見えなかったのであれば、罪はなかったであろう

ヨハネ9・41

1.スウェーデンボルグ

2.ヴァッスーラ

 

ヨハネ9・40−41

イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 

1.スウェーデンボルグ

真の基督教322

 

「霊的な意義では」偽りの証を立てることは、信仰上間違ったことが真理であり、生活上の悪が善であり、また反対に信仰上正しいものが誤っており、生活上の善は悪であると、人々に説得することを意味し、しかもこのことを無智のためではなく、故意に為すことを、すなわち、真理も善も知らない間ではなく、これを知った後に為すことである。なぜなら、主は以下の如く語り給うからである、「汝らもし盲目なりしならば、罪なかりしならん。されど今は見ゆと言う汝らの罪はのこれり」(ヨハネ9・41)。

 

 

神の摂理231

 

7種類の冒涜について

 

「第1の種類の冒涜は聖言をまたは教会の神的の事柄を笑い草の題材にする者により犯される」。

 

「第2の種類の冒涜は神的真理を理解し、承認はするが、しかもそれらを無視して生きる者により犯される」。神的真理をたんに理解するにすぎない者の冒涜は軽いが、それをまた承認もしている者の冒涜は重い、なぜなら理解はたんに説教家のように教えるのみで、必ずしも意志と結合していないが、承認は意志と結合しているからである、それは何物も意志の同意がないなら承認されることはできないためである。しかしこの結合には多くの種類があり、生活が承認された真理に反している時は、その冒涜はその結合の緊密さに応じて変化する。かくてもし何人かが復讐、憎悪、姦淫、淫行、詐欺、詭計、涜神、虚言は神に対する罪であることを承認しつつも、それらを犯すならば、彼はこの重い種類の冒涜を犯すのである、なぜなら主は、『主人の意志を知ってその意志を為さない僕は多くの笞で打たれるであろう』(ルカ12・47)と語られ、また他の所では『もしあなた方は盲目であったら、罪がなかったであろう、しかし今はあなた方は「私たちは見る」と言っている、それゆえあなた方の罪はのこっている』(ヨハネ9・41)と語られている。しかし外観的な真理を承認することと純粋な真理を承認することとは異なっている。霊界では純粋な真理を承認しつつも、それに従って生活しない者は、その語調と言葉には生命の光と温かさとのない、たんなる無気力な生物としてのみ現れている。

 

 

神の摂理254[イ]

 

福音には接したことはないが、宗教を持つ者もその神的な人間の中に、すなわち、天界に、その皮膚、膜、軟骨、骨を形作ることによって位置を持つことができて、他の者のように、天界の喜びを経験できるようにまた主により定められている、なぜなら彼らの喜びは最高の天界の天使のそれに、または最低の天界の天使のそれに似ているか否かは問題にはならないからである、それは天界に入る者は凡てその心の最高の喜びに入り、それ以上の喜びには堪えることはできないためである、なぜならそうしたものは彼を圧迫して、窒息させるからである。この実情は農夫と王のそれに譬えることができよう、即ち農夫は粗い毛の新しい着物をきて、歩きまわり、豚肉、牛肉、チーズ、ビール、香料入りのあつかんの葡萄酒を並べたテーブルの前に腰を下ろすとき、最大の喜びを経験するであろう、彼が王のように紫衣と絹、金、銀を着けその前に珍味、色々な種類の高価な料理、珍しい葡萄酒をのせたテーブルがおかれるなら、彼は圧迫を感じるであろう。このことは、如何にして、最初の者にも最後の者にも、各々その度に従って、天界の喜びがあるかを、従ってまた基督教世界の外側に在る者にも、もし彼らが悪を神にそむき、宗教にそむく罪として避けるならば、天界の喜びがあるかを示している。神を全然知らない者は僅かしかいない、これらの者は、もし道徳的な生活を送ったならば、死後天使たちから教えられ、その道徳的な生活へ霊的要素を受け入れることは、「新エルサレムの聖書の教義」(116)に見ることができよう。神は太陽と月の中におられると信じて、それらを拝する者の場合も同じである、彼らはそれ以上のことを知らないのであり、それゆえこれは彼らには罪とされない、なぜなら主は、『もしお前たちは盲人であるなら』―すなわち、もしお前たちは知らないなら―『罪はないであろう』と語られるから(ヨハネ9・41)。

 

 

天界の秘義2383

 

