自己点検

 

 

 

 

天界の秘義1680[2]

 

他生における霊たちはすべて以下のように区別されている、即ち、他の者に対して悪を欲している者らは奈落のまたは悪魔的な霊であるが、しかし他の者に善を欲している者たちは善良な、天使的な霊である。人間は自分がどちらの者の間にいるかを、奈落の者の間にいるか、または天使的な者の間にいるかを知ることが出来るのである、即ち、もし彼が隣人に悪を意図し、彼について悪のみしか考えず、また実際にそれを行うことが出来る時、それを行って、そのことに歓びを感じるならば、彼はその奈落の者の間にいるのであり、他生ではまた奈落の者となるが、それに反して隣人に善を意図し、隣人について善以外には何ごとも考えず、また実際にそれを行うことが出来るとき、それを行う人間は天使的な霊たちの間にいるのであり、他生ではまた天使となるのである。これが両者を区別する特質である。各自このことにより自分自身を点検して、自分はいかようなものであるかを知られよ。

 

 

 

天界と地獄487

 

 霊的な楽しさに各人の自然的な楽しさが死後変化するが、その霊的な楽しさはいかようなものであるか、またその性質はいかようなものであるかは相応の知識によらなくては知ることはできない。それは自然的な物は何一つそれに相応している霊的なものなしには存在しないことを全般的に教え、また相応しているものの何であるか、その性質の何であるかを個々に教えている。従ってその知識を持っている者は自分自身の愛を知り、またそれが、前に述べたところの、凡ゆる愛に関係していてその全体を支配している愛にいかように関係しているかを知りさえするなら、自分自身の死後の状態を確かめ、知ることも出来よう。しかし自分自身の支配愛を知ることは自己を愛している者には不可能である、なぜなら彼らは自分自身のものを愛して、その悪を善と呼ぶと同時に、その悪を支持し、また彼らにその悪を確認させる誤謬を真理と呼ぶからである。それでも彼らはもし欲するなら、賢明で、彼ら自身の見ないものを見ている他の者からそれを知ることが出来よう、しかしそれも、自己愛で膨れ上がって、賢い者の教えも凡て斥ける者らには不可能である。しかし天界的な愛にいる者は教えを受け、また悪の中へ―その悪の中へ彼らは生まれてきたのであるが―入れられるとすぐに、真理からその悪を認める、なぜなら真理は悪を明らかにするから。何人でも善から発している真理から悪とその誤謬とを認めることは出来るが、しかし誰一人善で真のものを悪からは認めることは出来ない。その理由は悪の誤謬は暗黒であって、同じく暗黒に相応しているということであり、それで悪から誤謬にいる者らは光の中に在る物を見ない盲人のようなものであり、また夜鳥のようにそれを避けている。しかし善から発した真理は光であり、また光に相応している(前の126−134参照)。それゆえ善から真理にいる者たちは見、その目は開かれていて、光と蔭との物を見分けることが出来る。これらの事についてもまた私は経験から確認したのである。天界の天使たちはときどき自分たち自身の中に起こる悪と誤謬とを見もし、認めもし、また霊たちの世界にいて、地獄と関係している霊らの抱いている悪と誤謬とを見もし、認めもするが、その霊ら自身は自分自身の悪と誤謬とは見ることは出来ないのである。彼らは天界的愛の善の何であるかを、良心の何であるかを、誠実と公正との何であるかを―それが自己のために為されないかぎり―知らず、また主により導かれることの何であるかも知らない。彼らはそうしたものは存在しないし、それでとるに足らぬものであると言う。こうした事柄を言ったのは、人間が自分自身を調べてみて、自分の楽しみとしていることから自分の愛を知り、そこから相応の知識から理解できるに応じて、自分の死後の生命の状態を知るためである。

 

 

 

天界と地獄508

 

たれでも、もし自分がそうした性質を持っていて、法律や生命の損失を恐れる必要もなく、また自分の世評を悪くしたり、名誉や、利得や、快楽を奪われることを恐れる必要もなくて行動することを許されるならば、自分の性質はどのようになるかを自分自身から判断できよう。にも拘らずこうした霊らの狂気は、それが用の限度を越えて突き進まないように主から抑えられている。なぜならこのような性質を持っている者各々によってさえ、何らかの用が果たされているからである。

