「神さまの声が聞こえる」

おん父のすばらしいご計画

サンドロ・ニョッキ著

田中眞理子訳/燦葉(さんよう)出版社       

 

著者はイタリアで病院に勤める男性技師。1953年12月、著者が18歳のときのことでした。ある朝、起きて顔を洗い、着替えをしてから窓のところで祈りはじめると、力強い大きな声を聞きます。すると著者は時間の観念を無くしたようで、砂漠に横たわる自分の姿を見ます。そしてまた別の場所に移動すると、そこは映画館でした。著者は一瞬のうちに自分自身の生涯のシーンを見ます。

 

その後著者は主イエスからの、また、聖母マリアからのメッセージを聞くようになり、これらを記しています。啓示自体はそれほど多くはなく、それについての著者の考察が中心とも言えます。近年女性による新しい啓示が多く見られるなかで、男性によるものは珍しい気がします。小冊子ながら啓示に対する著者の非常に内的で高度な認識、考察が記されており、私には難解でした。しかし、とてもすぐれた良い内容という印象を受けました。

 

著者は「まえがき」で「私はこの経験を大勢の人のために書としてしたためました。これを読まれるあなたはあなただけの受取人としてこれを受け止めてください。光と恵みがありますように。」(P4)と述べています。当然のこととは言え、自分の理解と必要に応じて汲み取れるものをくみ取ったらよいのではないかと思います。私も最初に読んだとき、以前から疑問に思っていたことに対する回答をこの本からいただきました。今回もまた別のことで気づかせていただきました。

 

なお、父という言葉も出て来ますが、全体から読む限り著者もやはり主イエス・キリストを唯一の神ご自身と認識しているように思います。

 

 

1.最後の審判

2.聖母マリア

3.ルイザ・ピッカレータの本

4.聖体拝領

5.単純で小さな人間の意志の行為

 

 

 

 

1.最後の審判

P17

「それは映画館の入口でした。入場無料で、誰でも自由に入れました。観客がほぼ集まっていました。上映シーンは私の全生涯でした。

一瞬の間で私の一生を見たのです。行いの一つ一つを意識し、その一つ一つの行動の時間や場所を見ました。そのときの、私の行動の意図も見えたのです。すべてのことは意識から出ていて、誰かが何かを反対したとしても、否定したり自分を正当化したりすることは絶対にできないということを、私は知っていました。すべての私の生活の一つ一つの行動は、私自身の完全な認識からのものだったからです。」

 

P18

「秤り(裁判所を象徴する天秤皿のような)が地上から一メートルくらいの高さで私の方へ進み、地面から少し離れた道路の右側の近距離のところで止まりました。(中略)今度は、丸石のようなものが現れました。小さな石のようなものではなく、私の全生涯で犯した全部の大きな罪を意味していました。それが秤りの皿に落ちました。(中略)そのすぐあとに、ほぼ同じ大きさの丸石が地平線のところから現れ、同じ方向から秤りに近づいてきました。

 

(中略)もう一つの石は私のすべての善い行いで、悪い行いとほぼ同じ大きさのように私は思えたのです。(中略)

 

しかし現実は、ちょっとちがっていました。私のした善い行いの石は、結果的に自分を良く見せようとする傲慢から出たもので、それは他の人から評価されたいと思ったり、自分の良心の呵責を静めようとするところから出たものでした。私自身のためにやったことで、神様のためのものではなかったのです。それでその善行は悪行よりも劣ってしまって、大きな罪の皿の上にその善行までもが付け加えられる始末となってしまったのです。」

 

2.聖母マリア

P22(そこで著者は次のように考えます。)

 

「もう私は永遠の滅びに定められている・・・主は私にそれをお示しになったのだ。私がここにいることは、憐れみ深い主のおかげだ。私にはまだ一握りのいのちが与えられているということはわかるのだが、地獄へ落ちてしまうこの身だ・・・神が私に与えているこのわずかないのちを、楽しもう・・・気晴らしして、もっと、前よりも勝手でひどいことをやって・・・どうせ自分の行く末はわかっているのだから・・・」

 

(すると声の聞こえたあの窓からまたもや声が聞こえます。それはイエズスの声でした。)

 

「それなら、お母さんを何のためにあなたにあげたのかな。」

 

「私は、イエズスがまだ健在の地上の私の母を指しておっしゃったわけではなく、聖母マリアのことを指しておられることを充分承知していました。」

 

 

P24(すると今度は気圧計とピストンと小窓がついている腕のある大きな機械が見えます。機械の腕が動き出すと、近くにあったテーブルの上の萎びたリンゴを取り、機械の中へ運び、突然全部の機械が動き出します。今度はもう一つの金の腕がみずみずしくなったリンゴを機械の中から取り出すと、金の皿の上に置き、王座に坐っておられる王にそれを差し出します。そしてまたイエズスの声が著者に話し掛けます。)

 

「この方は、あなたのお母さんです。」

 

