『彼らは皆、神によって教えられる』

ヨハネ6・45

 

 

 

ヨハネ6・45

 

予言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来る。

 

 

イザヤ54・13

 

 あなたの子らは皆、主について教えを受け あなたの子らには平和が豊にある。

 

 

エレミア31・31

 

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

 

エレミヤ31・33.34

 

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 

 

 

1.明るくされることは、これがまたはあれが真であることを認識し、内的に承認すること以外の何ものでもない。これらは『エホバから教えられている者』(イザヤ54・13、ヨハネ6・45)と呼ばれている者であり、またエレミア記に以下のように言われている者である―

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/信仰1

 

現在では信仰という言葉は、そのことはそうであると教会が教えているために、またそれが明確に理解できないため、それがそうであると単に考えるということを意味している。なぜなら私たちは信じて、疑わないようにと言われており、私たちには解からないと言うなら、それこそ正しく信じなくてはならない理由であると言われるからである。

 

それで現今の信仰は知らないものを信じる信仰であって、盲目の信仰と言ってもよいものであり、それは誰かが言ったことが、他の誰かの中にも宿っているものであって、人のうわさを信じる信仰なのである。こうしたものは霊的な信仰ではないことは間もなく認められるであろう。

 

 

スウェーデンボルグ/信仰2

 

 真の信仰は、そのことが真のものであるためにそうであると承認すること以外の何ものでもない。なぜなら真の信仰にいる者は、考えて『これは真である、だからわたしはそれを信じる』と言うからである。こうした人物は事柄の真理性を認めないなら、かれは『わたしはそれが真であるか、どうかは解からない。それでまだわたしはそれを信じはしない。自分が知的に把握しないものを、自分はどうして信じることができよう。多分それは誤りであろう』と言うのである。

 

 

スウェーデンボルグ/信仰3

 

 しかし一般的には霊的な、または神学的な問題は超自然的なものであるため、たれにもそれは把握できないと言われている。しかしながら霊的な真理も自然的な真理と全く同じように充分に把握されることができるものであって、たとえそれが明らかに把握されないにしても、それでもそれを聞くとすぐに、それは真であるか、真でないかを認めることができるのである。このことはとくに真理に感動する情愛の持主に言われるのである。(中略)

 

この凡てはわたしが霊たちと交わっている間に起ったのである。わたしとともにいた他の多くの者はそのことによって、霊的な事柄も、それが聞かれたり、読まれたりすると、自然的な事柄と全く同じように充分に把握されることができることを納得したのである。しかしその人間自身が自分自身から考えているときは(そのことを)把握するのは決して容易ではないのである。

 

 霊的な事柄も把握されることができる理由は、人間は理解の方面では天界の光の中へまでも高揚されることができるのであって、その光の中では霊的な事柄以外のものは何一つ現れないのであり、その霊的なものは信仰の真理であるということである。なぜなら天界の光は霊的な光であるから。

 

 

スウェーデンボルグ/信仰4

 

 それでこのことが真理に対する霊的情愛を抱いている者たちが真理を内的に承認している理由である。天使たちはこうした情愛を抱いているため、かれらは理解は信仰に服従したままにおかれなくてはならないという教理を棄て去って、『それは何ですか。その事が真であるか、否かも解からないときに信じるとは』と言うのである。

 

そしてもし誰かが、それでもそれは信じなくてはならないと言いもするならば、『わたしがあなたを信じなくてはならぬとするならば、あなたはあなた自身を神だとでも考えているのですか。それともあなたはわたしが気が狂って自分が真理だとは認めてはいない意見を何か信じるとでも考えているのですか。わたしにその真理をみとめさせてください』と答えるのである。その言葉にその教理家はその場を去ってしまう。天使たちの知恵はもっぱら以下のことにある。すなわち、かれらはその考えるものをことごとく認め、また把握もするということである。

 

 

スウェーデンボルグ/信仰5

 

 霊的な考えが(それについてほとんどの者は何ごとも知ってはいないが)真理に対する情愛を抱いている者たちのもとへ流れ入っていて、その聞くもの、または読むものが真であることを、また真でないことを内的にかれらに告げている。主から明るくされて聖言を読んでいる者たちはこの考えの中にいるのである。

 

明るくされて言うことはこの考えの中にいるのである。明るくされることは、これがまたはあれが真であることを認識し、内的に承認すること以外の何ものでもない。これらは『エホバから教えられている者』(イザヤ54・13、ヨハネ6・45)と呼ばれている者であり、またエレミア記に以下のように言われている者である―

 

見よ、日が来て、わたしは新しい契約をたてよう、これがその契約である、すなわち、わたしはわたしの律法をかれらの内部におこう、その心にそれを記そう、それでかれらは各々その連れの者に、または各々その兄弟にもはや教えて、エホバを知れよとは言わなくなるであろう、なぜならかれらはすべてわたしを知っているからである(エレミア31・31,33,34)。

 

 

 

天界と地獄25

 

 主の天的王国の天使たちは、主の神的なものを更に内的に受け入れているため、知恵と栄光とにおいては霊的王国にいる天使たちよりも遥にまさっている。なぜなら彼らは主に対する愛にいて、そのため主に更に近く、また更に密接に連結しているからである。彼らはそのようなものであるのは、神的諸真理をその生命[生活]の中に直ちに受け入れたからであり、それを先ず記憶と思考との中に受け入れる霊的天使たちとは異なっているためである。かくて彼らはその諸真理を己が心の中に書き記されて、それらを認め、謂わばそれらを自分自身の中に見、その真理は真理であるか、否かと、それについては決して論じはしないのである。彼らはエレミア記に記されているような者である。「わたしは彼らの心の中にわたしの律法を置き、それを彼らの情(ハート)の中に書き記そう。彼らは各々その隣人に、また各々その兄弟に教えて、あなたらはエホバを知りなさいとは言わないであろう。彼らは、その中のいと小さい者からその中のいと大いなる者にいたるまでも、わたしを知るであろう」(31・33,34)。彼らはイザヤ書では『エホバに教えられた者』と呼ばれている(54・13)。エホバに教えられる者は主から教えられる者であることを、主御自身ヨハネ伝(6・45、46)に教えられている。