ヤコブ

 

 

1.くびす、ユダヤ教会

2.自然的なものの真理の教義

3.ヤコブの子孫における詐欺的なものを意味し、また予告した

4.ヤコブが夢で見た梯子

5.ヤコブと組打ちした者

6.ヤコブの表象は古代教会であり、また原始教会であり、すなわち初期の基督教会

7.教義における真理

 

 

 

 

1.くびす、ユダヤ教会

 

 

天界の秘義259

 

 『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されていることは、最古代の人々が人間の種々なものを考えた方法が知られない限り、知ることはできない。かれらは人間の天的な霊的なものを頭と顔に帰し、(仁慈と慈悲のような)そこから生まれてくるものを胸に、自然的なものを足に、最低の自然的な形体的なものをかかと[くびす]に帰したが、単にそれらをそこに帰したのみでなく、それらをそのように呼びもしたのである。理性の最低のもの、すなわち、記憶知もまたヤコブがダンについて予言したものにより意味されたのである―

 

 ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のかかとを噛むと、それに乗った者は後へ倒れる(創世記49・3)。

 

 またダビデの書に―

 

 わたしのかかとの不法はわたしを取り囲んだ(詩篇49・5)。

 

 同様にヤコブが母胎から出て来た時かれについて述べられていることによっても意味されている―

 

 かれの手はエソウのかかとをつかんだ、そこからかれはヤコブと名づけられた(創世記25・26)。

 

 

『ヤコブ』により意味されているユダヤ教会はかかとを傷つけるため、ヤコブの名は『かかと』から来ているのである。蛇は単に最低の自然的なものを害うことができるのみである、しかしそれは蝮の種類でない限り、人間の内的な自然的なものを害うことはできないし、ましてかれの霊的なものは害うことはできないし、その天的なものは些も害うことはできないのであり、主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれるのである。主によりこのように貯えられたものは聖言では残ったものと呼ばれている。蛇が洪水以前の人々の中の最低の自然的なものを感覚的な原理と自己への愛により破壊し、ユダヤ人の間では、感覚的なものと伝承と些末事と自己と世を求める愛により破壊してしまった方法は、また蛇が今日もいかようにして、感覚に、記憶知に、哲学に属したものにより、同時にその同じ愛によりその最低の自然的なものを破壊してしまったか、また破壊し続けているかは、主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

 

2.自然的なものの真理の教義

 

 

天界の秘義3305

 

「かれはその名をヤコブと呼んだ」(創世記25・26)。これは自然的なものの真理の教義を意味していることは、『名を呼ぶこと』または『名で呼ぶこと』の意義が性質であることから明白である(そのことについては直ぐ前の3302番を参照)。ヤコブにより表象されている性質は自然的なものの真理の教義であって、このことはエソウの表象が自然的なものの真理の生命の善であることから認めることができ(3300番)、またかれが記されている聖言の多くの箇所から認めることができよう。合理的なものを構成している二つのものが在るように、自然的なものを構成している二つのものがあり、否、人間全体を構成している二つのものが在り、その中の一つは生命のものであり、他の一つは教義のものである。生命のものであるものは意志に属しているが、教義のものであるものは理解に属している。前のものは善と呼ばれ、後のものは真理と呼ばれている。この善はエソウにより表象されるものであり、真理はヤコブにより表象されるものである、或はそれと同一のことではあるが、自然的なものの真理の生命の善はエソウにより表象されるものであり、自然的なものの真理の教義はヤコブにより表象されるものである。自然的なものの真理の生命の善及び自然的なものの真理の教義と言うも、またはこれらのものの中にいる者たちと言うも、それは同じことである、なぜなら生命の善と真理の教義とはそれらのものの主体をはなれては存在することはでいないからである。もしそれらのものに主体がないなら、それらは一種の抽象的な事柄であるが、それでもそれらはそれらがそのうちに宿ることのできる人間に関連しているのである。それで『ヤコブ』によりここでは自然的なものの真理の教義の中にいる者たちが意味されているのである。

 

 

 

 