(6ヶ月以上たって、著者はグリニョン・ド・モンフォールの「聖母マリアの真の信心」の本の中で―147章―、農民がたった一つのリンゴを王様に献上するとき、直接王様に差し出すのではなく、女王から王様へ差し出すよう願う場面に出くわします。そして著者は主が天の母を与えて下さった理由を理解し、感謝をささげます。)

 

「モンフォルの言葉を読み、大きな機械の形が、鮮明な驚きと一緒に、私の脳裏に蘇りました。私はびっくり仰天してしまいました。私はまたもひざまずきました。熱心な祈りが口をついて出ていたのです。

『アヴェ、アヴェマリア・・・』

私は祈りました。それ以上に感謝しました。天の母の手助けで、また無限の哀れみと無限の愛のキリストが私を許し私たちの母として聖母を本当に与えられたということを私にわからせられたのです。その本は、数ヶ月前に受けた私の体験のすべての瞬間を、私にもう一度見せてくれたのです。」

 

 

P34(ある日、教会の中央祭壇にある聖母の像の前で著者は親愛を込めて「やあ、女王。」と挨拶します。それはイエズスが聖母に与えた地位に尊敬と敬意をこめてのことでした。すると、聖母からの意図的な沈黙を感じます。二度呼びかけても沈黙があり、聖母のお気に召さなかったのかとしょげ返ります。三度呼びかけると、声が聞こえます。)

 

「全部の女王が、母親とは限りません、でもすべてのお母さんは女王です。」

 

「聖母マリアは女王よりも、私たちのお母さんであることを望んでおられるということがわかりました。新しい挨拶が自然と口からほとばしり出ました。

『やあ、お母さん。』

ミサ中祈っていると、祝いで満ちたすばらしい王座が見えました・・・。次に天の母の聖母マリアの戴冠式が地上の教会で行われているのが、見えました。私はそれを幻想の結果だと思っていました。午後になってその同じ朝、その同じ時間に、ローマで教皇が天の母に冠を授けたことを知って感銘に浸ってしまいました。」

 

 

P100

もし神が一人のお母さんを私たちに与えることを考えてくださったのなら、このような配慮を無視してよいのでしょうか。この態度は“聖母を自分の家に迎えた”使徒ヨハネの態度ではないのでしょうか。

 

 

3.ルイザ・ピッカレータの本

(著者はサン・ジョバニ・ロトンドのピオ神父のところに巡礼に行ったとき、その町のアブレシュ・フェデリコというピオ神父の写真で有名な人を訪ねます。そしてその人が読んでくれたのが、ルイザ・ピッカレータの本でした。)

 

P40

アブレシュ氏:

「もしあなたが神の助けで、イエズスがルイザ・ピカレッタさんに短時間に現れて話された言葉を理解するなら、あなたの問題が解決するばかりでなく、神のみ旨に対しての奉献の大きな価値がわかりますよ。」

 

P41

アブレシュ氏が読んでくれたルイザ・ピッカレータの文章:

“私のイエズスは、突然私にお現れになり、私が挨拶を申し上げる間もなく私にこう言われました。「ルイザ、あなたの意志を私にもらえないか。そのかわりに私のをあなたにあげる。」不意のイエズスのご訪問に私は驚き、またイエズスの私への申し出にさらに驚き、イエズスに私はこうお答えいたしました。

「まあ、イエズスさま、あなたは気でも狂われたのでしょうか。あなたは損をなさいますよ。」イエズスは私にこうおおせになられました。「もしあなたがいいと言ってくれるのなら、私は俳優と観客と同時になります。私があなたの中で行った一つ一つのことを、あなたが行ったかのように受けます。」“

 

(著者は、無限の神がなぜ有限の人間のためにこれほど苦しんで生贄となる必要があったのか、それはあまりに不釣合いではないか、そこから神性を持たないキリストを信じるようになるのではないかという疑問を持っていました。自分でも考え、神学者にも質問したのですが、誰からも納得のゆく回答を得られず、苦しんでいました。)

 

P44

「一人の神学者は、海の水を全部自分の小さな穴に入れたいというような、つまり、海の水が神で、小さな穴が私の頭という、そういう要求は持つべきではないと聖アゴスティー(アウグスティヌス?)の有名な引用を用い私をたしなめたことがありました。それを私なりに受け入れていました。しかしある点からは、もしこれが神ご自身が私に与えた知性の表明ならば、私の理論をたいせつにしてくださるだろうと、尊大にも願っていたのです。」

 

P45

「私の執拗な探求を前にして大勢の司祭は、何と答えてよいかわからず、神を試す者として私を疑い、細かく私を調べあげたのです。そのことがまた新たに、この探求が良心の不安として私の心を重くさせていたのです。」

 

(著者はこのルイザ・ピッカレータの言葉を聞かされた時、一瞬のうちに理解します。)

 

P46

「しかしイエズスは、そのとき、そのようなことがすべてこの上なく歓迎されるものであるということを、私にわからせてくださったのです。」

 