「かれらは打って盲目にした」。これはそれらが誤謬に満たされたことを意味していることは『盲目』の意義から明白である。聖言では『盲目』は誤謬の中にいる者について、また真理については無知である者について述べられている。両方の者が『盲目(目しい、目くら)』と呼ばれているが、しかし何か特別の場合にそのどちらかが意味されているかは(事柄の)連続または関連から、とくに内意の中に認められることができるのである。

 

[3]ヨハネ伝には―

 

審判のためにわたしは世に来たのである、それは見る者が見ないためであり、また見る者が盲目[目しい]となるためである。パリサイ派の者らはこれらのことを聞いて、言った、私らもまた盲目[目しい、目くら]ですか。イエスは彼らに言われた、もしあなたらは盲目であったなら、罪はなかったでしょう。しかし今あなたらは、自分らは見ると言っている、それであなたらの罪は残っている(9・39−41)。

 

ここには『盲目』は二つの意味に語られており、すなわち、誤謬の中にいる者らと真理に対し無知である者との意味に語られている。教会の中にいて、真理の何であるかを知っている者にあっては、『盲目』は誤謬であるが、しかし(教会の外にいる者たちの場合のように)真理の何であるかを知っていない者にあっては『盲目』は真理を知らないことであって、これらの者には罪がないのである。

 

 

天界の秘義9069

 

「その牛の主人には罪責がないとしなくてはならない」。これは、その悪は意志から発していて理知的なものから発していないために、内なる人から発していないことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『その牛の主人』の意義は内なる、または霊的な人であり―なぜなら『牛』により自然的なまたは外なる人における悪に対する情愛が意味され(9065番)従って『牛の主人』は内なる日tを意味するからである、なぜならかれは自然的なものにおける悪の情愛を支配することができ、また実際、再生した者の場合のように、自然的なものが服従しているときは支配もするからである―『罪責がない』の意義は、とがめられない、である。その理由はその悪は意志から発して、理知的なものから発してはいない悪は(その者を)地獄にはおとさないからである、それはその人間はそれを見ないためであり、かくてそれが悪であるか、否かを考察はしておらず、それでそれを意識してはいないためである。こうした悪は遺伝から発している悪であって、その人間がそれが悪であることを教えられていない間のものであり、また(それを)教えられても、単に外なる生命、または身体の生命の中にのみいて、それと同時に理解にぞくしている内なる生命の中にはいない間のものである。なぜなら何かが悪であることを認め、理解し、尚もそれを行うことは、主がヨハネ伝で教えられているように、人間を罪責のあるものとするからである―

 

 パリサイ人は言った、わたしらもまた目しいですか。イエスはかれらに言われた、もしあなたらは目しいであるなら罪はない、しかし今あなたらは自分たちには見えると言っている。だからあなたらの罪はとどまっている(9・40、41)。

 

 

2.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P143

‘92・9・25

 

人間は皆 弱い・・・それでも、あなたの言ったことに答えよう: 私が何を差し与え 何をあなたに行おうとしているかを 霊魂が知ったなら、さらに多くの試練を、苦しみを 十字架を、そういったものをあなたのほうから願ったであろう!

― 私は愛する者を鍛錬するがゆえ 私にとってよいと思えることを 嫌がらないでほしい。 あなたは私の宝石 そしてそれを念頭にある形にするため 私は切ったり、削ったりして形造る。 それゆえ、言っておく、あなたは息のある限り、私、自らが、与えた仕事を 実行しなければならない ♡ しかし私に属すると言いながら 霊的な事柄に関しては 背いている者たちには、こう言っておく: 「目が見えていないなら罪はない、しかし<私たちは見えている、それに識別できる>と言っているがゆえ、あなたの罪は残る!」 彼らの疑り深く頑なな姿勢を あと何回とがめなければならないか? 来なさい、平安でいなさい、残された旅路を 私がともに歩んでいる。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P241

‘93・5・6

 

我が子よ、私、ヤハウェが祝福を与える。 我が王国は 心の清い者たちのため。 この者たちこそ 私の美しさが見える! 私が、今や、語りかけていながら、この聖なる面影を見分けられないとすれば、我が子よ、英知がその者たちを避けているからです。 子どものようにならなければ、何も、決して何も 見分けるようにはならない。 そこで自分の知恵が目を晦ませているこの者たちのために 祈りなさい、英知が貧しい者を選び 大いなる者たちと同席させるとは聞かなかったか? 「見えている」と言いながら これらのメッセージを通して我が聖霊を批判する者たちのために 特に祈りなさい、彼らは我がひとり子もそれ以前の預言者たちも 同様に迫害したがゆえ。 人は生まれ変わらなければ 我が王国を目にできない。 来なさい、私の平安を与える、信頼しなさい・・・