イゼベル

 

 

啓示による黙示録解説132

 

「あなたはかの女イゼベルを許している」は、かれらの中には教会内で信仰を仁慈から分離して、信仰のみを救うものとする者が若干いることを意味している。仁慈から分離した信仰が『かの女イゼベル』により意味していることは、以下に記されている事柄が霊的意義により連続して明らかにされるとき、そしてそれらがかの信仰と比較されるとき、明白となる、なぜなら以下のものがアハブの妻イゼベルの悪行であったからである―

 

 彼女は行ってバールに仕え、彼のためにサマリアに祭壇を建て、もりをつくった(列王記上16・31−33)。

 彼女はエホバの予言者たちを殺りくした(列王記上18・4、13)。

 彼女はエリヤを殺そうとした(列王記上19・1、2)

 彼女は欺いて偽証人を代わりに立て、ナボテからぶどう園をとり去り、かれを殺した(列王記上21・6、7以下)。

 こうした悪行のために、彼女は犬にくわれるにちがいないとエリヤから彼女に予告された(列王記21・23)。

 彼女はその化粧をして立っている窓から投げおとされたが、その血のいくらかは壁にはねかえり、また彼女をふみつけた馬の上にもはねかえった(列王記下9・30−33)。

 

聖言の予言的な部分のみでなく、歴史的な部分も、教会の霊的な事柄を意味しているように、これらもまたそれを意味している。それが仁慈から分離した信仰を意味することは、その霊的意義から、またそれらを共に対照することから明白である、なぜなら『行ってバールに仕えること』と『彼のために祭壇を建てること』と『もりを作ること』により凡ゆる種類の欲念に仕えることが意味され、または、それと同じことではあるが、仁慈と生命の教義を何ら持たないで、信仰のみの教義をもっている者らの為すことではあるが、悪念を何ら気にかけない、悪も何ら気にかけはしない悪魔が意味されるからである。『予言者たちを殺すこと』により聖言から発している教義の諸真理を破壊することが意味されている。『エリヤを殺そうと欲すること』により聖言そのものにそれと同じことを為そうと欲することが意味されている。『ナボテからぶどう園をとり去って、かれを殺すこと』により教会が意味されている。なぜなら『ぶどう園』は教会であるから。彼女を食った

『犬』により欲念が意味されている。『窓から投げ出し、血を壁にはねかけ、馬にふみにじられること』により、その欲念の破滅が意味されている。なぜなら色々な細々した事柄がまたそのことを意味しているからである。すなわち、『窓』は光の中の真理を、『血』は誤謬を、『壁』は究極的なものにおける真理を、『馬』は聖言の理解を意味しているのである。ここから、これらの事柄は、共に対照されるとき、仁慈から分離した信仰と一致すると結論してよいであろう。このことは黙示録の以下の記事で、この信仰をとり扱っているところから更に明らかとなるであろう。

 

 

啓示による黙示録解説133

 

「自分自身を女予言者と呼び」は、そして彼らはその信仰のみの教義を教会の教義そのものとして、その上に神学を凡て基礎づけている、を意味している。聖言の『予言者』により教会の教義が意味されていることは前に見ることができよう(8番)、それでそれに似たことが『女予言者』によっても意味されている。改革派の基督教会には信仰のみが救いのただ一つの手段として受け入れられており、そこから仁慈の業は人を救いはしないものとして、信仰から分離されていることは知られている、従ってここから、神学と呼ばれているところの人間の救いの教義全体は、現今ではかの信仰であり、従って『その女イゼベル』である。