自己点検

 

 

 

 

天界の秘義1680[2]

 

他生における霊たちはすべて以下のように区別されている、即ち、他の者に対して悪を欲している者らは奈落のまたは悪魔的な霊であるが、しかし他の者に善を欲している者たちは善良な、天使的な霊である。人間は自分がどちらの者の間にいるかを、奈落の者の間にいるか、または天使的な者の間にいるかを知ることが出来るのである、即ち、もし彼が隣人に悪を意図し、彼について悪のみしか考えず、また実際にそれを行うことが出来る時、それを行って、そのことに歓びを感じるならば、彼はその奈落の者の間にいるのであり、他生ではまた奈落の者となるが、それに反して隣人に善を意図し、隣人について善以外には何ごとも考えず、また実際にそれを行うことが出来るとき、それを行う人間は天使的な霊たちの間にいるのであり、他生ではまた天使となるのである。これが両者を区別する特質である。各自このことにより自分自身を点検して、自分はいかようなものであるかを知られよ。

 

 

 

天界と地獄487

 

 霊的な楽しさに各人の自然的な楽しさが死後変化するが、その霊的な楽しさはいかようなものであるか、またその性質はいかようなものであるかは相応の知識によらなくては知ることはできない。それは自然的な物は何一つそれに相応している霊的なものなしには存在しないことを全般的に教え、また相応しているものの何であるか、その性質の何であるかを個々に教えている。従ってその知識を持っている者は自分自身の愛を知り、またそれが、前に述べたところの、凡ゆる愛に関係していてその全体を支配している愛にいかように関係しているかを知りさえするなら、自分自身の死後の状態を確かめ、知ることも出来よう。しかし自分自身の支配愛を知ることは自己を愛している者には不可能である、なぜなら彼らは自分自身のものを愛して、その悪を善と呼ぶと同時に、その悪を支持し、また彼らにその悪を確認させる誤謬を真理と呼ぶからである。それでも彼らはもし欲するなら、賢明で、彼ら自身の見ないものを見ている他の者からそれを知ることが出来よう、しかしそれも、自己愛で膨れ上がって、賢い者の教えも凡て斥ける者らには不可能である。しかし天界的な愛にいる者は教えを受け、また悪の中へ―その悪の中へ彼らは生まれてきたのであるが―入れられるとすぐに、真理からその悪を認める、なぜなら真理は悪を明らかにするから。何人でも善から発している真理から悪とその誤謬とを認めることは出来るが、しかし誰一人善で真のものを悪からは認めることは出来ない。その理由は悪の誤謬は暗黒であって、同じく暗黒に相応しているということであり、それで悪から誤謬にいる者らは光の中に在る物を見ない盲人のようなものであり、また夜鳥のようにそれを避けている。しかし善から発した真理は光であり、また光に相応している(前の126−134参照)。それゆえ善から真理にいる者たちは見、その目は開かれていて、光と蔭との物を見分けることが出来る。これらの事についてもまた私は経験から確認したのである。天界の天使たちはときどき自分たち自身の中に起こる悪と誤謬とを見もし、認めもし、また霊たちの世界にいて、地獄と関係している霊らの抱いている悪と誤謬とを見もし、認めもするが、その霊ら自身は自分自身の悪と誤謬とは見ることは出来ないのである。彼らは天界的愛の善の何であるかを、良心の何であるかを、誠実と公正との何であるかを―それが自己のために為されないかぎり―知らず、また主により導かれることの何であるかも知らない。彼らはそうしたものは存在しないし、それでとるに足らぬものであると言う。こうした事柄を言ったのは、人間が自分自身を調べてみて、自分の楽しみとしていることから自分の愛を知り、そこから相応の知識から理解できるに応じて、自分の死後の生命の状態を知るためである。

 

 

 

天界と地獄508

 

たれでも、もし自分がそうした性質を持っていて、法律や生命の損失を恐れる必要もなく、また自分の世評を悪くしたり、名誉や、利得や、快楽を奪われることを恐れる必要もなくて行動することを許されるならば、自分の性質はどのようになるかを自分自身から判断できよう。にも拘らずこうした霊らの狂気は、それが用の限度を越えて突き進まないように主から抑えられている。なぜならこのような性質を持っている者各々によってさえ、何らかの用が果たされているからである。

