「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

ヨハネ8・58

 

 

ヨハネ8・56−59

 

あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

天界の秘義1607

 

「あなたが見る地をことごとく、それをわたしはあなたに与えるからである」。これは天界の王国[天国]が主のものとなるにちがいないことを意味していることは、『地』の意義が、ここではカナンの地の意義が―なぜなら『あなたが見る地』と言われているからであるが―天界の王国[天国]であることから明白である。なぜならカナンの地により諸天界における主の王国が、すなわち、天界がまた地上の主の王国が、または教会が表象されたからであり、『地』または『大地』のこうした意義は前に幾度もとり扱われたのである。諸天界と地上の王国が主に与えられたことは聖言の色々な記事から明白である。たとえばイザヤ書には―

 

  わたしたちに一人の子供が生まれたもうた、わたしたちは一人の御子[息子]を与えられた。政りごとはその肩の上に在るであろう、その御名は、勧告者、神、英雄、永遠の父、平安の君と呼ばれるであろう(9・6)。

 

 ダニエル書には―

 

  わたしは夜の幻の中に見た、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた、かれは日の老いた者のもとにさえも来られた、かれらはかれをその前につれてきた。するとかれに統治[主権]、栄光、王国が与えられた、凡ての民、国民、言語はかれに仕えるであろう。その統治[主権]は永遠の統治であり、それは過ぎ去りはしない、その王国は破壊されないものである(7・13、14)。

 

 主御自身もまたマタイ伝に同じことを言われている―

 

  凡てのものはわたしの父からわたしにゆだねられている(11・27)。

 

 またルカ伝(10・22)に。さらにマタイ伝には―

 

  天と地のすべての権能はわたしに与えられている(28・18)。

 

 ヨハネ伝には―

 

  あなたは凡ての肉を[凡ての人を]治める権能を子に与えられました、あなたがかれに与えられたものにはことごとく、かれが永遠の生命を与えるためであります(17・2、3)。

 

 同じことがまた主が『右手に坐られること』によっても意味されている、たとえばルカ伝には―

 

  今から後人の子は神の力の右手に坐るでしょう(22・69)。

 

 

[2]諸天界と地上で人の子にすべての力が与えられたことについては、主は世に来られる前に諸天界と地上のあらゆるものを統べる権能を持たれたことが知られなくてはならない、なぜなら主はヨハネ伝に明らかに言われているように、永遠から神であられ、エホバであられたからである―

 

  ああ父よ、今あなた御自身をもって、わたしが世に存在しないうちにあなたとともにもっていた栄光をもってわたしたちを栄化してください[わたしに栄光を与えてください](17・5)。

 

 またさらに―

 

  まことに、まことにわたしはあなたたちに言います。アブラハムがいないうちからわたしはいます(8・58)。

 

 なぜなら主は洪水以前にあった最古代教会に対しエホバであられ、神であられ、かれらから見られもしたもうたからである。主はまた洪水の後に存在した古代教会に対しエホバであられ、神であられた。ユダヤ教会に凡ゆる祭儀により表象されて、かれらから礼拝されたもうた方は主であられたのである。主が天と地のすべての権能がそのとき初めて主のものとなったかのように、それが主に与えられたと言われている理由は、『人の子』により主の人間的な本質が意味されているのであって、これが主の神的な本質に結合したときにそれはまたエホバであると同時に力を持ったということであり、こうしたことは主が栄化されるまでは、すなわち、神的な本質との合一により、主の人間的本質もまたそれ自身の中に生命を持ち、かくて同じく神的なものになり、エホバになるまでは起りえなかったのである。そのことはヨハネ伝に主が言われているのである。―

 

  父は御自身の中に生命を持たれるように、子にも子自身の中に生命を持たせられた(5・26)。

 

[3]ダニエル書の、前に引用した記事の中に同じように『人の子』と呼ばれ、またそれについてはイザヤ書から引用した記事の中に『わたしたちに一人の子供が生まれたもうた、一人の男の子が与えられた』と言われているのでは、主の人間的な本質であり、または外なる人である。天界の王国が主に与えられ、諸天界と地上の一切の権能も主に与えられるにちがいないことを主は今や見られたのであり、またそのことが今主に約束されたのである、このことが『あなたが見る地をことごとくあなたに、またあなたの裔[種]に永遠にわたしはあたえよう』という言葉により意味されているのである。このことは主の人間的な本質がその神的な本質に結合した以前にあったのであり、主の人間的な本質は主が悪魔と地獄をとを征服されたとき、すなわち、主が御自身の力と御自身の強さとにより、悪をことごとく斥けられたとき結合したのであって、悪のみが分離させるのである。