 

 

 

真の基督教518

 

それから彼は試問天使たちの許へ送られ、彼らに同じ陳述を繰り返したが、天使たちは彼を検べた後で、彼が自らのことを語った事は皆真であったけれど、自らを一度も点検したことがない故、自らに在る一つの悪すらも知らない、彼は凡ての悪は口先の告白の後には最早神の眼前には悪ではなく、神はそれらの悪から目を背け、宥められると信じているのであると報告した。この理由によって、彼は抜け目のない姦淫者であり、盗人であり、狡猾な誹謗者であり、猛々しい復仇者であったけれど、一度も自らの悪を悔改めたことがなくしかも、心も、意志もかかる悪人であったので、もし法律と名声損失の怖れが無かったならば、言葉と行為とにおいてもそれと同様のものになったである。かくして彼はその真の性格を暴露された後、罪ありとされ、地獄の偽善者たちの許へ送られたのである。

 

 

 

真の基督教519

 

このような者たちは自分を検べることを特に好まない。

 

 

 

真の基督教567

 

しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」

 

 

 

真の基督教534

 

 自らを一度も点検しない人々は、その血液が毛細管の障碍によって腐敗した病人に譬えることが出来よう。この障碍は体液と血液の濃化、粘靭性、変化、酸性によって惹起される急性の痼疾、萎縮、四肢の麻痺を生ぜしめる。然し、己が諸々の意図を点検する者達は、金、銀、貴重な商品を積みオフィルから出帆する船に似ているが、それ以前は凡ゆる種類の塵埃と汚物を積み込んだ船に似ている。内的に自らを点検する者達は、その通路が貴重な金属の鉱石で輝いている鉱山のようであるが、それを為さない以前は光鱗を持った毒蛇と、羽のきらきら光った忌まわしい昆虫の巣食っている不愉快な泥沼のようなものである。自らを一度も点検しない者達は、谷間の乾いた骨に似ているが、自らを点検した後は、主エホバによって腱、肉、皮膚を以って蔽われ、息を吹き込まれて生きた骨に似ている(エゼキエル37・1−14)。

 

 

 

[[]「自らを点検しないが、しかも諸々の悪をそれが罪であるために避ける人々もまた悔改める者であり、同様に宗教的な動機から仁慈の諸々の業を為す人々も悔改める者である。」

 

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。何らかの悪を考えながらも、「私はこれをやりたい気持ちであるが、然しそれは罪である故に、やらない」と語らせるところの、容易な種類の悔改めがある。この方法によって地獄からの誘惑は抵抗を受け、その再度の試みは妨げられる。悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易である。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難であろう。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないためである。霊界に何人がそのように自らを制御し得るかと尋ねられ、そのことの出来る人は砂漠の鳩のように稀であった。或る者はそれが出来ると語ったが、自分達を点検し、自分の罪を神の前に告白することは不可能であることを認めた。確かに、宗教的な動機から善を為す凡ての者達は、実際的な諸悪を避けるが、しかも彼らは、自らは善を為しているために悪からは自由であり、且つその悪を隠すと想像し、意志の隠れた諸々の源泉について、反省することが極めて稀である。然し、親愛なる読者よ、仁慈に於ける本質的な事柄は、聖言、十誡、洗礼、聖餐、理性それ自身によって教えられている如く、諸々の悪を避けることである。何故なら、自らを点検しない限り、どうして、悪を避けて、これを放逐することが出来ようか。而して、善は、それが内的に浄められない限り、如何にして真に善となり得ようか。私は敬虔な人と、健全な理性を持つ人は凡てこれを読む時は、賛成し、これが真理であることを認めることを知っているが、それに従って行動する者は僅かしかいないことをも知っているのである。

 

 

 

真の基督教566

 

 自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。

 

 

 

5.自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである

 

 

天界の秘義3796[2]

 