 

 

 

真の基督教513

 

 痛悔は悔改めであるか否かは、以下の頁の悔改めに関わる叙述によって決定され得るであろう。人間は自らが、単に全般的のみでなく、また個別的にも、罪人であることを知らない限りは、悔改めは無くまた、個人も自らを点検し、自らの中に悪を認め、そのために自らを罪に定めない限りは、これを知ることは出来ないことが、そこに示されるであろう。しかし、信仰に必要であると宣言されている痛悔は、それとは全く異なったものである。何故なら、それは単に人間はアダムの罪を受け継ぎ、それ故、悪への傾向を受け継いでおり、そのため人間は神の怒りの下に在り、断罪、呪詛、永遠の死に適わしいと告白するに過ぎないからである。明らかにこの痛悔は悔改めではない。

 

 

 

真の基督教518

 

それから彼は試問天使たちの許へ送られ、彼らに同じ陳述を繰り返したが、天使たちは彼を検べた後で、彼が自らのことを語った事は皆真であったけれど、自らを一度も点検したことがない故、自らに在る一つの悪すらも知らない、彼は凡ての悪は口先の告白の後には最早神の眼前には悪ではなく、神はそれらの悪から目を背け、宥められると信じているのであると報告した。この理由によって、彼は抜け目のない姦淫者であり、盗人であり、狡猾な誹謗者であり、猛々しい復仇者であったけれど、一度も自らの悪を悔改めたことがなくしかも、心も、意志もかかる悪人であったので、もし法律と名声損失の怖れが無かったならば、言葉と行為とにおいてもそれと同様のものになったである。かくして彼はその真の性格を暴露された後、罪ありとされ、地獄の偽善者たちの許へ送られたのである。

 

 

 

 

<このような者たちは自分を検べることを特に好まない。>

 

真の基督教519

 

 このような偽善者の性質は比較によって説明することが出来よう。彼らは、黙示録に録されている龍の霊と蝗とに満ちている神殿に、或は聖言が足下に踏みつけられている神殿の講壇に、窓を開くと、内部にフクロウや夜の陰惨な鳥が飛び回っている美しく彩色された壁に、或は死人の骨に満ちている白く塗られた墓に、或は上に金の薄膜を着せた無価値な材料で造られた貨幣に、或は腐敗した木材を蔽うている樹皮或は外皮に、或は癩病の身体に着せた祭司の衣裳に、或は外は皮膚に蔽われているが、内は腐っている腫物と潰瘍とに似ているのである。聖い外なるものと汚れた内なるものとは調和しないことを誰が認めないだろうか。このような者たちは自分を検べることを特に好まない。それ故彼らは腹の中の糞尿を、それが厠に落つる前に感じないように、または認めないように己が内なる悪徳を感じないし、または認めもしない。しかし、これらの偽善者は、正しく信じ、行い、自らの罪の或るものについて悔改める者たちや、霊的な誘惑に於いて高らかに祈りを捧げる者たちと混同されてはならない。何故ならこのような一般的な告白は改良と再生とに先立ち、またその後に来るからである。

 

 

 

[X]「己が内に罪を認め、ある罪を発見することが、悔改めの始めである。」

 

真の基督教525

 

