エホバ
1.聖書
2.主はエホバ御自身
3.「エホバ」の名は「存在している」を意味
4.教会が無い所には『神』が用いられる言葉であり、教会が在る所には『エホバ』が用いられている
5.意志の事柄または愛の善がとり扱われている時は『エホバ』の名が用いられている
6.この愛そのものがエホバ
7.天使たち
8.ユダヤ人は、その名が用いられた最初の時から、敢えて「エホバ」とは決して言わなかった
9.「主エホビ」
1.聖書
出エジプト3・14
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
ヨハネ8・23,24
イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
2.主はエホバ御自身
天界の秘義2329[3]
主はエホバ御自身であられ、旧約聖書の歴史と予言との中にしばしばそのように呼ばれたもうていることは、前の1736番に見ることができよう。
天界の秘義2796
ここに取り扱われているところの、主が色々な状態を着けられたことについては、それらは人間には不明なものでないわけにはいかない、なぜなら人間は自分の状態の変化を決して反省はしないからである。しかしその状態の変化は理解に属しているものまたは思考の方面のみでなく、意志に属しているものまたは情愛の方面でも絶えず行われているのである。彼がその状態の変化を反省しない理由は、彼が彼の中の凡ゆるものは自然的な秩序をもって互いに続いていて、それを(ある方向へ)向けている更に高いものが存在してはいないと信じているということであるが、事実はそれに反し凡ゆるものは人間のもとにいる霊たちと天使たちとにより処理されて、その人間の凡ゆる状態と状態の変化とはそこから発しており、かくてそれらは主のみが先見されている目的に向って主により永遠に向けられて行くのである。真実はそのようなものであることが今や私には多年の経験から極めて充分に知られるようになったのである。またいかような霊と天使とが私と共におり、彼らはいかような状態を生み出したかも知り、また観察することができたのである。以下のことを私はおごそかに主張することが出来る。即ち、凡ゆる状態は、その最小のものですらも、この源泉から発しており、そのことにより主により(主の目的へ)向けられているのである。また各々の状態の中には非常に多くの他の状態が在り、それらは明らかに現われてはいないで、共になって一つの全般的な状態として現われているが、これらの状態は、その後に連続して秩序をもって続いている幾多の状態に関連して処理されていることも知り、観察することが出来たのである。人間のもとではこれらのものは主により行われているが、しかし主御自身のもとでは、主が世におられた時は、それらは主御自身により行われたのである。なぜなら主は神的なものであられ、その生命の存在そのものはエホバであったからである。
天界の秘義4240[2]
主はエホバであられることは、前の1343、1736、2004、2005、2018、2025、2156、2329、2921、3023、3035番に見ることができよう。
天界の秘義5663[2]
主が聖言に『神』と『エホバ』により意味されたもうたことは、ユダヤ教会は知らなかったのであり、現今の基督教会も知らないのである。基督教会がそれを知っていないことは、それが神性を三人格に区別しているためである。しかし洪水以後に存在した古代教会は、とくに洪水以前に存在した最古代教会は、『エホバ』と『神』により主以外には何ものも理解しなかったのであり、実に主の神的な人間的なものの方面以外には何ものも理解しなかったのである。
天界の秘義7091
「イスラエルの神エホバはこのように言われた」。これは、主の神的な人間的なものから発している、即ち、教会の諸真理に反抗している者らに対する勧告を意味していることは、『イスラエルの神エホバ』により神的な人間的なものの方面の主が意味されているという事実から明白である。(聖言では主は『エホバ』であられることについては、1343、1736、2921、3023、3035、5041、5663、6281、6303、6905番を参照)。主が『イスラエルの神』と呼ばれ給うのは、『イスラエル』により主の霊的な王国が意味されるためであり(6426、6637番)、また主は世に来られることによってその王国または教会に属した者たちを救われたためである(6854、6914、7035)。『イスラエルの神』が神的な人間的なものの方面の主であられる理由は、その教会に属している者たちは霊的な天的な凡ゆるものについては、また神的なものについては、自然的な考えを持っており、それで神的なものを自然的な人間を考えるように考えない限り、情愛のいかようなものによっても神的なものと連結することが出来ないということである、なぜならもし彼らは神的なものを自然的な人を考えるように考えないなら、神的なものについては何らの考えも持たないか、または途方もない考えを持つか、してしまい、そのことによって神的なものを汚してしまうからである。ここから『イスラエルの神』により神的な人間的なものの方面の、実に神的な自然的な方面の主が意味されているのである。