3.ヤコブの子孫における詐欺的なものを意味し、また予告した

 

 

天界の秘義3660

 

しかしイサクを震え上がらせたその詐りは表象的なものの方面でヤコブの子孫における詐欺的なものを意味し、また予告したのである、すなわち、かれらは主の王国の神的なものをまたは天的なものを真実にまたは心から表象するどころか、古代教会には全く似てはおらず、たんに内なるものから分離した外なるものの中にいたにすぎず、再三公然と偶像崇拝に堕落したからには、その外なるものの中にすらいなかったということを意味し、また予告もしたのである。

 

 

 

 

4.ヤコブが夢で見た梯子

 

 

天界の秘義3882

 

「彼女は生むことを止めた」。これは地からエホバまたは主へ梯子によって昇ることを意味していることは、『生むこと』または『出生』の意義から明白であり、それは真理と善である、なぜなら真理と善とは人間が真理と善により再生しまたは新に生まれるため、霊的な意義における出生であるからである。これらもまたレアから生まれた四人の息子―ルベン、シメオン、レビ、ユダにより意味されているものである。『ルベン』は再生または新しい出生の最初のものである真理を意味しており、それはたんに記憶知の方面の真理であり、かくてそれは真理を知ることである。『シメオン』は再生または新しい出生の第二のものである真理を意味しており、それは意志の方面の真理であり、かくてそれは意志の方面の真理であり、かくてそれは真理を意志する[欲する]ことである。『レビ』は再生または新しい出生の第三のものであって、それは情愛の方面の真理であり、かくてそれは真理に感動することであり、仁慈と同一のものである。しかし『ユダ』は再生または新しい出生の第四のものである善を意味し、これは愛の天的なものである。再生した人間が、または新に生まれた者がこの段階に到達すると、主はその者に現れたもうのである、なぜならかれはそのとき最低の段から、主がおられる段へと、梯子に昇るように登ったからである。

 

 

 

天界の秘義3882[2]

 

 このこともまたヤコブが夢で見た梯子により、すなわち、それは地の上に立って、その頂きが天に達し、その上に神の天使たちが登り降りしており、その上にはエホバまたは主が立たれたが、その梯子により意味された上昇である(そのことについては前章の12節を参照されたい)。ここからそうしたことが『生むことをやめること』の意義であることが明白である。ここに四度も言われた『みごもって生むこと』により外なるものから内なるものへ、または真理から善へ、すなわち、地から天へ進んで行くことが意味されていることは、前に見ることができよう(3860、3868、3874、3879番)。後に下降がつづいている、なぜなら人間は先ず昇ってしまわなくては、降ることはできないからである。下降は善から真理を眺めること以外の何ものでもなく、それは人間がその登った山から下に在る物を観察するようなものである。そのときかれは谷間に立っている者たちよりもさらに多く無数の物を一望の中に把握することができるのは明らかであり、それは善の中にいる者たちが、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちがたんに真理の中にいる者たちと、すなわち、信仰のみの中にいる者たちと比較される場合と正確に一致しているのである。

 

 

5.ヤコブと組打ちした者

 

天界の秘義4307

 

ヤコブと組打ちした者により善い霊が意味されてはいないで、悪い霊が意味されていることは、『組打ちすること』により試練が意味され(3927、3928、4274番)、試練は決して善良な霊によってひきおこされはしないで、悪霊によりひきおこされるという事実から認めることができよう、なぜなら試練は人間の中に在る悪と誤謬とをかき立てることであるから(741、751、761、1820、4249、4299番)。善良な霊たちと天使たちは悪と誤謬とを決してかき立てはしないで、人間をそこから守るのである、なぜなら善良な霊は主により導かれており、主からは聖い善と聖い真理を除いてはいかようなものも決して発出はしないからである。

 

 

6.ヤコブの表象は古代教会であり、また原始教会であり、すなわち初期の基督教会

 

天界の秘義4772

 