基督教国では、罪を認め得ない者は一人もない。何故なら、基督教徒なる幼児は凡て何が悪であるかを教えられ、少年は凡て罪の悪を学ぶからである。青年たちは凡てこの事を両親と教師たちから、また謂わば彼らの最初の教科書なる十戒から学び、その後人生の諸段階に於て、同一の事を公の説教と個人的な教訓から、特に聖言から学ぶのである。彼らはまた、十戒と聖言全般とに禁じられていると同一のものを禁じている民法からそれを学ぶのである。何故なら、罪は隣人への悪であり、隣人への悪はまた神への悪であり、神への悪は更に罪であるからである。しかし、罪を一般的に認めることは、人間が自分の行為を吟味し、自らが或る特殊の罪を、秘かに、或は公然と犯したか否かを見ない限り、何の益もない。このことが為されない中は、彼の知識は単に理論的なものであり、かくて説教者の言葉は片方の耳に入って他の耳から抜けて行き、間もなく凡ての実際的な価値を凡て失ってしまうのである。しかし、それは、人間が自らの知識を自個点検のために用い、或る特殊の罪を発見し、かくして自らに「これは罪である」と語り、永遠の刑罰を恐れてこれから遠ざかる時は全然異なってくる。その時始めて教会に聞かれる教訓は、注意深く傾聴され、心に受け入れられ、その人間は異教徒から基督教徒になるのである。

 

 

 

真の基督教526

 

 人間は自らを吟味しなくてはならないことほど、基督教世界に知られているものはない。何故ならロマ・カトリックであれ、或はプロテスタントであれ、凡ゆる国々に、聖餐に先立って自己を吟味し、自己の諸々の罪を認め、知り、新しい生活と為すようにとの勧告がなされるからである。而して英国の教会ではこれは下記のような恐るべき威嚇を伴っている。聖餐式に先立つ辞の中で、次の辞を祭司が聖壇から読み且つ宣言する「聖餐に与るにふさわしい者となる道または手段は、先ず汝らの生活と会話とを神の誡命の規定によって検べ、如何なる点に於いても、汝自らが意志、言葉、或は業によって罪を犯したと認めるならばそこに自らの罪深きを嘆き、生活を改善しようとの全き決意をもって汝ら自身を全能の神の前に告白することである。而して、汝らは自らの咎は単に神に対してばかりでなく、隣人に対するものであることを認めるならば、彼らと和解し、汝らが他の何人かに加えた危害と損害の凡てに対し、汝の為し得る限りを尽くして、賠償と弁済とを進んで為し、また、汝らが神の御手から汝らの罪咎を赦されることを欲するように、汝らに罪咎を犯した者たちを進んで赦さなくてはならない。何故なら、それを怠るならば聖体を受けることは、只、汝の呪詛を増大するに過ぎないからである。神を瀆(けが)す者、神の聖言を妨害し、或は誹謗する者、姦淫を犯す者、或は邪悪な思い、または嫉妬を抱く者、或は他の何らかの恐るべき犯罪を犯者があるならば、その罪を悔改めよ、然らざれば、この聖餐を受けた後、悪魔がユダに入ったように、汝らの中に入り、汝らに凡ゆる不法を満たし、身体と霊魂の破滅を汝らにもたらすであろう。」

 

 

 

真の基督教527

 

 しかし、自己点検の出来ない人々もいるのである。例えば、幼児達、自己点検の出来る年齢前の少年少女達、同様に反省の出来ない単純な人々、何ら神を恐れぬ人々、心と身体の病んでいる人々の如き者である。基督の功績を転嫁するところの信仰のみによる義認の教義の結果、自己点検と、悔改めとは、信仰を人間的なものを以て汚し、かくて、救いの手段をこぼってしまうと確信している者達もこれらの者に附け加えなくてはならない。このような人々には凡て口先のみの告白は役立つが、これは上述したように、悔改めではない。

 しかし、罪とは何であるかを知る者、特に、聖言をしばしば読み、これを他の者達に教えながらも、自らの中に如何なる罪をも認めない者はこれとは異なっている。彼らは大きな富を貯え、これを眺めて悦に入り、而も、これを何ら有用な目的のために用いない守銭奴に譬えることが出来よう。これらの者は、その一人は己が一タラントを地面に隠し、他の一人はその一磅(ポンド)を布の中に隠した商売人の如きものであり(マタイ25・25、ルカ19・20)、種子の落ちた固い石地に(マタイ13・5)、葉のみ繁ってはいるが、果は何ら実っていない無花果の木に(マルコ11・13)、肉になされ得ない鐵石の心に似ており(ゼカリヤ7・12)、「集むれども生まざるしゃこの如く、不義をもて財を獲る者なり。その齢の半にてこれに離れ、終に愚かなる者とならん」(エレミヤ17・11)と言われる者に似、また燈を持っていたが、油を携えていなかった五人の処女に似ている(マタイ25・1−12)。聖言から仁慈と信仰とについて多くを学び、その教訓については凡てのことを知っていても、それに従って生きない者は、口に肉の大きな塊を詰め込み、これを良く噛まないで飲み下ろす大食家に似ている。これらの肉塊は胃から不消化のまま進んで行き、乳糜を害い、遂にその生涯を悲惨に終わらせる長患いを引き起こすのである。彼らは充分に光を与えられているけれど、霊的な熱を欠いているため、冬の凍てついた地面、北極地方、雪、或は氷柱に似ている。