 真理の情愛[真理に対する情愛]と善の情愛[善に対する情愛]における実情は以下のようである、即ち、人間により認められる真理の情愛と善の情愛はすべて主から発しているため、神的な起原から発しているが、しかしそれらが下降するにあたって、途中で色々な異なった流れに分かれ、そこにそれ自らのために新しい起原を形作るのである、なぜならそれらはその人間の中の純粋なものではなくて似而非なる情愛の中へ、悪と誤謬の情愛に流れ入るままに、そのように変化するからである。これらの情愛は外なる形ではしばしばそれ自身を純粋な情愛のように示しているが、しかし内なる形ではこうした似而非なる性格をもっているのである。それらが知られる源泉となる唯一の特質はその目的である、もしそれらがその目的な方面で自己または世のためのものであるなら、そのときはこれらの情愛は純粋なものではないが、しかしその目的の方面で隣人の善、社会の善、国家の善のためのものであり、特に教会の善と主の王国の善のためのものであるなら、その時はそれらは純粋なものである、なぜならそうした場合それらは、主はそれらの善の中におあられるため、主のためのものであるからである。

 

 

 

天界の秘義3796[3]

 

 それで自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである。ときには自分の目的が自分のためのものではないのにそれでも自分のためのものであるかのように見えるのである、なぜなら凡ゆる事柄の中に自分自身を反省することが人間の性質であり、しかもそれは習慣と習癖から発しているからである。しかしもしたれでも自分の中に在る目的を知ろうと欲するなら、その者が自己が称賛され、自己に光栄を与えられてそこから自分自身の中に認める歓喜に、また自己を離れた用から認める歓喜に注意しさえすればよいのである、もし彼がこの後の歓喜を認めるなら、彼は純粋な情愛の中にいるのである。彼はまた自分がその中に置かれている種々の状態に注意しなくてはならない、なぜなら状態そのものが非常にその認識を変えるからである。人間は自分自身の中にこれらの事柄を探ることが出来るが、しかし他の者の中にはそうしたことは出来ないのである。なぜなら人間各々の情愛の目的は主のみに知られているからである。これが主が以下のように言われた理由である―

 

 審いてはならない、あなた方が審かれないためである、罪に定めてはならない、あなた方が罪に定められないためである(ルカ6・37)。

 

 なぜなら多くの者は真理と善との方面では類似した情愛の中にいるように見えるが、それでも人間各々は起原については、即ち、目的については、異なった情愛の中に在り得るからである。

 

 

 

天界の秘義3796[4]

 

 目的が情愛の性質を、即ち、それが純粋なものであるか、似而非なるものであるか、または誤ったものであるかを決定することは、人間の目的が彼の生命そのものであるためである、なぜなら人間は自分の生命に、またはそれと同一のものではあるが、自分の愛に属しているものをその目的とするからである。隣人の善が、全般的な善が、教会と主の王国の善が目的である時、その人間はその霊魂の方面では主の王国の中におり、かくて主の中にいるのである、なぜなら主の王国は人類の善を求める目的と用の王国以外の何ものでもないからである(3645番)。人間のもとにいる天使たち自身が専らその人間の目的の中にいるのである。人間が主の王国がその中に存在している目的のような目的の中に存在しているに応じて、益々天使たちはその者を歓び、その者に自分自身を兄弟に連結させるように連結させるが、しかし人間が自己の目的の中に存在しているに応じ、益々天使たちは退いてしまい、地獄から悪霊らが近づいてくるのである、なぜならそれ以外のいかような目的も地獄を支配してはいないからである、この凡てから私たちは情愛がいかような起原から発しているかを探り、またそれを知ることがいかに重要なことであるかを認めることが出来るのであり、そしてそのことは専ら目的のみから知られることが出来るのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義169

 

 人間は自分自身を点検し、自分の罪を承認し、悔改めの業を行った後は、生涯の終りまでも善に堅く止まらなくてはならない。なぜならもし彼が後になってその以前の悪い生活に

再び帰って、それをかき抱くなら、彼はそのときは冒瀆するからである。なぜなら彼はそのとき悪と善を連結し、かくて彼の後の状態は、主の御言葉によると、前よりも悪くなるからである―

 

 汚れた霊が人を出ると、乾いた地を経めぐって休みを求めるが、それを得ない、それで言う、私は私の出てきた家へ帰ろうと。彼は来て、その家が、住む者もなく、掃き清められて、自分のために飾られているのを見、去って、自分より悪い他の七つの霊を自分に集め、彼らは入って、そこに住む、それでその者の後のありさまは前よりも悪くなる(マタイ12・43−45)。