わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる

ヨハネ14・10

 

ヨハネ14・7−11

 

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。

 

 

天界の秘義2803

 

 神的な真理が『息子』であり、神的な善が『父』であることは、『息子』の意義が真理であり(489、491、533、1147、2633番参照)、『父』の意義が善であることから、また真理が善からみごもり、生まれてくることからも明白である。何度も示したように、真理は善以外のいかような源泉からも存在し、発生することはできないのである。ここの『息子』は神的真理であり、『父』は神的善であることは、神的な本質の人間的な本質との、また人間的な本質の神的な本質との結合が、善の真理との、また真理の善との神的結婚であり、そこから天界の結婚が生まれているためである。なぜならエホバまたは主の中には無限なもの以外には何ものもなく、それは無限なものであるため、それはあらゆる善と真理との存在であり、発生したものであり、または善それ自体と真理それ自体であるということを除いては、いかような観念[考え]によっても把握されることはできないからである。善それ自体は『父』であり、真理それ自体は『息子[子]』である。しかし前に言ったように善と真理との、真理と善との神的結婚が在るため、主御自身がヨハネ伝に教えられているように、父は子の中に、子は父の中におられるのである―

 

 イエスはピリポに言われる、あなたはわたしが父の中に、父はわたしの中におられることを信じませんか。わたしは父の中に、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(ヨハネ14・10、11)。

 

さらにその同じ福音書の中には―

 

 イエスはユダヤ人に言われた、たとえあなたたちはわたしを信じないにしても、業を信じなさい。あなたたちが父はわたしの中に、わたしは父の中にいることを知り、信じるためである(ヨハネ10・36、38)。

 

さらに―

 

 わたしはかれらのために祈ります。わたしのものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはわたしのものであるからです、父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、かれらがすべて一つとなるためであります(ヨハネ17・9、10、21)。

 

さらに―

 

 今や人の子は栄化され[栄光を受け]、神はかれの中に栄化されたもう[栄光を受けたもう]、もし神がかれの中に栄化されたもうなら[栄光を受けたもうなら]、神もまた御自身の中にかれを栄化したもうであろう[栄光を与えたもうであろう]。父よ、あなたの子に栄光を与えたまえ、あなたの子もまたあなたを栄化するためであります[栄光をささげるためであります](ヨハネ13・31、32、17・1)。

 

 

天界の秘義2803[]

 

 このことから主における神的なものと人間的なものとの結合の性質を認めることができよう。すなわち、それは相互的なものであり、交替的なものであり、または交互的なものであり、その結合は神的結婚と呼ばれるものであり、そこから天界の結婚が下降し、天界の結婚は諸天界の主の王国それ自身であり、かくてそれはヨハネ伝には以下のように語られているのである―

 

 かの日あなたたちは、わたしはわたしの父の中におり、あなたたちはわたしの中に、わたしはあなたたちの中にいることを知るでしょう(ヨハネ14・20)

 

さらに―

 

 わたしがかれらのために祈るのは、父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、かれら凡ての者が一つのものとなるためであり、かれらもまたわたしたちの中に一つのものとなり、わたしがかれらの中に、あなたがわたしの中におられるためであり、あなたがわたしを愛されたその愛がかれらの中にあり、わたしがかれらの中にいるためであります(ヨハネ17・21−23、26)。

 

この天界の結婚は善と真理との、また真理と善との結婚であることは、前に見ることができよう(2508、2618、2728、2729お呼びそれ以下の番号)。

 

 

天界の秘義2803[]

 

 そして神的善は神的真理なしには在りえないしまた発生することはできないし、神的真理も神的善なしには在り得ないし、また発生することもできないし、一方は他方の中に相互的に、交互的に存在し、発生しているため、それで神的結婚は永遠から在ったことが、すなわち、主御自身がヨハネ伝に教えておられるように、子は父の中に、父は子の中に永遠から存在されたことは明白である―

 

 そして今、ああ父よ、あなたはわたしをあなた御自身をもって、世が存在しない中にわたしがあなたとともに持った栄光をもって栄化してください[栄光を与えてください](世7・5、24)。

 

しかし永遠から生まれた神的な人間的なものはまた時間の中に生まれたもうたのであり、時間の中に生まれ、栄化されたもうたものも同じものである。ここから主はわたしはわたしをつかわされた父の御許に行こうとしている、すなわち、わたしは父に帰ろうとしていると再三言われたのである。またヨハネ伝には―

 

初めに聖言があった(聖言は神的真理それ自身である)、聖言は神とともにあり、聖言は神であった、聖言は初めに神とともにあった。凡ゆる物はかれにより作られ、かれなしには作られた物は何一つ作られはしなかった。聖言は肉とされ、わたしたちの間に住まわれた、わたしたちはかれの栄光を、父の独児の栄光としての栄光を見た(それは)めぐみと真理とに満ちていた(ヨハネ1・1−3−14、またはヨハネ3・13、6・62参照)。

 

 

天界の秘義3960

 

「レアは言った、神はわたしに良いたまもの[持参金]を与えられました、わたしはわたしの男に六人の息子を生んだため、今かれはわたしとともに住むでしょう」。これはその最高の意義では主の神的なものそれ自身と主の神的な人間的なものとを意味し、内意では天界的な結婚を、外意では婚姻愛[結婚愛]を意味していることは、『ともに住むこと』の意義から、またレアがその時語った他の言葉からも明白である。『ともに住むこと』または『同居』がその最高の意義では主の神的なものそれ自身と主の神的な人間的なものである理由は、ヨハネ伝における主御自身の御言葉に従って、『父』と呼ばれている神的なものそれ自身は『神の子』と呼ばれている神的な人間的なものの中に、相互的にまた交互的に存在しているということである―

 

 イエスは言われる、ピリポよ、わたしを見た者は、わたしの父を見たのである。わたしを信じなさい、わたしは父の中に、父はわたしの中におられるのである(ヨハネ14・9−11、10・38)。

 

 この結合は神的結婚そのものであることは前に見ることができよう(3211、3952番)。それでもこの結合は同居ではなくて、文字の意義では『同居』により表現されているのである、なぜなら一つのものであるものは文字の意義では二つのものとして、すなわち、父と子として示され、三つのものとしてさえも、すなわち、父と子と聖霊としてさえも示されて、そのことは多くの理由によっているからであるが、そのことについては主の神的慈悲の下に他の所に述べよう。