わたしを見た者は、父を見たのだ

ヨハネ14・9

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ12・45

 

わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。

 

 

 

ヨハネ14・7−11

 

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1602

 

 主は、内なる人については、エホバから生まれたもうたため、神的なものであられたのであり、それで外なる人の側で何ものも主を妨害しなかったとき、主は将来のあらゆるものを見られたことが生まれてくるのであり、そのことがそのとき恰もエホバが話されたかのように見えたのは、そのように外なる人の前には見えたためであり。主は主御自身ヨハネ伝に教えられているように、その内なる人の方面ではエホバと一つのものであられたのである―

 

  ピリポは言った、わたしたちに父を示してください、と。イエスは言われた、ポリポよ、わたしはかくも長い間あなたとともにいるのに、あなたはわたしを知っていませんか、わたしを見る者は父を見るのです。だからどうしてあなたはわたしたちに父を示してくださいと言うのですか。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられることを信じませんか、わたしは父の中に、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(14・6、7、11)

 

 

天界の秘義4692〔4〕

 

 しかしながら基督教会は、外なる礼拝では主の人間的なものを神的なものとして実際崇拝し、特に聖餐においては、主がその中のパンは主の身体であり、葡萄酒はその血であると言われたため、それを神的なものとして崇拝はしてはいるが、しかしその教義では彼らは主の人間的なものを神的なものにしてはいないのである、なぜなら彼らは神的な性質と人間的な性質との間に区別を設けているからである。このことの理由もまた教会は仁慈から信仰へ、遂には分離した信仰へ離反し去ったということである。そして彼らは主の人間的なものが神的なものであることを承認しないため、多くの者は躓いて、心でかれを否定しているのである(4689番)。にも拘らず真理は主の人間的なものは、前に語られた(4687番)、神的存在から発生した神的なものであり、主は神的存在であられるということである、なぜなら主もまたヨハネ伝に、また他の所に明らかに教えられているように、神的な存在と発出した神的なものとは一つのものであるからである―

 

 イエスはピリポに言われた、わたしはあなたとこんなにも長くいるのに、あなたはわたしを知りませんか。わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父がわたしの中におられることをあなたは信じませんか。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(ヨハネ14・9−11)。

 

なぜなら発生した神的なものは神的存在から発出している神的なものそれ自身であり、姿においては人間であるからである、なぜなら天界は―それが〔発出している神的なものが〕天界の凡てのものであるが―前に言ったように(4687番)、また諸章の終りで人間における凡ゆる物は巨大人と相応していることの中に示されているように、巨大人を表象しているからである。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P74

 

また、わたしはたずねた。「天のもっとも高い領域に住む聖徒たちと天の御使いは、いつも神の御顔を仰ぎ見ているのですか。だとすれば、神はどのような姿形でお現れになっているのでしょうか」

 これに対し、天使の一人が答えた。「海が水で満ちているのと同じく、全天は神に満ちているため、天の万民はどこにでも神の臨在を感じる。海に飛び込めば上も下もまわりもすべて水であるように、神の存在も天では同じように感じられる。そして、海の中に無数の生き物が生息しているように、神の無限の存在の中にあまねく生物が存在している。神は無限であられるため、有限な神の子らはキリストの形でした神をみることはできない。『わたしをみた者は父をみたのである』(ヨハネ14・9)と主自らいわれた通りである。

 この霊の世界においては、個人の霊的成長が神を知り感じることのできる度合いを決める。そして、キリストもまた、一人一人の霊的啓発と理解力に応じてその眩(まばゆ)い御姿をお示しになる。キリストが、霊界の低く暗い領域に住む者たちに、高き世界の住民に現す同じ栄光をもってお臨みになれば、彼らはそれに耐えることはできないであろう。そのように、主は一人一人の霊魂の成長段階と理解力に応じて、ご出現のときの栄光を加減しておいでである。」