ユダ

ヤコブの第四子

 

 

天界の秘義3880

 

「彼女は言った、こんどはわたしはエホバを告白しよう」(創世記29・34)。これはその最高の意義では主を、内意では聖言を、外意ではそこから発している教義を、現在の場合では愛の神的なものと主の天的な王国とを意味していることは、『告白すること』の意義から明白である。外なる、またはそれに最も近い内的な意義では告白することは聖言から発している教義を意味していることは明らかである、なぜなら告白は、普通の言葉においてすら、人間が主の前に自分の信仰を言明すること以外の何ものでもなく、かくてそれはその中にその人間が信じていることをことごとく包含しており、従って何であれかれにとり教義であるものをことごとく包含しているのである。内意では『告白すること』は聖言を意味していることはそのことから生まれている、なぜなら信仰と仁慈との教義はすべて聖言から発しなくてはならないからである、なぜなら人間は人間自身からでは天的なものと霊的なものを何一つ知ってはおらず、それでかれは聖言である神の啓示からのみそれらを知ることができるからである。最高の意義では『告白すること』は主を意味していることは、主が聖言であられ、従って聖言から発している教義であられるためであり、聖言はその内意では主のみに関わりを持っていて、主の王国をとり扱っているためである(1871、2859、2894、3245、3305、3393、3432、3439、3454番を参照)。かくて『エホバを告白すること』により愛の神的なものとその天的な王国とが意味されている、なぜなら主は神的愛そのものであられ、その神的愛の流入が主の王国を構成しており、しかもそれは主から発している聖言によって行われているからである。『エホバを告白すること』から名づけられた『ユダ』により愛の神的なものと主の天的なものとが意味されていることは前に示されたところであり(3654番)、そこからここに『告白すること』にはこうした意義があると言われているのである。

 

 

天界の秘義3881[10]

 

 これらの、またここに省略された多くの記事から、『ユダ』により聖言に意味されていることを認めることができよう、またそれがユダヤ民族でないことも認めることができよう、なぜならこの民族は天的な教会であるどころか、または主の天的な王国であるどころか、主に対する愛と隣人に対する仁慈については、また信仰については凡ゆる国民の中でも最悪のものであって、しかもそれはかれらの最初の父祖たちであるヤコブの息子たちの時代から現在の時までも変わらないからである。(にもかかわらずこのような人物が主の王国の天的な事柄と霊的な事柄とを表象することができたことは、前の3479−3481番に見ることができよう、なぜなら表象するものにおいては人物はかえりみられはしないで、ただ表象される事柄のみがかえりみられるからである、665、1097、1361、3147、3670番)。

 

 

天界の秘義4750

 

ユダ・・善い意味では天的な愛の善(3654、3881番)

     その対立した意義では何であれ善にはすべて反抗すること。

 

 

 

天界の秘義4750

 

「ユダはその兄弟たちに言った」。これは、教会の中にいて何であれ善いものにはことごとく反抗する心の腐敗して者らを意味していることは以下から明白である、即ち、ユダの表象は善い意味では天的な愛の善であるが(3654、3881番)、しかしその対立した意義では何であれ善にはすべて反抗することであり、そのことについては後に述べよう、『兄弟たち』の意義は教会の中で分離した信仰の中にいる者らである。ユダによりここでは何であれ凡ゆる善に反抗している者らが表象されていることは、善い意味では天的な愛の善の中にいる者たちが聖言にユダにより表象されているためである。天的な愛は主に対する愛であり、そこから派生した隣人に対する愛である。この愛の中にいる者たちは主と極めて密接に連結しており、それで最も内なる天界におり、そこで彼らは無垢の状態の中にいて、そこから他の者たちには小さな子供たちとして現れ、全く愛の形として現れている。他の者たちは彼らの近くに行くことは出来ない、それで彼らは他の者のもとへ遣わされる時は、他の天使たちに取り囲まれており、その天使たちによって彼らの愛のスフィアが和らげられるのである、もしそれが和らげられないと、それは彼らがそのもとへ遣わされる者たちを失神状態に投げ込むのである、なぜなら彼らの愛のスフィアが骨の髄までも浸透するからである。

 

 

 

天界の秘義4750[]

 

 天的なものと呼ばれているこの愛またはこの愛の善は善い意味のユダにより表象されるように、その対立した意味では天的な善に反し、かくて何であれ善のすべてに反したものがユダにより表象されている。聖言の大半のものには二重の意味があり、即ち、善い意味とそれに対立した意味がある。善い意味からそれに対立した意味の性質が知られるのである、なぜなら何であれその対立した意味に含まれているものはことごとく、善い意味に含まれているものには、真っ向から対立しているからである。

 

 

 

天界の秘義4750[]

 

