言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた
ヨハネ1・12
ヨハネ1・12、13
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
天界の秘義5826[3]
それでここから、主は旧約聖書の中で以下のことを言われ、新約聖書の中で確認されているのである、すなわち、律法の凡てと予言者たちの凡てとは神に対する愛と隣人に対する愛に基礎づけられ、かくて、生命そのものの中に基礎づけられてはいるが、しかし生活[生命]のない信仰には基礎づけられてはいないのであり、それで決して信仰のみには基礎づけられてはおらず、従って信頼にも基礎づけられてはいないのである、なぜなら信頼は仁慈がなくては不可能であるからである。もしその信頼が危険な時に、または死が差し迫ったときに悪い者のもとに現れるなら、それは似而非なる、または誤った信頼である。なぜならかれらは死が近づいてきたさいそれをうわべではいかほど熱烈に口にしたにしても、他生ではそうした信頼の一かけらもかれらの中には現れないからである。そうした信仰は ― 悪い者のもとでは何の効果も持たないことは、主御自身ヨハネ伝で教えられているのである ―
受け入れた者にはことごとく、かれの御名を信じる者には、かれは神の子となる力を与えられた、これらの者は血からも、肉の意志からも、また男の意志からも生まれないで、神から生まれたのである(1・12,13)。
天界の秘義5826[4]
『血から生まれた』者は、仁慈に暴行を加える者であり(374、1005番を参照)、また真理を冒涜する者であり(4735番)、『肉の意志から生まれた』者は自己と世を求める愛から悪の中にいる者であり(3813番)、『男の意志から生まれた』者は誤謬を確信している者である、なぜなら『男』は真理を意味し、その対立した意義では誤謬を意味しているからである。『神から生まれた』者は主によって再生して、そこから善の中にいる者である。これらの者が主を受け入れる者であり、これらの者が主の御名を信じる者であり、またこれらの者には主は神の子となる力を与えられるのであって、他の者には与えられはしないのである、この事から信仰のみは救いに対していかような効果をもつかが極めて明らかである。