 

 

 

真の基督教528

 

悔改めは、救いにとって絶対的に必要であるとは、主の明白な宣言を含んでいる聖言の多くの記事によって明らかである。これらの中から我々は以下のものを引用しよう。

ヨハネは悔改めの洗礼を宣べ伝えて語った「悔改めに相応しい果を結べ」(ルカ3・8、マルコ1・4)

「イエス教えを宣べはじめて言い給う、悔改めよ。」(マタイ4・17)

而して彼は言い給う。「神の国は近づけり、汝ら悔改めよ。」(マルコ1・14、15)

「汝ら悔改めずば、皆亡ぶべし。」(ルカ13・3)

イエスはその弟子達に悔改めと罪の赦しとが彼の名に於いて凡ゆる国民の間に宣べ伝えられねばならぬことを告げ給うた(24・47)。それ故、ペテロは罪の赦しのためにイエス・キリストの名に於いて悔改めと洗礼とを宣べ伝え(使徒行伝2・38)、

また「汝ら罪を消されん為に悔改めて心を転ぜよ」(3・19)と語った。

而してパウロは凡ゆる場所に凡ゆる者は悔改めなくてはならない(17・30)と宣べ伝え、

「先ずダマスコに居るもの、次に、エルサレムに及びユダヤ全国、また異邦人にまで、悔改めて神に立ち帰り、その悔改めにかなう業をなすべきを示し」(使徒行伝26・20)

「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対して悔改め、われらの主イエス・キリストに対して信仰すべきことを証せり」(20・21)

主はまたエペソの教会に語り給うた。「我は汝が初の愛を離れしを責む、悔改めよ、然らずして若し悔改めずば、汝の燈台をその処より取除かん。」(黙示録2・4、5)

ペルガモの教会には、「われ汝の行為を知る、悔改めよ。」(2・13、16)

テアテラの教会には、「その行為を悔改めずば、大なる患難に投げ入れん。」(2・22)

ラオデキアの教会には、「われ汝の行為を知る、汝励みて、悔改めよ。」(3・15、19)

他の箇所に、「悔改むる一人の罪人の為に天に歓喜あるべし」(ルカ15・7)

他に同一の意義を示す多くの記事がある。是によって人間は悔改めなければならぬことが明白である、然し我々は次に悔改めの性質と方法とを考察しよう。

 

 

 

真の基督教530

 

それ故、問題は、如何にして人間は悔改むべきであるか、ということである。答えは実際に悔改めることである。即ち、自らを点検し、自らの罪を認識し、承認し、主に懇願し、新しい生活を始めることである。前項に示されたように、自己点検なくしては悔改めは有り得ない。然し、自己点検は罪の認識を意味し、認識はその承認を意味する。而して、この三つの義務の凡ては人間を導いてその罪を主の前に告白させ、助けを求めて祈らせ、かくして到達すべき目標である新しい生活を始めさせる。これが実際の悔改めである。年頃になった者は誰でもこれが行為の正しい経路である事を認めることが出来る。それは再生を意味する洗礼式に示される。何故なら、その挙式に名付け親たちはその幼児のために、彼は悪魔とその凡ての業とを斥けるであろうと約束するからである。それは、主の聖餐に示されている。即ち、その聖餐に先立って凡ての者たちは自らの罪を悔改め、神に心を向け、新しい生活を始めるように勧告されている。それは、凡ての基督教徒の手にしている十誡によってもまた示されている。何故なら、その中の教示は人間が諸悪から遠ざかることを命じているからである。これらの悪が悔改めによって取り去られない限り、彼は隣人を愛し、神が愛せよという命令に服従することは出来ない。然し、この二つの誡命に凡ゆる律法と預言者が、即ち聖言が、従って救いが懸かっている。人が如何なる時にか―恐らく聖餐の備えをなしている間に―その気付いた一つ以上の罪から遠ざかるならば、彼は真実の悔改めの道に向って確乎たる出発を為したのであり、その時彼は天界への途上に在るのである。何故なら、その時自然的なものから霊的なものに成り、主によって新しく生まれ始めるからである。