 愛の善には全般的に二つのものが在る、即ち、天的な愛の善と霊的な愛の善が在る。天的な愛の善には自己愛の悪は真っ向から対立しており、霊的な愛の善には世への愛の悪が真っ向から対立しているのである。聖言ではユダによりその対立した意義では自己愛の中にいる者らが表象され、イスラエルにより世への愛の中にいる者らが表象されている。このことの理由はユダにより主の天的王国が表象され、イスラエルにより主の霊的王国が表象されたということである。

 

 

 

天界の秘義4750[]

 

 地獄もまたこの二つの愛に従って明確に区別されている。自己愛の中にいて、何であれ凡ての善に反抗している者らは、最も深い、それゆえ最も痛ましい地獄にいるが、しかし世への愛の中にいて、何であれ凡ての善にそれほど反抗していない者らは、それほど深くはない、それでそれほど痛ましくはない地獄にいるのである。

 

 

 

天界の秘義4750[]

 

 自己愛の悪は、一般に考えられているように、誇りと呼ばれているかの外なる高慢ではなくて、隣人に対する憎悪であり、そこから復讐に対する燃えるような欲望であり、残酷における歓喜である。これが自己愛の内部である。その外部は自己に比較して他の者を軽蔑することであり、また霊的な善の中にいる者たちに対する嫌悪であり、これには時として明白に高慢または誇りが伴うこともあるが、伴わないこともある、なぜなら隣人をこのように憎悪する者は、自分自身を除いては、また自分自身と一つのものとなっているものと見倣している者たちを除いては内的には誰一人も愛していないのであり、かくて彼は彼自身の中に彼らを、また彼らの中に彼自身を、ただ自己のみを求めて、愛しているからである。

 

 

 

天界の秘義4750[]

 

 ユダによりその対立した意義において表象されている者らの性質はこのようなものである。ユダヤ民族は最初からでさえもこのような愛の中にいたのである、なぜなら彼らは全世界の凡ての者を最も卑しい奴隷として見なし、また自分自身に較べては無価値な者として見なし、また彼らを憎み、あまつさえ、自己と世を求める愛から相互に連結しないときは、自分の交友と兄弟たちさえも同じ憎悪をもって迫害したからである。こうした気質は依然としてその民族のもとに残っているのである、しかし彼らは今は外国の土地で黙認の下にお情けで住んでいるため、それを隠しているのである。

 

 

天界の秘義4814

 

『ユダはその兄弟たちに言った、私たちが兄弟を殺し、その血を隠しても何の得があろう。さあ、私たちは彼をイシマエル人に売ろう』(26、27節)、そのことにより神的真理[神の真理]が彼らにより、特にユダにより遠ざけられたことが意味されたのであり、ユダによりそこではその最も近い意味ではユダの種族が意味されており、全般的には教会の中にいて、何であれ善にはことごとく反抗するところの腐敗した者らが意味されているのである(4750、4751番)。

 

 

天界の秘義4815

 

「ユダはその兄弟たちから離れて下った」。これはヤコブの子孫を意味し、特定的には他の種族から分離したユダの種族を意味していることは、以下から明白である、即ち、ユダの表象はその普遍的な意義ではヤコブの子孫であり、特定的な意義ではユダの種族と呼ばれている種族であり、『その兄弟たちから離れて下ること』の意義は他の種族から分離することであり、ここでは彼らよりも更に悪い悪へ入って行くことである、なぜなら『下ること』は、『上ること』が善に上げられることを意味しているように(3084、4539番)、悪に投げ下ろされることを意味するからである。

 

 

 

天界の秘義4815[2]

 

ユダの種族は他の種族から分離されたことは知られているが、その理由はこの種族は主の天的な王国を表象するためであったが、その他の種族は主の霊的な王国を表象するためであったのである。こうした理由からまたユダは表象的な意味では天的な人であり、普遍的な意味では主の天的王国であったということであり(3654、3881番)、他の種族は『イスラエル人』という一つの名で呼ばれたのである、なぜならイスラエルはその表象的な意味では霊的な人であり、その普遍的な意味では主の霊的王国であるからである(3654、4286番)。

 

 

 

天界の秘義4815[3]

 

ユダの種族が他の種族よりも更に悪い悪へ入ったことは、以下の言葉により特定的に意味されている、即ち、『ユダはその兄弟たちから離れて下って行き、わきへ外れた』。ユダの種族は他の種族よりも更に悪い悪へ入ったことは聖言の、特に予言者の書の多くの記事から明白である、例えばエレミヤ記には−

 その背信の姉ユダは見た・・・堕落したイスラエルが姦淫を犯したその凡ての方法のためにわたしが彼女を出して、これに離縁状を与えた時。それでもその姉の背信のユダは恐れないで、また行って、淫行を行った、それで彼女の淫行の声で地は冒瀆され、彼女は石と木と姦淫を犯した、しかもこの凡ての事があってもユダはわたしに帰らなかった、堕落したイスラエルは背信のユダよりもそのを義しくした(エレミヤ3・7−11)。

 

