ヤコブの十二人の息子たち

 

天界の秘義3876

 

「わたしはかれに三人の息子を生んだからである」。これは継続しているものを意味していることは前に言われたことから明白である(3871番)。『三人の息子』によりここに意味されている継続的な状態は仁慈が今や到来するということである、なぜなら人間が再生しつつある間では、すなわち、教会にされつつある間では、最初の事柄はその者が信仰の真理とは何であるかを知り、理解することでなくてはならず、第二の事柄はそれを意志し[欲し]、行うことでなくてはならず、第三の事柄はそれに感動することでなくてはならないからである。そして人間が真理に感動するとき、すなわち、真理に従って行動することの中に歓喜と祝福とを認めると、その時はかれは仁慈または相互愛の中にいるのである。こうした継続がここに『わたしはかれに三人の息子を生んだ』により意味されているものである。

 

 

天界の秘義3882

 

「彼女は生むことを止めた」。これは地からエホバまたは主へ梯子によって昇ることを意味していることは、『生むこと』または『出生』の意義から明白であり、それは真理と善である、なぜなら真理と善とは人間が真理と善により再生しまたは新に生まれるため、霊的な意義における出生であるからである。これらもまたレアから生まれた四人の息子―ルベン、シメオン、レビ、ユダにより意味されているものである。『ルベン』は再生または新しい出生の最初のものである真理を意味しており、それはたんに記憶知の方面の真理であり、かくてそれは真理を知ることである。『シメオン』は再生または新しい出生の第二のものである真理を意味しており、それは意志の方面の真理であり、かくてそれは意志の方面の真理であり、かくてそれは真理を意志する[欲する]ことである。『レビ』は再生または新しい出生の第三のものであって、それは情愛の方面の真理であり、かくてそれは真理に感動することであり、仁慈と同一のものである。しかし『ユダ』は再生または新しい出生の第四のものである善を意味し、これは愛の天的なものである。再生した人間が、または新に生まれた者がこの段階に到達すると、主はその者に現れたもうのである、なぜならかれはそのとき最低の段から、主がおられる段へと、梯子に昇るように登ったからである。

 

 

天界の秘義3913

 

なぜならヤコブの十二人の息子たちにより、人間が再生しつつある間に、または教会にされつつあるとき(すなわち、死んだ人間から生きた人間になり、または形体的なものから天界的なものになりつつあるとき)、かれは手段により多くの状態を経て導かれるからである。これらの全般的な状態が『十二人の息子』により、後には『十二の種族』により示されているのであり、そうした理由から『十二の種族』は、前に見ることができるように(3858番)、信仰と愛との凡ゆる事柄を意味しているのである。なぜなら全般的なものは個別的なものと単一的なものとをことごとく含んでおり、この後のものは前のものに関わりを持っているからである。

 

 

天界の秘義3921[3]

 

この節とまた『ヨセフ』にいたる以下の節の中に『神』の名が言われ、前の節の中には『エホバ』の名が言われている理由は、これらの節には霊的な人間の再生が取り扱われているということである、なぜなら主題が霊的な人間のものである信仰の善であるときは、『神』の名が言われるのは主題が天的な人間のものである愛の善であるときは『エホバ』の名が言われるからである(2586、2769、2807、2822番を参照)。なぜなら前章では物語りはユダまで述べてこられ、そのユダにより天的な人間が表象されたが(3881番を参照)、しかし本章では物語はヨセフに至るまで続けられていて、そのヨセフにより霊的な人間が表象されており、それが以下の節にとり扱われているからである(23、24)。

 

 

天界の秘義4781

 

「かれの息子たちの凡て」。これは誤謬の中にいる者らを意味していることは、『息子』の意義から明白であり、それは真理であり、その対立した意義では誤謬であり、または真理あるいは誤謬の中にいる者であり(489、491、533、1147、2623、2803、2813、3373、3704番)、ここでは誤謬の中にいる者たちである、なぜならヤコブの息子たち、またはヨセフの兄弟たちにより、前に示したように、分離した信仰の中にいる者たちが表象されており、かくて神的真理を消滅させてしまい、そこから誤謬の中にいる者らが表象されているからである。