御子を信じる人は永遠の命を得ているが

(ヨハネ3・36)

 

ヨハネ3・36

 

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

 

 

天界の秘義1608

 

「あなたの裔[種]に永遠に」。これが主を信じるにちがいない者たちを意味していることは、『裔[種]』の意義が信仰であり、実に(前の255、256、1025番に述べたように)仁慈の信仰であることから明白である。天界の王国[天国]は主の裔[種]に、すなわち、主を信じる信仰をもっている者たちに与えられるにちがいないことはヨハネ伝における主御自身の御言葉から明白である―

 

  父は子を愛されて、その手に凡ての物を与えられた、子を信じる者は永遠の生命を持つが、しかし子を信じない者は生命を見ない(3・35、36)

 

[2]さらに―

 

  かれを受けた者にはことごとく、かれの御名を信じる者たちには神の子となる力をかれはあたえられた、かれらは血から生まれたのではなく、また肉の意志からも、また人間の意志からも生まれたのではない(1・12、13)。

 

 この言葉から信仰は、または主を信じることはいかようなことであるかが明白である、すなわち、信仰は『肉の意志』からでなく、また人間の意志からでもなく、主を受けて、主を信じる者のもとに存在していることが明白である。『肉の意志』とは愛と仁慈とに反したものである、なぜならこのことが『肉』により意味されているからである(999番)、そして『人間の意志』とは愛または仁慈から発した信仰に反したものである、なぜならそれが人間により意味されているものであるからである。なぜなら肉の意志と人間の意志とが分離させるものであるが、しかし愛とそこから派生した信仰とが連結させるものであり、それで愛とそこから派生した信仰を宿している者は神から生まれた者であるからである。そして、かれらは神から生まれているため、『神の子』と呼ばれ、またその『裔』であり、この者たちに天界の王国[天国]が与えられるのである。こうした事柄がこの節の以下の言葉により意味されているのである、『あなたの見る地はことごとくそれをあなたとあなたの裔[種]に永遠に与えよう。』

 

[3]仁慈をもたない信仰の中にいる者に、すなわち、自分は信仰を持っていると言いはするものの、隣人を憎悪している者には天界の王国[天国]は与えられるはずはないことは、たれからでも、もしその者がすすんでそのことを反省しさえするなら、認められることができよう、なぜなら憎悪が、すなわち、地獄が生命を構成しているときは、かかる信仰の中には生命はありうるはずはないからである。なぜなら地獄は憎悪以外の何ものからも構成されてはおらず、それは人間が遺伝的に受けついだ憎悪からではないが、人間が実際の生活により得た憎悪から構成されているからである。

 

 

天界の秘義10112

 

「他国の者は食べてはならない。」これは主を承認しない者らのもとでは善は何らその者らのものとされないことを意味していることは『他国の者』、『外国の者』の意義から明白であり、それは教会の外にいる者らであり(2049、2115、7996番)、主を承認しない者らは教会の外にいると言われているのである。イスラエル民族の間ではエホバを己が神として承認しないし、また教会の祭儀を教えられることをいさぎょしとしなかった者らは教会の外にいると言われたのである。エホバを己が神として承認し、教会の祭儀を教えられることをいさぎよしとした者たちは『宿る者』と呼ばれ、土着の者と同じ権利をもっていたのである(8007、8013、9196番)。『食べること』の意義は善を己がものとすることである(10109番)。主を承認しない者らのもとでは善はその者らのものとされない理由は、己が神を承認することは宗教の最初のものであり、基督教徒にあっては主を承認することは教会の最初のものであるためである、なぜなら承認がないなら伝達されることはなく、従って信仰はなく、かくて愛はないからである。従って基督教会における教義の最初のものは主がおられないなら救いはないということである。なぜなら人間が真のものと呼んで、信じるものは何であれ、また人間が善と呼んで、愛するものは何であれ、それが神的なものから発していないかぎり、かくてそれが主から発していないかぎり、真で善いものとは呼ばれることはできないからである、なぜなら人間は人間自身では善いことを信じて、行うことはできないのであり、真理の凡ては、また善の凡ては上から来ることもまた知られているからである。かくて教会にいながらも主を承認しない者らは信仰を持つことはできないし、また神に対する愛も持つこともできないし、従って救われることはできないことは極めて明らかである。このことはイスラエル民族の間で、かれらはエホバを己が神として承認しなくてはならない、かれらの礼拝は受け入れられて、聖いものと呼ばれ、かれらはそのとき、そお内部の性質はいかようなものであろうと、清められるであろうという命令により表象されたのである、なぜなら表象は単に外なるものであり、その民族にあっては外なるものの中にいることで足りていたのである(9320番に引用された所を参照されたい)。それでかれらの中でエホバを承認しないで、他の神を承認した者らは、例えばバールや他の神々を拝した者らは、たとえその者らは他の者と同じように生けにえを捧げ、礼拝をするにしても、教会から斥けられたのである。このことから教会の中で生まれたにしても、心では主を否定している者らは、その道徳生活の方面の性質はいかようなものであれ、他生でいかような運命に陥るかを認めることができよう。かれらは救われることはできないこともまた多くの経験により知ることが許されたのであり、そのことを主もまたヨハネ伝に明らかに教えられておられるのである―

 

 子を信じる者は永遠の生命をもつが、子を信じない者は永遠の生命を見ない、反って神の憤りがその者の上にとどまっている(ヨハネ3・36)。

 

 しかし教会の外側にいる民族については、その宗教から己が隣人に対する或る種類の仁慈に生き、人間の形をとられた宇宙の創造者である神に対する何らかの種類の愛の中に生きた者たちは他生では主から受け入れられ、救われるのである、なぜならこれらの者は天使たちから教えられると、主を承認し、主を信じ、また主を愛するからである(2589−2604番を参照されたい)。