 

 

 

[Z]「真の悔改めは、単に、自分の生活の行為のみではなく、更に自分の意志の意図をも点検することである。」

 

真の基督教532

 

 その理由は理解と意志はその行為の原因であるからである。何故なら、人間は思考から語り、意志から行動し、それ故、言葉は思考を表現し、行動は意志を表現するからである。それ故、身体が罪を犯す時に、それと同時に意志と思考とが罪を犯すことが推論される。身体によって犯された諸々の悪を悔改め、しかもなお悪を思い、これを欲することが可能である。然し、これは有害な木を切り倒してその根を残しておくようなものであって、その根から木は再び成長して繁茂するのである。然し、その根が抜き取られる時は異なり、これは、単に自らの行為のみでなく更に自らの意図を点検し、悔改めによって諸悪を除去する時為される。人間は自らの思考を点検することによって自分の意志の意図を点検する。なぜなら、意図はそれ自らを思考の中に表現するからである。それ故、思考は、人間が復讐を、姦淫を、窃盗を、偽りの証を、神と、その聖なる言と、教会に対する冒涜等を企てているか否かを明示するのである。若し、彼が法律と名声失墜との恐怖が無ければ自分はこれらの悪を為す傾向を持つことを知り、しかもそれらは罪であるという理由から、それを為さないと決意するならば、その時彼は真に、且つ、真面目に悔改めているのである。これは、彼がそれらの悪の誘惑を感じ、しかも何ら外的の抑制物を受けない時に、その悪に抵抗し、そこから遠ざかるならば、特に真実なものである。彼が耐え忍ぶならば、悪しき意志の諸々の快楽は遂に忌むべきものとなり、最後に地獄へ還される。これは主が、「誰にても己が生命を得んとする者はこれを失い、我がために生命を失う者はこれを得べし」(マタイ10・39)と語り給うた際意味し給うた所である。かくの如く悔改めによって己が諸々の悪を除去する者は、救い主に在す主なる神によって播かれる種子が手入れの良く行き届いた地を得て、穀物を産み出すために、悪魔によって播かれた毒麦を、適当な時期に抜き取る人に似ている(マタイ13・25−31)。

 

 

 

真の基督教533

 

凡ての人々を支配せんとする愛と、凡ゆる富を所有せんとする愛の二種類の愛は長く人類に深く根を下ろしてきた。この二つの愛は、抑制されない時には、何らの制限も知らず、前者は天界の神たらんとの欲望を吹き込み、後者は世界の神たらんとの欲望を吹き込むのである。他の凡ての悪しき愛はこの二つの愛に従属し、その名はレギオンと呼ばれる。然しこれらのものは深く内部に隠れ潜んでいる故、それらを点検することは困難である。それらは岩の裂目に隠れていて、そこに身を休める者に向って飛び出し、これに致命傷を加え、再び己が隠れ家に退く蝮のようなものである。それらはまた人々を歌をもって魅了し、次にこれを殺して了うた女神サイレンのようなものである。この二種の愛は、自らを華麗な衣装を以って飾るが、それは丁度悪魔がその欺こうと欲する者達に感銘を与えようとしてその魔術によって華麗な衣装を以って自らを飾る様に似ている。支配への愛と富への愛は高貴者よりも卑賤な者を、富んだ者よりも貧しい者を、王よりも従臣を動かしている。何故なら、王は支配と富とへ生まれ、遂にはこれを貧しい者、卑賤な者がその家の持ち物を見るように見るに過ぎないからである。しかし他の国々を支配しようと渇望する王侯はこれとは異なっている。意志の諸々の意図が点検されねばならぬ理由は、意志は愛を受容する器であり、その居所であるからである。意志から各種の愛は、その歓喜を発散させ、これを理解の諸々の認識と思考へ注ぎ入れ、認識と思考はそれ自らによって何ごとも為さず、単に愛によって示される物に同意し、これを確認するに過ぎない。それ故、意志は、人間がその中へ住む家であり、理解は外庭である。それ故これが意志の諸々の意図が点検されねばならない理由である。何故なら、これが為される時、その人間は諸々の遺伝悪と実際悪が住まっている自然的な意志から霊的な意志へ引き挙げられ、かくして主はその自然的な心の凡てを改良し、再生させ、かくしてその人間全体を改良して、再生させ給うからである。

