十字架のヨハネ

(1542〜1591)

 

 

卑しめられ、十字架につけられたもうたわれわれの偉大な神

(十字架のヨハネ・小品集・P167)

 

 

 

ドン・ボスコ社/「カルメル山登攀」「暗夜」

「霊の賛歌」「愛の生ける炎」「小品集」

 

 

 

 

1.主(イエス・キリスト)こそ神

2.認識

3.霊魂はすべてが自分の善のためであったことがわかる

4.激しく、厳しい浄化のためには偉大な素質が必要

5.自分一人で天国に行くのはあまりにも小さなこと

 

 

 

 

1.主(イエス・キリスト)こそ神

十字架のヨハネ・小品集・P167

神が天において、われわれにそれをお与えになるまでは、かの女は抑制と忍耐の徳を修練することに努め、卑しめられ、十字架につけられたもうたわれわれの偉大な神に、苦しみによって、いくぶんでも似ることを望むべきです。

 

 

2.認識

十字架のヨハネ・愛の生ける炎・P193

 

霊魂は神がその本質においては無限のへだたりをもちながら、神ご自身がすべてのものであることを深く悟るので、これらの事物をそれ自体においてよりも、神の本質において、いっそうよく知るのである。これがこの目覚めの大きな愉悦である。即ち、神によって被造物を知るのであり、被造物によって神を知るのではない。これは即ち原因によって結果を知るのであり、結果によって原因を知るのではない。結果による認識は二次的認識で、前者は実態的認識と呼ばれる。

 

 

3.霊魂はすべてが自分の善のためであったことがわかる

十字架のヨハネ・愛の生ける炎・P89

 

霊魂はすべてが自分の善のためであったことがわかり、今まで闇の中にいたとしても、これからは全き光の中にいることを認める。

(あなたは闇の中でも明るく、夜は昼のように輝く・・・)(詩篇138・12)

以前は患難の中に沈んでいたとしても、今は慰めとみ国の分け前にあずかっているし、霊魂に、また肉体にも与えられた神的賜によって、かつての外的内的苦しみが十二分に報いられたのであり、その試練の一つでさえ最高に貴重な報酬を受けなかったものは一つもないのを見て、大いに満足して「あなたは負い目のすべてを支払ってくださる」と言う。それはちょうどダビデが試練から救われた後、その詩の一つの中で「あなたが私に科された患難は、なんと数多く苦しかったことだろう。しかし、あなたは私をそこから完全に解放され、地の深みから私を引き出してくださった。あなたは寛大さのすべてを広げ、私の方に御目を向けて、あふれるばかりの慰めで私をみたしてくださった」(詩篇70・20、21)と言って、神に感謝を献げているのと同じである。

 

 

4.激しく、厳しい浄化のためには偉大な素質が必要

 

十字架のヨハネ/暗夜/P137

 

 なぜなら、これほど激しく、厳しい浄化のためには偉大な素質が必要だからである。前もって、下級部分の柔弱さが改められることがなく、また神とともにその後に楽しむようになった甘味で味わいに満ちた交わりによって、神における剛毅を獲得することがなかったならば、自然性はこの霊的浄化に耐えるだけの力も素質も持つことはないにちがいないからである。

 

 

 

 

5.自分一人で天国に行くのはあまりにも小さなこと

 

 

ドン・ボスコ社/十字架のヨハネ小品集P199

 

すべての霊魂の、その身分、その階級における最高の完徳は、自分の才能と能力に応じて神の模倣に進歩し成長することである。そして、最も驚くべき、最も神的な事とは、人々を改心させ、征服するために神の協力者となることである。なぜならば、神のみ栄えはこれにおいて輝くのであり、神にならうことは最大の光栄であるから。そのために、われらの主キリストは、それらを、おん父の事業、おん父のこととよばれた。霊魂が愛によって神に堅く一致すればするほど、隣人に対する同情が大きくなるのは明白な事実である。なぜならば、愛すれば愛するほど、われわれは、この神がすべての人から愛され崇められることを望み、そして、それを望めば望むほど、念祷および、その他、すべて可能で必要なあらゆる手段によってそのために働くから。

 そして、このように神に占有された霊魂のうちにおいては、愛徳の熱烈さと力はきわめて強いので、かれらは自分ひとりの利益だけに満足し、それだけに制限されていることはできない。むしろ、自分一人で天国に行くのはあまりにも小さなことと思われて、自分といっしょに、たくさんの霊魂を天国に連れて行こうと焦慮しながら、天的な愛と、この上もない勤勉をもって努めるのである。これはかれらが神に対していだいている大きな愛から生じるのであり、念祷と完全な観想の実、かつ、その効果である。