「すぐに私の心の中に幸せな安らぎが訪れ、すべての不安は消えていきました。主が私を受け入れてくださっているという考えは、心の中は困難をきわめた状態であったにもかかわらず、安らぎを深く覚えたのです。主がルイザさんにもうすでに解答を与えておられた、あの私を苦しめていた難問に対して、突然確信をくださったのです。企画者の主以外、誰も与えることのできない解答でした・・・。私のためにもその答えは訪れようとしていたのです。」

 

P47

「『もし、あなたがいいと言ってくれるなら・・・』無限の神が、創造主ですべてを治める方が、創造物に行動を起こす許可を求めているのです。創造物である人間に与えた自由をこんなにたいせつにしておられるとは。

もし全人類が隣人の自由をこのようにたいせつにするのなら、あのような安らぎが世界にあることでしょう。

「・・・私は俳優となり・・・」俳優という言葉は、聖パウロが言った「もはや私が生きているのではなくキリストが私の中で生きているのです。」という言葉を私に思い出させていました。」

 

 

4.聖体拝領

P97

「聖体拝領は秘蹟であり、霊の一致や意志の一致へ人を到達させる手段です。もしあなたが、このような一致に到達しないとしたら、聖体拝領に何の意味があるというのでしょう。それは一つの手段、一つの目的なのです。もし何度も受けたいと思うのなら、いつでも何度でもあなたが望むように受けてよいのです。

 

 主と絶え間ない一致を実現するには、聖体拝領を上手に利用することを私たちが知ることであり、それを主は深く望まれているということがすぐに私にはわかりました。主との一致が、主の一番喜ばれる一致なのです。その目的のために、聖体拝領の聖体が定められたのです。そのとき主の言葉を思い出しました。

「私たち皆が、ただ一つとなるように。」

 

主の言葉は、いつものようにこの上ない平安をもたらしました。その言葉は、私に歩む道を示し、以前私が抱いていた秘蹟の聖体拝領に対して、約束や形式にとらわれるのではなく、主と一致する喜びを私に与えられたのです。それはより完全で、より内密な一致のために非常に効果的な方法となりました。

 

 心の中に平安と喜びが押し寄せてきました。主のみ旨を実行するのに、私を助けてくださるようにと、感謝しながら祈りました。主がお気にいる方法で自分をなくし、主を第一とし、主にゆずり、主に行いを委ね、主といつも一緒に一致しているように祈りました。

 

5.単純で小さな人間の意志の行為

 

P75

 ある日、妻は病院勤務で家にはおらず、私は台所に立って食器洗いに忙しくしていました。そのとき、イエズスがルイザ・ピカレッタさんを呼ばれたことについて考えていました。ピカレッタさんが神のみ旨に自分の生活を奉献したとき、何と単純に主はピカレッタさんを呼ばれたことでしょう・・・。

 

「ルイザ、私に呼びかけなさい・・・ものを望むだけで充分です・・・あなたの人間の望みを私に献げてくれないか。そうしたら私はあなたのところへ神の意志のすべての力で、あなたの一つ一つの行いを変えて高め、神聖化するように急いであなたのところへ行きます。」

 

 私はイエズスが日常茶飯事のこと、ピカレッタさんの生活の全行動をどんな瞬間でも、意味すらない行為までも求められたことを思い出していました・・・。

 

すぐに私の心の中に光りが灯り、神のみ旨の中で生きる望みが“食器を洗う”という中にも広がり、必要なことのように広がっていきました。それからこのようにしていることは正しいことで、すべては神に基づくことだということを感じていました。イエズスのルイザ・ピカレッタさんの言葉を強く確信し、あのとき、この言葉を口にしていました。

 

「イエズス、来てください。私の意志をおとりください。あなたのと交換してください。あなたが、私の中で生きて、望み、行動してください・・・食器を洗うこの私の行為をあなたの存在で神聖なものとしてください。この仕事を無限の価値へと変えてください。父なる神に名声と栄光を献げるのにふさわしくしてください。」

 

(中略)

 

突然イエズスが愛をこめ、この上ないデリケートさで姿を現されました。ちょうど貧しい物乞いが、少しの物乞いに行くときに、大変小さな信頼のあらわしが大きな奇跡を生むように、ほとんどつま先立ちで私の目に今までにも味わったことのない優しさで現れました。私の左側に、祭壇でミサを挙げている司祭の姿で、ご自分を現されたのです。

 

(中略)

 

そのときイエズスは私に話されました。

「ごらん。司祭が人間の意志の単純な行為で、ホスティアの奉献の中にいる私を呼んだとしても、私は急いでその中に行きます・・・。でもあなたは多分、それは人間の意志に基づいていると思っているでしょう・・・。でもちがうのです。司祭は私の前からの行為にあらわした望みを最大限に利用しているのです・・・。私がルイザ・ピカレッタに言ったことに基づいて、人間のあなたの意志の単純な行為であなたは私を呼び、私の明らかな望みを実現するだけなのです。それを望んでいるのは私です。」