舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。

ヨハネ21・6

 

愛をもって宣教しなさい

 

 

ヨハネ21・6

 

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることが出来なかった。

 

 

結婚愛316

 

主はその弟子たちに、

網を船の右側に投げなさい。で、彼らはそのようにしたところ、夥しい魚を得た(ヨハネ21・6、7)

と、言われましたが、そのことによって主は彼らが仁慈の善を教え、かくして人々を集めることを意味されたのです。

 

 

 

黙示録講解513ハ(11)

 

『魚』は、賢明になる手段として霊的な人に仕える自然的な人に属している知識と認知とを意味しているため、『漁師』は聖言の中では単に知識の中にいる者たちを、また自分自身のために知識を取得する者たちを、また他の者たちに教え、知識により彼らを改良する者たちを意味している。そうした者たちの業は、『網を投げ込み、拡げること』により意味されている、例えば以下の記事に。イザヤ書には―

 

漁師たちはうめき悲しむであろう、川に釣針を投げ込む者らは凡てうめき悲しむであろう、水の面に網を拡げる者らは弱り果てるであろう(イザヤ19・8)。

 

『川に釣針を投げ込む漁師と網を投げ込む者ら』は自分自身のために知識を得、知識を通して理知を得ようと願っている者たちを意味し、ここでは、何処にも真理に関わる知識が無いため、彼らはそのことを行うことが出来ないことを意味している。

 

 

 

 

黙示録講解513ハ(12)

 

エレミア記には―

 

わたしはイスラエルの子孫をその地に再び連れ戻そう、わたしは彼らに教える多くの漁師に使いを遣わそう、その時わたしは多くの狩人に使いを遣わそう、彼らは凡ゆる山の上から、凡ゆる岡の上から、崖の裂け目から彼らを狩り出すであろう(エレミア16・15、16)。

 

『彼を漁る漁師に、彼らを狩る狩人に使いを送ること』は、前に見ることが出来るように、自然的な善の中に、また霊的な善の中にいる者たちを呼び集めて、その者たちのもとに教会を設立することを意味している。

 

 

 

 

黙示録講解513ハ(13)

 

ハバクク書には―

 

何故あなたは人を海の魚のように、支配する者を持たない這うもののようにされますか。彼に凡ての者を釣針で引き上げさせ、彼をその網の中へ集めなさい。それで彼はその網を空にし、その諸国民を絶えず殺すことを憐れまないであろうか(ハバクク1・14、15、17)。

 

このことは教会を荒廃させ、破壊するカルデヤの国民について言われたのであり、カルデヤの国民は真理を冒涜し、教会を剥奪することを意味している。『人間を海の魚のようにし、治める者を持たない這う物のようにすること』は人間を自然的なものにし、そのためその者の知識は霊的真理を欠き、その歓喜は霊的善を欠くことを意味している、なぜなら自然的な人の中には思考が起ってくる手段となる知識と、情愛が起ってくる手段となる歓喜とが在り、もし霊的なものがそれらのものを治める支配的なものでないなら、思考も情愛もあちこちとさ迷い、かくて人間は指導し、支配する理知を欠いてしまうからである。その時は誤謬はことごとく、また悪はことごとくそれらを己が側に引き寄せ、かくて全的にそれらを破壊してしまう力を得ることが『彼に凡てのものをその釣針で引き出させ、その網の中へ集め、後に殺させよ』により意味され、『引き出すこと』は真理と善から引き出すことを意味し、『その網の中へ』は、誤謬と悪の中へ、を意味し、『殺すこと』は破壊することを意味している。

 

 

 

 

黙示録講解513ハ(14)

 

アモス書には―

 

 日が来て、彼らはあなたらをその鉤で引き出し、あなたらの子孫をその釣針で引き出すであろう(アモス4・2)。

 

これは誤謬と迷妄〔妄想〕から発した鋭利な理論を手段として真理から連れ出し、遠ざけてしまうことを意味し、それは、聖言と予言者の書を持っているため、知識においては満ち溢れている者らについて言われており、こうした者らがここに『サマリアの山の中のバシャンの雌牛』により意味されている。

 

 

 

 

黙示録講解513ハ(15)

 

 このことから新約聖書の中に極めて頻繁に記されている『漁師』、『魚』、『網』の意味を認めることが出来よう、例えば以下の記事には―

 

 イエスは二人の兄弟、ぺテロと呼ばれるシモンとその兄弟のアンデレが海に網を投げ込んでいるのを見られた、彼らは漁師であったからである。イエスは彼らに言われた、わたしについて来なさい、わたしはあなた方を人間の漁師にしましょう(マタイ4・18、19、マルコ1・16、17)。

