽があるのである(これについては前の945、994、995、997番を参照されたい)。しかし欲念から発した快楽は天的なものに至る道を閉塞してしまうため、それは抑制され、ぬぐい去られなくてはならないのである。本章にロトにより、すなわち、かれがアブラムから離れたことによりとり扱われているものはこの快楽であって、他の快楽ではない、そしてここにはこのような快楽が現存していたと言われており、その快楽が『ロトがかれとともに(出かけて行った)』により意味されているのである。しかし全般的には『ロト』により以下の記事から明白になるように、外なる人が意味されているのである。
天界の秘義1568
「その地はかれらがともに住むようにかれらをになう[のせる]ことができなかった」。これは内なる天的なものはその他のものとともに、すなわち、『ロト』によりここに意味されているものとともにいることができなかったことを意味している。アブラムは、前に言ったように、主を表象し、ここでは主の内なる人を表象しているが、しかしロトは主の外なる人を表象しており、ここではその外なる人から分離されねばならなかったものを表象しており、そのものとは内なるものはともに住むことはできなかったのである。外なる人の中には、善を求める情愛とそこから発してくる歓喜と快楽のような、内なる人がそれとともに住むことができる多くのものが存在している、なぜならこれらは内なる人のいくたの善の結果であり、また内なる人の喜びと幸福との結果であって、それらがその結果であるときはそれらは全く相応しており、そのときはそれらは内なる人のものであって、外なる人のものではないからである。なぜなら結果は、周知のように、結果のものではなくて、結果を生み出す原因から発しているからである、たとえば、顔から輝きでている仁慈は顔のものではなくて、内に存在している仁慈から発しており、それが顔をそのように形作って、その結果を示しているのである、または小さな子供たちの眼つきや身ぶりや互に遊んでいることの中に現れているかれらの無垢は顔付きやまたは身振りのものではなくて、かれらの霊魂を通して流れ入っている主の無垢から発しており、かくて現れている無垢は結果であり他のすべての場合も同一である。
[3]何が外なる人を内なる人に相応させ、また一致させるか、また何がそれらを一致させないかを明らかにするには、支配している目的を、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛を反省するのみで充分である、なぜなら愛は目的であるからである、なぜなら愛されるものはことごとく目的として認められるからである。かくてその生命は如何ような性質を持っているかが、またそれは死後如何ようなものになるかが明白となるであろう、なぜなら目的から、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛から、生命は形作られていて、人間各々の生命はそれ以外の何ものでもないからである。永遠の生命に―すなわち永遠の生命である霊的な天的な生命に― 一致していないものは、もしそれが身体の生命の中で除かれないならば、他生において除かれなくてはならないのであり、もし除かれることができないならば、その人間は永遠に不幸なものにならないわけにはいかないのである。
天界の秘義2324
「ロトはソドムの門に座っていた」。これは仁慈の善の中にいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者を、すなわち、ここでは『ロト』であり、悪い者の間にいるが、しかし悪い者からは離れている者を―そのことが『ソドムの門に座る』ことであるが―意味していることは、『ロト』の表象から、『門』の意義から、また『ソドム』の意義からも認めることができよう。すなわち、ロトはアブラハムとともにいたときは主の感覚的な部分を表象し、かくて主の外なる人を表象したのである(このことは第一部1428、1434、1547番に示した)。しかしここでは、ロトはアブラハムから離れているときは、もはや主を表象するものを保有しないで、主とともにいる者たちを、すなわち、教会の外なる人を、すなわち、仁慈の善の中にはいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者を表象しており、
[2]いな、本章では、ロトは教会の外なる人を、またはそれと同一の、外なる教会の初期の状態を表象しているのみでなく、その外なる教会が進行して行くさいの、またそれがその終わりに至ったさいのその状態を表象しているのである。『モアブ』と『アンモンの息子』により意味されているものはその教会の終わりであって、そのことは主の神的慈悲の下に以下に連続して記される事柄から明らかとなるであろう。聖言では一人の人物が互いに他に継続している多くの状態を表象することは普通の事柄であり、その状態はその者の生命[生活]の行為の継続により示されるのである。
天界の秘義2379
「ロトを家の中へ、かれらのもとへ引き入れられた」。 これは主が仁慈の善の中にいる者たちを守られることを意味していることは以下から明白である、すなわち、ロトの表象するものは(前に話された)仁慈の善の中にいる者であり、『家の中へ、かれらのもとへ引き入れること』の意義は守ることである。『家の中へ入れられる』ことは善の中に入れられることであり、善の中へ入れられる者は天界の中へ入れられ、天界の中へ入れられる者は主のもとへ入れられ、かくてかれらはその霊魂の方面で(魔鬼に)とりつかれて悩まされることからことごとく守られるのである。善の中にいる人間はその霊魂の方面では天使たちと交わっており、身体の中に生きている間にも天界の中にいることは(たとえその者はそのときそのことを知ってはいないで、形体的なものの中にまた準備の状態の中にいる結果、天使の喜びを認めることはできないにしても、そのように交わり、またそこにいることは)前に見ることができよう(1277番)。
3.塩の柱
天界の秘義2453
26節「彼の妻は彼の後を振り返って見た、それで彼女は塩の柱になった」。『彼の妻は彼の後を振り返って見た』は、真理が善から離れ去って、教義的なものを注視したことを意味し、『彼女は塩の柱となった』は真理の善はことごとく剥奪されてしまったことを意味している。
天界の秘義2454[5]
教会の人間が自分はいかような種類の生活を送っているかを最早心に留めないで、自分はいかような種類の教義を持っているかを心に留める時、真理は善からそれ自身を背けて教義的なものを注視すると言われているが、しかし教会の人間を作るものは教義に従った生活であって、生活から分離した教義ではない、なぜなら教義が生活から分離する時は、生命[生活]のものである善は荒廃してしまうため、教義のものである真理もまた荒廃してしまうのであり、即ち、塩の柱となってしまうからであって、このことは、教義のみを注視してはいるが、生命[生活]を注視していない者が、自分は教義から復活を、天界を、地獄を、実に主を、またその他教義に属したものを教えられてはいるものの、自分はそうしたものを信じてはいるか否かを考察してみる時、たれでも知ることが出来よう。