またエゼキエル書には−

 彼女の姉は実際見た、が、彼女は彼女よりもその愛を腐敗させた、彼女の淫行はその妹の淫行よりも甚しかった(23・11から終わりまで)。

 

 

天界の秘義4815[4]

 

 内意ではその種族がいかようにして誤謬に陥り、そこから悪に陥り、最後には全く偶像崇拝に陥ったかについてその種族のことが記されているのである。このことが実際その種族が他の種属から分離する以前に、またそのようなことが起るようになった以前に、その内意に記されているのであるが、しかし内意に在るものは神的なものであり、神的なもの[神]には未来の事柄は現在なのである。(申命記31・16−22、32・15−44にこの民族について予言されていることを参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義4818[2]

 

このことは、かの民族の起原はいかようなものであったかを示している、即ち、彼らの三分の一はカナン人の母から出ており、彼らの三分の二は義理の娘から出ており、従って凡ての者は正当でない関係から生まれていることを示している、なぜならカナン人の娘たちとの結婚は(創世記24・3、出エジプト記24・16、申命記7・3、列王記上11・2、エズラ記9章と十章から明白であるように)厳しく禁じられ、義理の娘[嫁]と臥すことは、モーセの書に明らかなように、重罪であったからである−

 

もし男がその義理の娘と臥すなら、その二人とも必ず殺さなくてはならない、彼らは道を乱したのである、彼らの血は彼らに帰さなくてはならない(レビ記20・12)。(中略)

 

更にタマルから生まれた者たちは淫行から生まれたのである。なぜならユダは、彼が彼女のもとへ入ったときは、彼女は娼婦であると考えたからである(創世記38・15、16、21)。このことはユダヤ民族の起原は何処から発し、いかような性質のものであったかを示し、また彼らが『私らは淫行から生まれたのではない』と言った時は(ヨハネ8・41)、偽りを語ったことを示しているのである。

 

 

 

天界の秘義4818[3]

 

この起原が意味し、また表象していることは以下の記事から明らかである、即ち、彼らの内部はこのような性質のものであり、またはこのような起原を持っていたということである。ユダがカナンの人間と結婚したことは悪の誤謬から来ている悪から発した起原を意味している、なぜならそのことが『カナン人、一人の男の娘』によりその内意に意味されているからであり、彼がその義理の娘と臥したことは悪から発した誤謬化された真理を意味しているからである(3708番)。悪の誤謬から発した悪は自己愛の悪から(即ち、この悪の中にいる者らにより)孵化され、聖言の文字の意義により確認されたところの誤った教義から発した生命の悪である。そうしたものがユダヤ民族における悪の起原であり、またそうしたものがキリスト教世界における或る者らにおける、特に聖言の中でバビロンにより意味されている者らにおける悪の起原である。この悪は内なる人の中に何一つ良心が形作られることが出来ないほどにも内なる人へ入る道をことごとく閉じてしまうといった性質のものである。なぜなら人間はその誤った教義から為す悪を、彼はその教義が真のものであると信じているため、善であると信じており、そのため彼はそれを許されることとして、自由に、しかも歓んで行うからである。かくて天界は彼に開かれることが出来ないほどにも閉じられてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義4818[4]

 

この悪の性質は例により示すことが出来よう。エホバはただ一つ一つの民族のみを選ばれたのであり、他の人類はすべてそれに対しては奴隷であり、心のままに殺しても良いし、または残酷に取扱ってもよいほどに卑しいものであると自己愛の悪から信じておりー現今ではバビロンの民族もまたそのように信じているのであるが、この信念を聖言の文字の意義から確認している者らのもとでは、そのとき彼らがこの誤った教義からまたその教義を基礎としてその上に築いた他の教義から行う悪は何であれことごとく悪の誤謬から発した悪であって、内なる人を破壊し、良心がその内に仮にも形作られるのを全く不可能にしてしまうのである。これらの者が聖言に『血の中に』いると言われている者である、なぜなら彼らは、彼らの信仰箇条を崇拝しないし、かくて彼ら自身を崇拝しないし、彼らの祭壇に捧げ物を捧げない全人類に対し残酷な憤怒に燃え上がっているからである。

 

 

 

 

 

天界の秘義5775

 

「ユダとその兄弟らとは入った」。これは教会の善がその諸真理とともに、を意味していることは以下から明白である、すなわち、ユダの表象は教会の善であり(5583、5603番を参照)、その兄弟の表象は自然的なものにおける諸真理である。

 

 

天界の秘義5782

 

ユダの表象は教会の善である(5583、5603、5775番)。ユダの表象については、その最高の意義ではかれは主の神的な愛の方面を表象し、内意では主の天的な王国を表象し(3654、3881番を参照)、かくてそこの愛の天的なものを表象していることを知らなくてはならない、それでここではユダは、自然的なものにおける教会の愛の善を表象しているのである、なぜならかれは今や、内なるものと連結することになっているところの、自然的なものの中に在る物を表象している者たちの間にいるからである。