 

更に―

 

イエスはシモンの舟に入られて、その多くの者たちに教えられていた。イエスはシモンに魚を取るため、網を投げ込むように言われた、網は非常に多くの魚がかかり、それでいくつもの舟は魚で一杯になり、今にも沈まんばかりとなった。彼ら凡ての者はその引き上げた魚のためにすっかり驚いてしまった。イエスはシモンに言われた、恐れてはならない、今から後あなたは人間をすなどるでしょう(ルカ5・3−10)。

 

 この中にもまた聖言の他のものにおける霊的な意味のように、そうしたものが在り、主がこれらの漁師を選ばれて、『あなたらは人間を漁る者とならなくてはならない』と言われたことは、彼らは教会へ集めなくてはならないことを意味し、『彼らが網を投げ込んで、その中に非常におびただしい魚が入っており、そのため舟は沈みそうになった』は、教会が彼らを通して改良されることを意味したのである、なぜならここの『魚』は改良が遂行される手段となる真理と善とに関わる知識を意味し、同じく改良されなくてはならないおびただしい人を意味するからである。

 

 

 

 

黙示録講解513ハ(16)

 

 主が復活された後弟子たちにより引き上げられたおびただしい魚の量も同じような意義を持っており、それはヨハネ伝に以下のように記されている―

 

 イエスは魚を取っていた弟子たちに御自身を示された時、彼らに舟の右側に網を投げ込むように言いつけられた。彼らは非常に多くのものを得たため、おびただしい魚のために、その網を引き寄せることが出来なかった。彼らが地に降りた時、火が起こされ、その上に少しの魚が置かれているのを見た、またパンを見た。イエスは彼らにそのパンを与えられ、また同じくその小さな魚も与えられた(ヨハネ21・2−13)。

 

 主が彼らが魚を取っていた際御自身を明らかに示されたのは、『魚を取ること』は真理と善とに関わる知識を教えることを、かくて改良することを意味したためであった。主が彼らに『網を舟の右側に投げるように』命じられたことは、凡ゆる事は愛と仁慈との善から発しなくてはならないことを意味したのであり、『右側』はかの善を―そこから凡ゆるものが発しなくてはならないかの善を―意味している、なぜなら知識が善から由来しているに応じ、生きており、増し加わりもするからである。彼らは自分たちは夜中労苦したが、何一つ取りはしなかったと言ったが、そのことは自己からまたは自己自身のものからは何一つ発しないで、凡ゆるものは主から発出していることを意味したのであり、それに似たことがその小さな魚が置かれていた『火』により、また『パン』により意味されるのである、なぜなら『パン』は主を、また主から発している愛の善を意味し、『火の上の魚』は善から発した真理の知識を、『魚』は真理の知識を、『火』は善を意味したからである。当時霊的な人間がいなかったのは教会は全く剥奪されていて、凡ての者は自然的なものであり、彼らの改良はこの魚を取ることにより、また火の上の魚により表象されたためであった。弟子たちに食べるように与えられた火の上の魚とパンとは更に高いものであるものを意味してはいなかったと信じる者は非常に誤っているのである、なぜなら主により行われ、また言われもしている最小の事柄でも神的な天的な事柄を意味したのであり、その事柄は霊的な意味を通してのみ明白になるからである。この『炭の火』と『火』とは愛の善を意味し、『パン』はその善の方面の主を意味していることは前に示されたのであり、『魚』は真理の知識を意味し、自然的な人の知る能力を意味していることは、この項目の中に言われもし、示されもしたことから明白である。

 

 

 

 

黙示録講解600イ(7)

 

ヨハネ伝には―

 

イエスは漁をしていたその弟子たちに言われた、網を船の右側に投げなさい、その時は見出すでしょう、と。それで彼らは投げた、彼らは網を魚がおびただしいために引くことが出来なかった(21・6)

 

『漁をすること』は聖言においては、外なる、または自然的な善の中にいる人間に教え、回心させることを意味しているからには―そうした善の中に当時大半の異教徒はいたのであるが―『魚』は自然的な人の幾多の物を意味し、『船』は聖言から発する教義を意味しており、それで『船の右側』は生命の善を意味している。このことは主が言われたことの意義を、『船の右側に網を投げなさい』の意義を明らかにしている、すなわち、彼らは生命の善を教えなくてはならない、を意味しているのである。彼らはかくて異教徒を教会へ回心させるであろうことが、『彼らはその網をおびただしい魚のために引くことも出来なかった』ほどにも多くの者を見出したことにより意味されている。たれでも『右側』が意義を持っていなかった限り主は彼らに『船の右側に網を投げるように』命じられはしなかったことを認めることが出来よう。