エホバは悔いられた

 

 

 

天界の秘義587

 

 「エホバは人を地に作られたことを悔いられた」ことは慈悲を意味し、『心に悲しまれた』ことも類似の意義を持っていることは以下から明白である、すなわちエホバは凡ゆる物を永遠から全般的にも、また個別的にも予見されているため、決して悔いられはしないのである、またかれは人間を作られた時、すなわち、かれらをあらたに作り、かれが天的なものになるまでもかれを完成させられた時かれは時が経過するにつれて、ここに記されているようなものになることもまた予見され、そのことを予見されたため、悔いられるはずはなかったのである。このことはサムエルの語った所に明らかに現れている―

 

 イスラエルの(たれにも)うち破られない方は偽られはしない、また悔いられもしない、かれは人間ではない、悔いられはしない(サムエル記前15・29)。

 

モーセの書には―

 

神は人間ではない、偽られはしない、神は人の子ではない、悔いられはしない、かれは言われたが、行われはしないか、かれは話されたが、それを善くはされないか(民数期23・19)。

 

しかし『悔いる』ことは慈悲深くあられることを意味している。エホバまたは主の慈悲は人類に対し主により為される凡ての物を含んでおり、人類は主が各々をその状態に応じて憐れまれるような状態にいるのである、かくて主はその罰せられのを許し給う者の状態を憐れみ、また善を楽しませられる者をも憐れみ給うのである。慈悲は刑罰の悪を凡て善に変えるため、罰せられることも慈悲から発しており、また何人も善い物には価していないため、善を楽しませられることも慈悲から発しているのである、なぜなら人類は凡て悪であり、人間各々はその者自身では地獄へ突入し、それ故かれがそこから救い出されるのは慈悲から発しておりまたそれは主は人を何ら必要とされないため、慈悲以外のものではないからである。それは主が人間を悲惨から、地獄から救い出されるため慈悲と呼ばれている。かくてそれは人類はかかる悲惨な状態に在るため、人類に関連してそのように慈悲と呼ばれており、またそれは凡ての者がそのようなものであるため、かれら凡ての者に対する愛の結果である。

 

 

天界の秘義588

 

 しかし主についてかれは『悔いられる』『心に悲しまれる』と言われているのは、人間の慈悲には凡てこのような感情が在るように見えるからであり、それで主が『悔いられる』『悲しまれる』ことについてここに言われていることは、聖言の他の多くの記事におけるように、そうした外観に応じて語られているのである。主の慈悲の如何ようなものであるかは何人も知ることはできない、それは人間の理解を無限に超越しているためである、しかし人間の慈悲のいかようなものであるかは私たちは知っており、それは悔い、悲しむことである、そして人間はその理解に応じて慈悲を考えない限り、それを考えることができないし、かくて教えられることはできないのであり、そのことが人間の特性が再三エホバまたは主の属性について述べられている理由となっている、例えばエホバは、または主は罰し、試練にあわせ滅ぼし、怒られると述べられているが、しかし主は何人をも決して罰せられないのであり、何人をも決して試練にあわせられないのであり、何人をも決して滅ばされないのであり、また決して怒られはしないのである。しかしこのようなことが主について述べられているため、後悔と悲哀もまた主について述べられることができることが生まれている、なぜなら聖言の以下の記事に明らかに現れているように、その一方のことを述べることは他方のことを述べることから生まれてくるからである。

 

 

天界の秘義589

 

 これらの、また他の多くの記事から聖言は人間における外観に応じて語られたことが明らかである。それ故聖言がそれに従って語られている外観により誤った原理を確認しようとする者はたれでも無数の記事によりそうしたことを行うことができるのである。しかし聖言により誤った原理を確認することと聖言にあることを単純に信じることは相違している。誤った原理を確認する者は先ず何かの原理をとり上げ、そこから些かも後退しようとはしないし、また些かも譲歩しようともしないし、そのことを確認させるものを、できることならどこからでも、引いてはまた聖言からさえも、かき集め、つみかさねて、ついには最早真理を認めることができないほどにも強固にそれを確信してしまうのである。

 

 しかし単純に、または単純な心から信じる者は最初から原理を取り上げはしないのであった、主がそのように言われたから、それは真理であると考えるのであり、それを如何ように理解しなくてはならないかを聖言の他の言葉から教えられるならば、かれはそれに同意して、心から喜ぶのである。主は怒られる、罰しられる、悔いられる、悲しまれると、単純に信じ、そのように信じて悪を恐れ、善を行う者は、何の害も受けないのである。なぜならこの信仰は主は凡てを見ておられるとかれにまた信じさせるのであり、かれはこのような信仰にいるため、後になって、他生以前でないならば、他生において、信仰の他の事柄を明らかにされるからである。自己を求め、または世を求める汚れた愛に応じて、自分が既にとり上げてしまっている原理から派生した何らかの事柄を信じるように自分自身にときつける者らの場合は非常に異なっている。

 

 

天界の秘義10431

 

同様に以下の記事に『エホバは悔いられる』と言われているが、事実はエホバは決して悔いられはしないのである。なぜならエホバは凡ゆる事柄を永遠から先見されているからであり、ここから聖言を読んでいるときその文字の意義以上のことを考えない者らは、かくてかれらに実相は真にいかようなものであるかを教えている聖言から発した教義なしに聖言を読む者らは、いかに多くの過誤に陥るかを認めることができよう。なぜなら教義に従って聖言を読む者たちは、エホバは慈悲そのもの、善そのものであられ、無限な慈悲と無限な善とについて、それは怒りにもえて、やきつくしてしまうとは到底言われることができないことを知っているからである。それでこの教義からかれらはそれが人間に示されている外観[現象]に従ってそのように言われていることを知るのである。(怒りと悪とは人間から発し、主から発してはいないものの、それらが主に帰せられていることについては、9306番に示されたところを参照されたい。『怒り』は、主について言われているときは、人間が主から離れ去ることを意味していることについては、5034、5798、8483、8875番を参照されたい。)