ラウレンシオ修士
(1614〜1691)
ラウレンシオ修士著/神の現存の体験/東京女子跣足カルメル会訳
1.神の現存の修行
2.主は彼を天界に連れて行かれた
1.神の現存の修行
P36
神の現存は、いつ、いかなる時も、儀礼に縛られたり、とりつくろったりせず―すなわち、なんら型にはまったところなしに―謙遜に話し、愛深く語りあいつつ、神とともにいることに慣れ、そして、これを楽しみとすることである。
だから、それはごく単純な、いわば、とぎれとぎれの会話である。聞かれるために高声を出す必要はない、神は私たちが考えるより、もっとずっと近くにおいでになるのだから。
念祷の時間は、他の時間とちがうはずだと思うのは、大きな誤りであり、私たちにとって、活動の時にその活動によって神に一致することは、念祷の時に念祷によって神に一致するのと同様に、厳正な義務である。
P39
人々は、神を愛することを学ぶために、いろいろの方法を探し、数えきれないほど、さまざまなことを実行してそこに達しようとする・・・それよりもむしろ、すべてのことを神の愛のためにし、神に愛を示すために、自分の身分上のすべての業を用い、神との心の交わりによって、その現存を保つようにするほうが、ずっと近道で、ずっと簡単ではないか?それには、少しも巧みさは必要ではない。率直に単純に、そうしさえすればよいのである。
P23
彼はこういう日常生活の用務にたずさわっている時のほうが、黙想の修行のためにそれから離れている場合よりも、ずっと深く神に一致していた。彼は、黙想からは、たいていひどく乾ききってもどって来た。
P35
いろいろの書物の中で、神にいくための、種々異なった方法や、霊的生活の様々な実践を見いだしたが、私は、それらは、私が、欲し求めていることを容易にするより、むしろ、私の精神を錯乱させるものだと信じた・・・それで私は、この地上にはあたかも神と自分しかいないかのように生活し始めた・・・
2.主は彼を天界に連れて行かれた
P20
時として神は、ご自分が恵むことを楽しみとされるこの憐れな者を見せようと、あたかも彼の手を取られるかのようにして、天国のすべての住民の前に連れてゆかれた。
P34
そして、私は時として、自分は『もう信じているのではない、見ている、体験している』と言い得るほど、明らかに神を見たてまつっている。