 

 

天界の秘義1990[2]

 

 全諸天界の遥か上に存在し、人間にぞくしている最も内的なもののあまねく上方に存在する無限なものそれ自身は主のみにぞくした神的な人間的なものを通さなくては明らかに示されることはできない。それ以外のいかような源泉からも無限なものは有限な者たちのもとには伝達されることはできないのである、そしてそのことがまた、エホバが最古代教会の人々に現われたまい、後に洪水後の古代教会に現われたまい、次に再びアブラハムと予言者たちとに現われたもうたとき、人間としてかれらに示されたもうた理由となっている。これが主であったことは、主はヨハネ伝に明らかに教えられている―

 

  あなたらの父アブラハムはわたしの日を見て喜んだのである、かれはそれを見て、喜んだのである、まことに、まことに、わたしはあなたらに言います、アブラハムがいる前からわたしはいるのである(8・56,58)。

 

 また予言者の書にも教えられている、例えばダニエル書の中に教えられているが、ダニエルにより主は人の子として見られたもうたのである(7・13)。

 

[3]これらの記事から、エホバなる無限のエッセ[存在者]は人間的な本質を通さなくては、かくて主を通さなくては人間に決して明らかに示されることはできなかったことが、それでそれは主のみを除いてはたれにも明らかに示されてはいないことを認めることができよう。人間が神的なものから自分自身を完全に遠ざけてしまって、自分自身を醜悪ないくたの欲念に沈めてしまい、かくして単に身体的な地的なものの中にのみ沈めてしまった後、かれは[その無限なるエッセは]また人間のもとに臨在して、人間と連結するために、現実に人間的な本質そのものを出生によりとられたのであるが、それはかくしてかれ[その無限なるエッセ]は今やかくも遠く離れ去った人間にその無限なる神的なものを尚も接合するためであったのであり、もしそれが行われなかったならば人間は呪われた者の死をもって永遠に滅亡してしまったであろう。

 

 

天界の秘義3251

 

アブラハムは『父』と呼ばれている神的なものそれ自身のみでなく『子』と呼ばれている神的な人間的なものを表象し、かくてかれは主を神的なものそれ自身のみでなく神的な人間的なものの方面でも表象したが、しかし永遠から存在しているかの神的な人間的なものの方面でも表象したのであるが、この神的な人間的なものから時間の中に生まれた人間的なものが発生してきたのであり、この(永遠から存在している)神的な人間的なものに、主は時間の中に生まれた人間的なものを、それを栄化されたとき、服従させられ、またはもってこられたのである。これがアブラハムによる主の表象である。

 

 

天界の秘義9315

 

『エホバの天使』の意義は神的な人間的なものの方面の主である(そのことについては、前の9303、9306番を参照)。神的な人間的なものの方面の主が『天使』により意味されていることは、主が世に来られる前に現れた多くの天使は人間の形をとた、すなわち、天使の形をとったエホバ御自身であったためである。このことは以下の事実から極めて明白である、すなわち、例えばアブラハムに現れて、『エホバ』と呼ばれた天使のように(創世記18・1、13、14、17、20、26、33)、またギデオンに現れた天使のように―この天使は士師記に記され、『エホバ』ともまた呼ばれている(6・12,14,16、22−24)―また他の記事の他の天使のように、現れた天使たちは『エホバ』と呼ばれたのである。人間の形をとられたエホバ御自身は、またはそれと同一のことではあるが、天使の形をとられたエホバ御自身は主であられたのである。

 

 

天界の秘義9315[2]

 

当時その神的な人間的なものは天使として現れたのであり、そのことについては主御自身がヨハネ伝に話されているのである―

 

 イエスは言われた、アブラハムはわたしの日を見て楽しんだ、かれはそれを見て喜んだ。まことに、まことに、わたしはあなたらに言います、アブラハムがいる前からわたしはいるのです(ヨハネ8・56、58)。

 

父よ、世が存在しない中にわたしがあなたとともに持った栄光をもって、あなた御自身の自己をもってわたしを栄化してください(ヨハネ17・5)

 

エホバにはそれ以外の方法をもって現れたもうことが不可能であったことはヨハネ伝の主の御言葉からもまた明白である―

 

あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたことはなく、その御形も見たことはない(5・37)。

たれかが父を見たということではない、ただ父と共にいる者、その者が父を見ているのである(6・46)。

 

これらの事実から永遠から存在される主により意味されていることを知ることができよう。