神は愛
1.マリア・ワルトルタ
2.サンダー・シング
1.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上P106/444・4
神は愛(カリタ)に結ばれています。愛はまことに、深く愛し合う夫婦よりも親密な、聖霊の霊そのものです。神ご自身が愛です。愛とは、神の最も顕著な特徴です。神のあらゆる属性の中で、愛は至上の原型です。なぜなら、神のその他の属性はすべて、愛から発しているからです。愛が働かない力がありますか? 愛が教えない智があるでしょうか? 赦す愛がない慈悲がありますか? 愛が支配しない義があるでしょうか? 神の属性であるすべてについて、同様に言うことができます。
さて、この話を聞いたあなたたち、愛を持たない人が神を得られると思えますか? いいえ。愛でない神を受け入れると思えますか? 愛は一つであり、創造主と被造物を抱擁します。半分だけということはなく、創造主を受け入れるなら、他の半分、すなわち、隣人をも受け入れます。
マリア・ワルトルタ/復活/P200
牧者で航海者ペトロ! いつかあなたは、牧者だけでは足りず、航海者だけでも足りないであろう。地獄的で残酷なタコの足の群れが羊たちを奪おうとするのを守るためには、双方とも備わった者とならねばならない。恐るべき時代に、牧者または航海者としてのあなたの羅針盤が命と救いになる。それにすべてが語られている。聖なるすべての上智、霊魂たちの問題に対してのすべての回答は、そこにすべて書かれている。では、司祭たちと信者たちとが、その方針を離れないように努められよ。福音と方針にどんな疑いも生じさせないようにせよ。福音に理屈っぽい変化がないように注意せよ。福音とは私自身である。誕生から死に至るまで。福音には神がおられる。なぜならば福音には御父と子と聖霊の業が現わされているからである。福音は愛である。私は言った。・・・私の言葉は生命である。私は言った。・・・神は愛である。そのために民々は私の言葉を知り、自分たちの中に愛、すなわち神をもつべきである。それは神の国をもつためにである。なぜならば自分の中に神を持たない人は、自分の中に生命をもっていないからである。神のみ言葉を迎えようとしない人々は、御父と一致することはできず、私が望むような聖なる柵の者でもあり得ない。彼らはぶどうの木の枝ではないだろう。私の言葉をすべて、もしくはある部分を拒む人には、ぶどうの木の樹液は流れていない。私の言葉は養い生長させ、そして実を結ばせる樹液である。あなたたちに教えた以上の事を、すべて私の記念として行うべきである。
2.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P155
神は愛の本源である。世界を宇宙空間に保ち続けている引力は、いわば、愛であり神に本源を発する霊的引力の物的表現である。磁石が鉄を引き寄せるのは、鉄が磁力に対する感応力をもっているからである。金はこれに反応しない。金は貴金属であっても磁力に対する感応力をもたないからだ。同じように、神は心底悔い改め神に感応した者を、罪の重さに関わりなく御元に引き寄せ、自分を義人と思い込み神の愛の支配力に心開かぬ者たちは引き寄せにならない。
接吻は子に対する母の愛の外的しるしだが、子が伝染病にかかれば母は接吻を控えるだろう。それでも、苦しむわが子に対する母の愛は、少なくなるどころかますます燃え上がる。子は、母の愛と気遣いをいつも以上に必要としているからだ。同じように、神は、罪という伝染病にかかった人々を見捨てているようにみえても、彼らに向けられる神の愛は、子に対する母の愛よりも限りがない。神の忍耐もまた限りがない。人はちっぽけなヤカンのように、ごくささいなことにもすぐに湯気を立てるが、神はそうではない。神がそんなに短気だったら、この世はとっくの昔に灰と化していただろう。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P156
二人が一人を愛せば、競争になった互いに嫉妬しあう。だが、神への愛はこれとは違う。神を愛する人は、他人が神を愛しても嫉妬したりはしない。むしろ、愛さないことを悲しむのである。このような人対人の愛と、人対神の愛の違いは、神の愛が無限であることによる。人間は愛する力が限られているので、自分を愛する者すべてに平等に愛を返すということはできない。しかし、神の愛する力には際限がない。だからこそ、万人を愛することができるのである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P156
キリストがわれわれの中に住まわれれば、われわれの生活全体がキリストに似たものとなる。塩は水に溶ければみえなくなるが、なくなったわけではない。水をなめてみれば、塩の存在は確かめられる。それと同じく、内住のキリストはたとえ目にみえずとも、われわれに分かち与える愛によって、人にもはっきりわかるようになる。