 

 

 

真の基督教534

 

 自らを一度も点検しない人々は、その血液が毛細管の障碍(しょうがい)によって腐敗した病人に譬えることが出来よう。この障碍は体液と血液の濃化、粘靭性、変化、酸性によって惹起される急性の痼疾、萎縮、四肢の麻痺を生ぜしめる。然し、己が諸々の意図を点検する者達は、金、銀、貴重な商品を積みオフィルから出帆する船に似ているが、それ以前は凡ゆる種類の塵埃(じんあい)と汚物を積み込んだ船に似ている。内的に自らを点検する者達は、その通路が貴重な金属の鉱石で輝いている鉱山のようであるが、それを為さない以前は光鱗を持った毒蛇と、羽のきらきら光った忌まわしい昆虫の巣食っている不愉快な泥沼のようなものである。自らを一度も点検しない者達は、谷間の乾いた骨に似ているが、自らを点検した後は、主エホバによって腱、肉、皮膚を以って蔽われ、息を吹き込まれて生きた骨に似ている(エゼキエル37・1−14)。

 

 

 

[[]「自らを点検しないが、しかも諸々の悪をそれが罪であるために避ける人々もまた悔改める者であり、同様に宗教的な動機から仁慈の諸々の業を為す人々も悔改める者である。」

 

 

 

真の基督教535

 

実際の悔改めすなわち、自己点検、己が罪の認識と承認、主への祈願、新生を開始することは、多くの理由から改革派の基督教世界においては極めて困難である(504番)。何らかの悪を考えながらも、「私はこれをやりたい気持ちであるが、然しそれは罪である故に、やらない」と語らせるところの、容易な種類の悔改めがある。この方法によって地獄からの誘惑は抵抗を受け、その再度の試みは妨げられる。悪を図っている者を責め、これに「それを為すな、それは罪だから」と語ることは極めて容易である。しかも、それと同じ事を自らに語ることは如何に困難であろう。これは、自己抑制は意志の問題であり、他に良い忠告を与えることは単に皮相的な思考の事柄に過ぎないためである。霊界に何人がそのように自らを制御し得るかと尋ねられ、そのことの出来る人は砂漠の鳩のように稀であった。或る者はそれが出来ると語ったが、自分達を点検し、自分の罪を神の前に告白することは不可能であることを認めた。確かに、宗教的な動機から善を為す凡ての者達は、実際的な諸悪を避けるが、しかも彼らは、自らは善を為しているために悪からは自由であり、且つその悪を隠すと想像し、意志の隠れた諸々の源泉について、反省することが極めて稀である。然し、親愛なる読者よ、仁慈に於ける本質的な事柄は、聖言、十誡、洗礼、聖餐、理性それ自身によって教えられている如く、諸々の悪を避けることである。何故なら、自らを点検しない限り、どうして、悪を避けて、これを放逐することが出来ようか。而して、善は、それが内的に浄められない限り、如何にして真に善となり得ようか。私は敬虔な人と、健全な理性を持つ人は凡てこれを読む時は、賛成し、これが真理であることを認めることを知っているが、それに従って行動する者は僅かしかいないことをも知っているのである。