「かれらはそれをその父にもってきた」。これは古代教会と原始教会の諸善と諸真理に比較することを意味していることは以下から明白である、すなわち、ここの『父』であるヤコブの表象は古代教会であり(4680、4700番)、また原始教会であり、すなわち初期の基督教会であり、この基督教会については後に述べよう。この教会にこのような肌着をもってくることはその内意では純粋な教会の諸善と諸真理に誤謬化された諸善と諸真理を比較することである。ヤコブによりここに古代教会のみでなく、また原始教会が、すなわち、初期の基督教会が表象されていることは、この二つは内なるものの方面では全く同一のものであるが、ただ外なるものにおいてのみ相違しているからである。古代教会の外なるものはすべて主を、また主の王国の天的なものと霊的なものとを、すなわち、愛と仁慈とそこから派生した信仰を表象し、従って基督教会のものであるようなものを表象したのである。かくて古代教会の、またユダヤ教会の外なるものが明らかにされ、いわばおおいを解かれると、基督教会が明らかに示されるのである。このことがまた神殿の帳が引き裂かれたことにより意味されたのである(マタイ27・51、マルコ15・38、ルカ23・45)。父ヤコブにより古代教会のみでなく、原始基督教会も表象されているのはこうした理由からである。

 

 

天界の秘義5540

 

「この凡ての事がわたしにふりかかるであろう」。これは、かくて教会のものであるものは破壊されるであろう、を意味していることは、このことを自分自身について言っているヤコブの表象から明白であり、それは教会である(5536番を参照)。教会の中にヨセフにより表象される内なるものがなく、シメオンにより表象される意志における信仰もないときは、ベニヤミンにより表象されるところの、連結させる媒介的なものが取り去られるなら、教会の凡ゆるものは破壊されるのである。このことが『この凡ての事がわたしにふりかかるであろう』により意味されているのである。

 

 

天界の秘義5973

 

聖言の内意に通じていない者は、なぜヤコブが時には『ヤコブ』、時には『イスラエル』と呼ばれているかを到底知ることはできない、なぜなら同じ章の中に、実に同じ節の中にすら、時にはヤコブが、時にはイスラエルが用いられているからである。ここから聖言には内意の在ることが極めて明白である。

 

 

天界の秘義6225

 

なぜなら『イスラエル』は自然的なものから発した霊的な善であるが、『ヤコブ』は自然的なものの真理であり、そしてそこの信仰にぞくしている自然的なものの真理は仁慈の善である霊的な善により確認される(または強められる)からである。『イスラエル』はまた教会の内なるものであり、『ヤコブ』はその外なるものである(4286、4292、4570番を参照)。教会の外なるものはその内なるもの以外のいかような源泉からも強められはしないし、また力も受けはしないのである。教会の内なるものの中に、信仰の善であり、また真理の善であり、同じく霊的な善である仁慈の善の中にいる者たちがいるが―それらの善がイスラエルであるが―しかし教会の外なるものの中には、信仰の真理の中にはいるが、未だ明白には善の中にはいないものの、それでもその者の真理の中には善が宿っている者たちがおり、これらが『ヤコブ』である。

 

 

 

 

7.教義における真理

 

 

啓示による黙示録解説17

 

約言すると、真理が先ず善から生み出すものが、かくて理解が意志から生み出すものが主要なものである。なぜならそれは爾余のものが発出してくる源泉となる種子として存在するからである。主については、主は死んだ者らから最初に生まれた方である。なぜなら主は、その人間的な方面では、神的善に結合した真理そのものであられ、主から凡ての人間は―彼らは彼ら自身では死んでいるのであるが―生きるからである。そのことがダビデの書に意味されている―

 

わたしは彼を、その最初に生まれた者を[長子を]、地の王たちよりも高くしよう(詩篇89・27)。

 

これは主の人間的なものにかかわっている。ここからイスラエルは長子と呼ばれている(出エジプト4・22、23)。

 

「イスラエル」により行為における真理が意味され、「ヤコブ」により教義における真理が意味されており、後のもののみではそこから教会は生まれないため、それでヤコブはイスラエルと名づけられたのである。しかし「イスラエル」によってはその最高の意義では主が意味されている。