いまだかつて、神を見た者はいない
ヨハネ1・18
ヨハネ1・18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
天界の秘義3038
ヨハネ伝には―
たれ一人いかような時にも父を見てはいない、父のふところの中におられる独り児の息子のみがかれを明らかに示された(ヨハネ1・18)。
『息子』は主の神的な人間的なもの[神的人間性]である。主以外の父がたれか天界に崇拝されていると信じている者は非常に誤っている。
天界の秘義4724[2]
このかんの実情は以下のようである、全天界における神的な真理はことごとく主の神的な人間的なもの以外のいかような源泉からも発出していないのである。神的なものそれ自身[神性それ自体]から発しているものは無限なものであるため、それはいかような天使にも直接流れ入ることはできないのであって、たんに主の神的な人間的なものを通して間接的にのみ流れ入ることができるのであり、それはまた主の以下の御言葉によって意味されているのである、『たれ一人いかような時にも神を見てはいない、ただ父の胸の中におられる独り児の神のみが、かれを示された』(ヨハネ1・18)。こうした理由からまた主はその神的な人間的なものの方面で調停者と呼ばれたもうている。
天界の秘義5321[2]
神的なものそれ自身からは教義は一つとして、神的な人間的なものを通さなくては、すなわち、聖言を通さなくては―聖言は、そお最高の意義では主の神的な人間的なものから発している神的真理であるが、その聖言を通さなくては―到底発出することはできないのである。最も内なる天界の天使たちさえも神的なものそれ自身から直接に発しているものを把握することはできないのである、なぜならそれは無限なものであり、それで凡ゆる把握を超絶し、天使たちの把握をさえも超絶しているからである。しかし主の神的な人間的なものから発出しているものは、かれらは把握することができるのである、なぜならそれは神的な人間としての神をとり扱っており、その神的な人間についてはその人間的なものから多少の観念[考え]が形作られることができるからであり、また何であれその人間的なものについて形作られる観念[考え]は、それが無垢の善から流れ出て、仁慈の善の中にありさえするなら、受け入れられるのである。このことがヨハネ伝の主の御言葉により意味されているものである―
たれ一人いかような時にも神を見てはいない、父の胸の中におられる独り児のみ、その方が神を示されたのである(ヨハネ1・18)。
同書に―
あなた方はいかような時にも父の御声を聞いてもいないし、またその御形を見てもいない(ヨハネ5・37)。
またマタイ伝には―
御子をのぞいては、また御子が父を示そうと欲しられる者をのぞいては、たれ一人父を知らない(マタイ11・27)。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P90
‘90・1・10
(聖母)
お聞きなさい、あなた方にたいする私どもの愛はとても大きく 地上の誰もその理解において 近づくことができないほどです (誰も神を見ていません)(*)。 聖なるお方はあなた方のくに民に 聖なる御顔を顕されました、その愛の 覆いを取り除き 聖心の傷を示されたのです ♡ 神は世を深く愛されて あなた方の罪を取り除く生けにえとなるように ひとり子を遣わされました、この方は、父なる、神の右に座しながら無限のお慈悲により この特別な仕方であなた方とともにいて ご自身の者たちのさ中にとどまろうと 降って来られたのです。
*誰も神を見ていません: どの人間も神の愛を完全に理解した者がないゆえに、「私ども」は神を見ていないのです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P191
‘90・7・20
霊魂の改心のために祈りなさい、平和、愛と一致のために祈りなさい、覚えておくように、私の愛は無限です、どの人間も地上では十分理解し得ない愛です ♡ あなたを祝福する、私のほうを向き 祝福してくれるように ♡