公正

 

 

 

1.公正

2.公正で公平

3.公正から公平を行い、義から義を行う者は良心を持っている

 

 

 

 

1.公正

 

 

 

天界と地獄364

 

 しかし自分の運命に満足し、入念に、また勤勉に仕事をし、勤労を怠惰よりも愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、基督教徒として生きている貧しい者はそうではない。私は、農夫や普通の人々の中にいて、世で生きている間、神を信じ、その仕事では、公正なことを為した者たちと時々話したことがある。これらの者は、真理を知ろうとする情愛にいたため、仁慈とは何であるか、信仰とは何であるかと尋ねたが、それは世では彼らは信仰について多くのことを聞きはしたが、他生では仁慈について多くのことを聞いたためである。それで彼らは以下のように言われたのである、即ち、仁慈は生命[生活]に属している凡てのものであるが、信仰は教義に属している凡てのものである、従って仁慈は凡ゆる業において公正なことを意志し[欲し]、為すことであるが、しかし信仰は公正に考えることであり、信仰と仁慈とは教義とそれに従った生活のように、または思考と意志のように、共に連結しており、人間は公正に考えることを、また意志し、行うとき、信仰は仁慈となり、そのときその信仰と仁慈とは二つのものではなくて、一つのものとなる。このことを彼らは充分に理解し、喜んで、自分たちは信じることは生活すること以外のものであることは世では考えなかったと言ったのである。

 

 

 

 

2.公正で公平

 

 

 天界の秘義5130[2]

 

 このことは人間の種々のものにより説明することができよう。何かを愛している者は、それが何であっても、その愛にぞくしているものを何であれ絶えず考えており、しかもそのことはかれが他の事柄を考えており、語っており、または行っているにしても為されているのである。他生ではこのことは各自の周囲の霊的なスフィアから非常に明白である、なぜならただそのスフィアから、そこにいる凡ての者は、いかような信仰に、またいかような愛にいるかが知られ、しかもそのことはたとえかれらが全く異なったことを考え、語っているにしても行われているのである(1048、1053、1316、1504−1520、2489、4464番を参照)、なぜならたれかの中に遍く行きわたっているものは[たれかを遍く支配しているものは]その行きわたっているものの[その支配しているものの]スフィアを生み出して、その者の生命を他の者の前に示すからである。このことから、私たちは主、救い、死後の生命について絶えず考えていなくてはならないと言われるとき意味されていることを認めることができよう。仁慈から信仰の中にいる者たちは凡てそのことを行っており、それゆえかれらは隣人を悪く考えないで、その思い、言葉、行為の凡ゆるものの中に公正と公平とをもっている、なぜなら主は仁慈とそこから派生している信仰とにぞくしているものの中に公正と公平とをもっている、なぜなら主は仁慈とそこから派生している信仰とにぞくしているものの中にかれらの心を維持され、凡ゆるものをそれに順応して処理されているため、遍く行きわたっているものは[遍く支配しているものは]個々のものに流れ入り、それを導き、支配するからである。仁慈から発した信仰のスフィアは天界を支配しているスフィアである、なぜなら主は愛とともに流れ入られ、愛を通して仁慈とともに流れ入られ、従って信仰のものである真理とともに流れ入られ、ここから天界の中にいる者たちは主の中にいると言われているからである。

 

 

 

天界の秘義6207

 

 天使たちの流入は特に人間の良心へ注がれており、即ち、彼らの働きかける面が存在している。この面は人間の内部に在るのである。良心は二重になり、内的なものと外的なものになっている。内的な良心は霊的な善と真理のものであり、外的な良心は公正と公平のものである。現今この後の良心は多くの者のもとに存在しているが、内的な良心は僅かな者のもとにしか存在していないのである。にも拘らず外的な良心を受けている者たちは他生で救われるのである。なぜなら彼らは、もし善で真のものに反して、または公正で公平なものに反して行動するなら、内的に苦しみ、責められるが、それはそのようなことを為したため名誉、利得、または名声を失うからでなく、善と真理とに、または公正と公平とに反して行動したためであるといった性格を持っているからである。しかしこうした良心が存在しない所には、時として良心まがいの非常に低い性質のものが他にあって、それが人間に真で善いものを、公正で公平なものを、行うように仕向けはするが、それはそうしたものに対する愛からではなく、自己と自分自身の名誉と利益のためなのである。これらの人物もまた不利な事柄がかれらに降りかかると苦しみ、呵責を受けもするのであるが、しかしこの良心は自己への愛と世への愛に属していて、その中には神と隣人に対する愛に関係したものは何一つ存在していないため、良心ではなく、それでそれは他生では現れはしないのである。こうした種類の人間もまた、純粋な良心を持っている者のように、非常に目覚しい義務を遂行することが出来るのである。なぜなら外なる形では彼らも同じように行動するからであるが、しかしそれは彼ら自身の名誉と名声のためであり、それで彼らはそうしたものの損失を恐れるに応じて、益々良くその隣人と国家とのために公共の義務を遂行はするが、これに反し、こうしたものの損失を恐れない者はただ追放にのみふさわしい共同体の一員である。こうした似て非なる良心をもっている者は良心の何であるかを知ってさえもしておらず、その何であるかを他から告げられると、それを嘲笑し、それは愚鈍または精神錯乱の結果であると信じるのである。こうした事柄を言ったのは、流入の実情のいかようなものであるかを明らかにするためである。即ち、良心は天使たちがその内へ流れ入る面であり、実にその中の善と真理に対する、公正と公平に対する情愛へ流れ入り、そのようにしてその人間を拘束はするものの、それでも自由の中に拘束していることを明らかにするためである。

 

 

 

 

天界の秘義7280

 

誤謬の中にいて、とりついて悩ます者らが抱くところの神的なものに対する恐怖については、恐怖こそ奈落の者らを抑制し、拘束しておく只一つの方法であることを知られたい。なぜなら恐怖は正しい者をも、悪い者をも共通に拘束するものであるからであるが、しかし正しい者に対してはその恐怖は内なるものであって、救いのための恐怖であり、即ち、彼らは己が魂が亡びはしないかと恐れるのであり、かくて自分たちは良心に反したことを、即ち、良心に属した真理と善とに反したことを何か為しはしないかと恐れるのであり、従って公正で公平なことに反したことを、かくて隣人に反したことを何か為しはしないかと恐れるのである、しかしこれは仁慈の情愛と連結している限り、聖い恐怖であり、まして主に対する情愛に連結している時は、聖い恐怖である。それで恐怖は小さな子供たちがその愛している両親に対して抱くその恐怖のようなものとなるのである。それで彼らは愛の善にいるに応じて、その恐怖は現れてはこないが、しかし善の中にいないに応じて、恐怖は現れ、不安となるのである。そうしたものが聖言に再三語られている『神を恐れる恐怖』である。

 

 

 

 

3.公正から公平を行い、義から義を行う者は良心を持っている

 

 

神の愛と知恵361

 

また公正から公平を行い、義から義を行う者は良心を持っていることもまた知られていないか。