 

 

 

真の基督教566

 

 自然的な人の生活はある動物の生活に似ている。それ故、霊界では自然的な人は自らに相応した動物に囲まれて現れる。厳密に言えば、自然的な人は動物に過ぎないが、しかしそれに霊的な要素が附加されているために、彼は人間となる能力を持っているのである。もし彼がこの能力をその意図された目的のために用いないならば、彼は人間のように見えるかもしれないが、単に話をする動物に過ぎない。彼の言葉は合理的であるが、その思考は狂っており、彼の行為は道徳的であるが、その欲望は狂想的である。霊的な人間から見れば彼の行為は所謂ふくろ蜘蛛に噛まれている聖ヴィトスの舞踏のように見える。各人は偽善者が神を讃美し、盗人が正直を讃美し、姦通者が貞操を讃美することが出来ることを知っている。思考と発言との間に、意図と行為との間に、閉じることの出来る扉があって、深慮あるいは狡猾がその扉の番人になっていないならば、彼は如何ような野獣よりもさらに狂暴に憎むべき残酷な行為に向って突進するであろう。しかし、その扉は死後開かれ、その時人間の真の性質が現れるのである。しかし彼は地獄の刑罰と監禁によって抑制される。故に、親愛なる読者よ、諸君は自分自身を点検し、諸君の諸々の悪を探り出し、それらを宗教的な動機によって除去されよ、もし諸君が何か他の動機によってそれを行うならば、単にそれを世から隠すことに成功するに過ぎないであろう。

 

 

 

真の基督教567

 

しかし、直ちに近くの場所から一つの声が聞こえてきた。「諸君は罪については些かも知らない。何故なら諸君は自らを一度たりとも点検したことが無いからである。それ故、諸君は如何なる悪をも神に対する罪としてこれを決して避けなかった。しかし罪を避けない者は罪の中に止まり、罪は悪魔である。それ故諸君は主が「その時汝らは我らは御前にて飲み食いし、汝は我らの大路にて教えたまえりと言い出でんに、彼答えて、われ汝らが何処より来たりし者なるかを知らず、我を離れて去れ、汝ら不法を働く凡ての者よ」(ルカ13・26、27、マタイ7・22、23)と語り給うた者である。それ故、諸君は己が場所へ去られよ。諸君には洞窟への入口が見える。入られよ。然すれば仕事が与えられ、後食物が諸君の業に応じて与えらえるであろう。もし入ることを拒絶するならば、飢えの苦痛が速やかに諸君を駆り立てるであろう。」

 

 

 

 

5.自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである

 

 

天界の秘義3796[2]

 

 真理の情愛[真理に対する情愛]と善の情愛[善に対する情愛]における実情は以下のようである、即ち、人間により認められる真理の情愛と善の情愛はすべて主から発しているため、神的な起原から発しているが、しかしそれらが下降するにあたって、途中で色々な異なった流れに分かれ、そこにそれ自らのために新しい起原を形作るのである、なぜならそれらはその人間の中の純粋なものではなくて似而非なる情愛の中へ、悪と誤謬の情愛に流れ入るままに、そのように変化するからである。これらの情愛は外なる形ではしばしばそれ自身を純粋な情愛のように示しているが、しかし内なる形ではこうした似而非なる性格をもっているのである。それらが知られる源泉となる唯一の特質はその目的である、もしそれらがその目的な方面で自己または世のためのものであるなら、そのときはこれらの情愛は純粋なものではないが、しかしその目的の方面で隣人の善、社会の善、国家の善のためのものであり、特に教会の善と主の王国の善のためのものであるなら、その時はそれらは純粋なものである、なぜならそうした場合それらは、主はそれらの善の中におあられるため、主のためのものであるからである。

 

 

 

天界の秘義3796[3]

 