天界の秘義9315[3]
主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―
わたしと父とは一つである(10・30)。
イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(14・7、9,11)。
わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。
啓示による黙示録解説479
『神の秘義は成就されるであろう』と言われ、そのことによって、前に成就されなかったことが今や成就されるであろうということが意味しており、その前に成就されなかったこととは、王国は主のものとなるであろうということである。なぜならそれは、ユダヤ人が主を承認しなかったためにユダヤ人によっては成就されなかったからである。それはまた基督教徒によっても成就されなかったのである、なぜなら彼らもまた主をその人間的なものの方面でさえも天と地との神としては承認しなかったからである、なぜなら彼らは主の人間的なものを他の人間的なもののように考えており、それで直接に主のもとへ行きはしないからであるが、事実は主こそ世に来りたもうたエホバであられるのである。
3.「エホバ」の名は「存在している」を意味
天界の秘義6880
「わたしはわたしは在るというものである」。これは宇宙の凡ゆる物の存在と発生とを意味していることは、『わたしは在る[わたしは存在している]』は存在であり、主のみが存在であられるため、それは主格で言われているという事実から明白である。『わたしは在るというものである』と言われているのは、前のものは存在を意味し、後のものは発生を意味しているためであり、かくて前のものは『父』と呼ばれている神的なものそれ自身を意味し、後のものは『子』と呼ばれている神的な人間的なものを意味しているためである。なぜなら神的な人間的なものは神的なものそれ自身から発生しているからである。しかし主はその人間的なものの方面でもまた神的な存在またはエホバとなされたもうたとき、そのときは主の神的な人間的なものから発出する神的真理は神的存在から発生した神的なものである。このことから以下のことを認めることができよう。すなわち、神的存在はそれ自身をそこから発生してくる神的なものによらなくては何人にも伝えることはできないのである。すなわち、神的なものそれ自身は神的な人間的なものによらなくてはそれ自身を伝えることはできないのであり、神的な人間的なものは霊の聖いものである神的真理によらなくてはそれ自身を伝えることはできないのであり、このことは凡ゆる物は聖言により作られたと言われていることにより意味されているのである(ヨハネ1・3)。
天界の秘義7636
「エホバ」の名は「存在している」を意味し、かくて凡ゆる物の存在と発生との源泉であられ、かくてただ一人のものでないわけにはいかないかたを意味しているためである。
「エホバ」は主を意味していること。
1343,1736,2921,3023,3035、5663,6303,6905,6945,6956
天界の秘義10579[6]
なぜなら『わたしはわたしはいます』はエホバであるからである(出エジプト3・14)
4.教会が無い所には『神』が用いられる言葉であり、教会が在る所には『エホバ』が用いられている
天界の秘義624
教会が無い所には『神』が用いられる言葉であり、教会が在る所には『エホバ』が用いられている。例えば教会が存在しなかった創世記第一章には『神』と言われているが、第二章には教会が存在した時、『神エホバ』と言われているのである。『エホバ』という名は非常に聖くて、教会にのみ属しているが、しかし『神』という名はそれ程聖くはないのである。なぜなら神々を持たない国民は無く、それ故神という名はそれ程聖くはなかったからである。たれでも真の信仰を知らない限り『エホバ』という名を語ることは許されなかったが、しかしたれでも『神』という名は語っても良いのである。
5.意志の事柄または愛の善がとり扱われている時は『エホバ』の名が用いられている
天界の秘義709
