神がお遣わしになった者を信じること、
それが神の業である
ヨハネ6・29
信仰/
1.聖書
2.『主を信じる』ことは、主が他の所でも教えられているように、単に主が存在されることを考えるのみではなくて、主の御言葉を実践すること
1.聖書
ヨハネ6・28−30
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
2.『主を信じる』ことは、主が他の所でも教えられているように、単に主が存在されることを考えるのみではなくて、主の御言葉を実践すること
生命48
私たちはこうした物は単に信仰の事柄であるように思われていると言った。しかし前に言ったように(43)、理解の思考は、理解の中の思考のエッセ[最も内なる存在]であるところの意志の愛から、そのエキシステレ[それが明らかに存在するようになったもの]を得ているのである。なぜなら何であれ、たれでも愛から意志する[欲する]ものを、その者は考えようと意志し[欲し]、理解しようと意志し、話そうと意志するからであり、またはそれと同じことではあるが、何であれ誰でも意志から愛するものを、その者は行うことを愛し、考えることを愛し、理解することを愛し、話すことを愛するからである。このことにまた以下のことを附言しなくてはならない、即ち、前に示したように、人間は悪いことを罪として避ける時、彼は主の中におり、主はその時凡ゆる事柄を行なわれるのである。それで自分たちは神の業を為すためには何を為さねばならないかと主にたずねた者たちに、主は
神の業はこれである、即ち、神が遣わされたかれを信じることである(ヨハネ6・18、29)
と言われたのである。『主を信じる』ことは、主が他の所でも教えられているように、単に主が存在されることを考えるのみではなくて、主の御言葉を実践することである。
黙示録講解965[2]
さて、次に第三の戒めがつづいており、それは安息日を聖く守ることである。
十戒の第三と第四の戒めとは行わねばならない事柄を含んでいる、すなわち、安息日は聖く守られねばならない、そして両親は尊ばれなくてはならないのである。他の戒めは行ってはならない事柄を含んでおり、すなわち、他の神々を拝してはならないのであり、神の御名を冒涜してはならないのであり、人は盗んではならない、姦淫を犯してはならない、偽証をしてはならない、他の者の財産をむさぼってはならないのである。この二つの戒めは行われなくてはならない戒めであるのは、他の戒めを清めることはこの二つの戒めにかかっているためである、なぜなら安息日は主における神的なものそれ自体[神性それ自体]と神的な人間的なもの[神の人間性]との合一を、また天界と教会と主が連結されることを意味し、かくて再生されつつある人間のもとで善と真理とが結婚することを意味するからである。
このことが安息日の意義であるため、それはエレミヤ記(17・20−27)、その他の所に明白であるように、イスラエル教会における礼拝の凡ゆるものを表象する主要なものであったのである。それが礼拝の凡ゆるものを表象する主要なものであったのは、礼拝の凡ゆるものにおける最初の事柄は主の人間的なもの[人間性]における神的なもの[神性]を承認することであるためである、なぜならその承認がないなら人間は自己からのみ信じ、行うことができて、自己から信じることは誤謬を信じることであり、自己から行うことは悪を行うことであるからであり、そのことはまたヨハネ伝における主のお言葉から明白である―
神の業を行うためには、わたしたちは何を行わねばなりませんか、とたずねる者たちに対して、イエスは言われた、このことが神の業であります。すなわち、あなたらが神がつかわされた方を信じることです(ヨハネ6・28、29)。
また同書に―
わたしの中に留まり、わたしがその者の中に留まる者、その者こそ多くの果をむすぶのである、わたしなしではあなたらは何一つ行うことはできないからである(ヨハネ15・5)。