 それで自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである。ときには自分の目的が自分のためのものではないのにそれでも自分のためのものであるかのように見えるのである、なぜなら凡ゆる事柄の中に自分自身を反省することが人間の性質であり、しかもそれは習慣と習癖から発しているからである。しかしもしたれでも自分の中に在る目的を知ろうと欲するなら、その者が自己が称賛され、自己に光栄を与えられてそこから自分自身の中に認める歓喜に、また自己を離れた用から認める歓喜に注意しさえすればよいのである、もし彼がこの後の歓喜を認めるなら、彼は純粋な情愛の中にいるのである。彼はまた自分がその中に置かれている種々の状態に注意しなくてはならない、なぜなら状態そのものが非常にその認識を変えるからである。人間は自分自身の中にこれらの事柄を探ることが出来るが、しかし他の者の中にはそうしたことは出来ないのである。なぜなら人間各々の情愛の目的は主のみに知られているからである。これが主が以下のように言われた理由である―

 

 審いてはならない、あなた方が審かれないためである、罪に定めてはならない、あなた方が罪に定められないためである(ルカ6・37)。

 

 なぜなら多くの者は真理と善との方面では類似した情愛の中にいるように見えるが、それでも人間各々は起原については、即ち、目的については、異なった情愛の中に在り得るからである。

 

 

 

天界の秘義3796[4]

 

 目的が情愛の性質を、即ち、それが純粋なものであるか、似而非なるものであるか、または誤ったものであるかを決定することは、人間の目的が彼の生命そのものであるためである、なぜなら人間は自分の生命に、またはそれと同一のものではあるが、自分の愛に属しているものをその目的とするからである。隣人の善が、全般的な善が、教会と主の王国の善が目的である時、その人間はその霊魂の方面では主の王国の中におり、かくて主の中にいるのである、なぜなら主の王国は人類の善を求める目的と用の王国以外の何ものでもないからである(3645番)。人間のもとにいる天使たち自身が専らその人間の目的の中にいるのである。人間が主の王国がその中に存在している目的のような目的の中に存在しているに応じて、益々天使たちはその者を歓び、その者に自分自身を兄弟に連結させるように連結させるが、しかし人間が自己の目的の中に存在しているに応じ、益々天使たちは退いてしまい、地獄から悪霊らが近づいてくるのである、なぜならそれ以外のいかような目的も地獄を支配してはいないからである、この凡てから私たちは情愛がいかような起原から発しているかを探り、またそれを知ることがいかに重要なことであるかを認めることが出来るのであり、そしてそのことは専ら目的のみから知られることが出来るのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義169

 

 人間は自分自身を点検し、自分の罪を承認し、悔改めの業を行った後は、生涯の終りまでも善に堅く止まらなくてはならない。なぜならもし彼が後になってその以前の悪い生活に再び帰って、それをかき抱くなら、彼はそのときは冒瀆するからである。なぜなら彼はそのとき悪と善を連結し、かくて彼の後の状態は、主の御言葉によると、前よりも悪くなるからである―

 

 汚れた霊が人を出ると、乾いた地を経めぐって休みを求めるが、それを得ない、それで言う、私は私の出てきた家へ帰ろうと。彼は来て、その家が、住む者もなく、掃き清められて、自分のために飾られているのを見、去って、自分より悪い他の七つの霊を自分に集め、彼らは入って、そこに住む、それでその者の後のありさまは前よりも悪くなる(マタイ12・43−45)。

 

 

 

 

真の基督教661

 

 

 

真の基督教661

 自己への愛から支配することは、生来悪であって主とは正反対である自我性から行動することである。それ故、人間はその悪に深く沈むに従い、益々神をまた教会の諸々の聖なる物を否定し、自らと自然を礼拝するのである。この愛に溺れている者は自らを点検されよ。然すれば、その人たちは認めるであろう。この愛は抑制されない限りは、更に高く登ろうとの野望を生み、最早遠くへ行くことの出来ない時にのみ嘆くのである。政治家にあっては、それは全世界を支配し、王の王、主の主と呼ばれようとの欲望を作り出し、教職者にあっては神となり、天界を支配しようとの欲望を作り出すのである。このような人間は、以下に見られるように、無神論者である。