『エホバ』という名がここに用いられているのは今取扱われている主題は仁慈であるためである。前章の九節から終りまで『エホバ』と言われないで、『神』と言われているのは、そこにとり扱われている主題は『ノア』を、すなわち、ノアと呼ばれた教会の人間を、信仰に関わっている理解に属した事柄の方面で準備することであるに反し、ここにとり扱われている主題は愛に属した意志のいくたのものの方面でかれを準備することであるためである。理解の事柄または信仰の真理がとり扱われている時は『神』の名が用いられているが、しかし意志の事柄または愛の善がとり扱われている時は『エホバ』の名が用いられている。なぜなら理解または信仰の事柄は教会を構成しないが、愛に属した意志の事柄がそれを構成するからである。エホバは愛と仁慈の中におられるが、信仰の中には、それが愛の信仰または仁慈の信仰でない限りおられない
天界の秘義2528
この章には『神』の名が用いられているが、しかし『エホバ』の名は最後の節をのぞいては用いられていないのは以下の理由によっている、すなわち、それは霊的な事柄が、すなわち、信仰の教義的な事柄がとり扱われているということである。それが主題となっているときは、かれは『神』と呼ばれたもうたが、しかし天的な事柄が、または愛と仁慈とがとり扱われるときは、『エホバ』と呼ばれたもうたのである(709、732、2001番参照)。
6.この愛そのものがエホバ
天界の秘義1735
「いとも高い神が祝福されますように[ほめたたえられますように]」(創世記14・20)。これは主の内なる人を意味していることは内なる人についてすぐ前に言われたことから明白である。古代教会では、『高いもの』は内なるものを表象し、それでそのことを意味し、かくて『いとも高い者』は最も内なるものを意味したという理由からエホバは『いとも高い』神と呼ばれたもうたのである。そこから古代教会の礼拝は高いところに、山に、岡に行われたのである。最も内なるものもまた外的なものと最も外なるものに対しては、最高のものが低いものと最低のものとに持っている同じ関係を持っているのである。もっとも高いものは、または最も内なるものは愛の天的なものであり、または愛そのものである。エホバは、または主の内なる人は、愛の天的なものそのものであり、すなわち、愛そのものであったのであり、この愛には純粋な愛の属性以外には、かくて全人類に対する純粋な慈悲の属性以外にはいかような属性も適合していないのであり、それは凡ゆる者を救って、かれらを永遠に幸福にし、かれらにその持っている凡ゆるものを与えようと欲するといったものであり、かくて純粋な慈悲から、進んで従って来ようとする者をことごとく天界に、すなわち、それ自身に、愛の強い力により引きよせようと欲するといったものである。この愛そのものがエホバである。
天界の秘義1735[2]
愛を除いては何ものにも存在が属性づけられることはできない。凡ゆる生命の存在そのものが、すなわち生命そのものがこの愛から―それが愛の中に、または愛そのものにぞくしているため―発している。そしてエホバのみが愛であられるため、かれのみが生命の存在であられ、または生命そのものであられるため、一切のものはことごとくそこからその存在と生命とを得ているのであり、また何人もエホバのみによらなくては、すなわち主のみによらなくては、自分自身からは存在し、生きることはできないため、人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である。天使たちは主の愛の中に生きているため、主の生命の存在そのものの中に生きているからには、かれらは自分たちが自分たち自身から生きているのではなくて、主から生きていることを明らかに認識しているのである。しかしそれでもかれらにはかれらはかれら自身から生きているという外観が言いつくしがたい幸福とともに他の凡ての者にもまさって与えられているのである。それでこれが主の中に生きることであって、それはわたしたちが主の愛の中に、すなわち、隣人に対する仁慈の中に生きない限り、決してありえないのである。
7.天使たち
アタナシウス信条についてP77
また古の賢明な人たちは、聖言全体から明白であるように、天使たちが見られたとき、その天使たちをエホバ、宇宙の創造者と呼んだのである。
8.ユダヤ人は、その名が用いられた最初の時から、敢えて「エホバ」とは決して言わなかった
真の基督教297
神エホバの名はそれ自身において聖いものであるため、ユダヤ人は、その名が用いられた最初の時から、敢えて「エホバ」とは決して言わなかった。そして彼らのために福音記者達も、使徒達もこれを記していない。彼らはエホバの代わりに新約聖書中に引用されている旧約聖書の種々の記事に見られ得るように(マタイ22・37、ルカ10・27、申命記6・5等と比較せよ)「主」と語ったのである。
9.「主エホビ」
天界の秘義9167
「主エホビ」
祈願がささげられるとき、「ああ、善にましますエホバよ」