イサク
「アブラムの妻、サライは彼に子を生まなかった」(創世記16・1)。これは合理的な人がまだ存在しなかったことを意味していることは、イサクが取り扱われている以下の記事から明白となるであろう。なぜならすでに言ったように、人間各々の中には内なる人と、中間に介在している[媒介的なものである]合理的な人と、自然的な人と元来呼ばれている外なる人とが存在しているからである。主にあってはこれらはアブラハム、イサク、ヤコブにより表象されたのであり、すなわち、内なる人はアブラハムにより、合理的な人はイサクにより、自然的な人はヤコブにより表象されたのである。主の内なる人はエホバ御自身であった、なぜなら主はエホバによりみごもられ給うたからである、そうした理由から主は再三エホバをご自分の『父』と呼ばれ、聖言では主は『神の独り児』、ただ一人の『神の子』と呼ばれ給うている。
(中略)
主における合理的な人がこの章にとり扱われているのである。神的な合理的なものそれ自身はイサクにより表象されているが、しかし神的なものになされる以前の最初の合理的なものはイシマエルにより表象されたのであって、それでここの『アブラムの妻サライはかれに子を生まなかった』はそれまで神的な合理的なものがなかったことを意味している。
天界の秘義2072
「そして笑った」(創世記17・17)。
これは真理の情愛を意味していることは、笑いの起原と本質から認めることができよう、なぜならその起原は真理の情愛以外の何ものでもなく、またはしうでないなら誤ったものの情愛以外の何ものでもなく、そこから喜びと楽しさとが生まれて、それが笑いの中に顔に現れてくるのであって、そのことが笑いの本質はそれ以外のものでないことを示している。笑いは実さい顔にぞくしているため身体にぞくしているところの外なるものであるが、しかし聖言では内的な事柄は外的なものにより表現され、また意味されているのであって、それは丁度こころの内的な情愛がことごとく顔により表現され、意味されているのと同じであり、例えば内的な傾聴と服従とが耳により、内的な視覚または理解が目により、力と強さとが手と腕によって、その他色々なものにより表現され、意味されており、それと同じく真理の情愛も笑いにより表現され、意味されているのである。
[2]人間の合理的なものの中には真理が存在していて、それが合理的なものの主要な特質となっており、また(人間の合理的なものの中には)善の情愛も存在しているが、しかしこれは真理の情愛そのものの中にその霊魂として存在しているのである。合理的なものの中にある善の情愛は笑いによってそれ自身を示しはしないで、笑いはしないところのある喜びとそこから生まれてくる楽しい歓喜によりそれ自身を示すのである、なぜなら笑いには余り良くないものが普通存在しているからである。真理が人間の合理的なものにおける主要な特徴である理由は、合理的なものは真理のいくたの知識により形成されているということである、なぜならそれ以外の手段によってはたれ一人決して合理的なものにはなることができないからである。善の知識は、真理の知識と全く等しく、真理である。
[3]ここの『笑い』は真理の情愛を意味していることは、アブラハムが笑ったと述べられていることから、同じくサラーも笑ったと述べられ、二人ともイサクが生まれる前とその生まれた後に笑ったと述べられていることから、またイサクが『笑い』から名づけられていることからも―なぜなら『イサク』という言葉は『笑い』を意味しているからであるが―認めることができよう。
(中略)
アブラハムはその息子の名前をイサクと名づけた(イサクは『笑い』という意味である)、またサラーは言った、『神はわたしのために笑いを作られました、聞く者はたれでもわたしとともに笑うでしょう』(創世記21・36)。『笑うこと』と『笑い』という意味の『イサク』の名前にこうした事柄が含まれていない限り、これらの事柄は決して述べられはしなかったであろう。
天界の秘義2194
「見よ(ごらんなさい)、あなたの妻サラは息子を持つでしょう」。これは神的なものとなるはずであった合理的なものを意味していることは、『息子』と『サラ』との、またサラに生まれることになっていた『イサク』の意義から明白である。『息子』も『サラ』もまた『イサク』も主の合理的なものにぞくしたものを意味している。(『息子』が真理であることは前の489、491、533、1147番に見ることができよう、また『サラ』が合理的な真理を意味していることは、2173番に、『イサク』が合理的なものを意味していることは1893、2066、2083番に見ることができよう)。人間各々における人間的なものは(前の2106番に言ったように)人間の合理的なものの最も内なるものの中に始っているが主の人間的なものもまたそれと同じであられ、その上の方にあったものは他の如何ような人間とも異なってエホバ御自身であられたのである。人間的なものは合理的なものの最も内なるものの中に始っているため、そして主は御自身のもとにある人間的なものをことごとく神的なものになされたため、主はまず合理的なものそれ自身をその最も内なるものからそのようなものに[神的なものに]なられたのであり、その合理的なものが神的なものになされたとき、それが『イサク』により(前に言ったように)表象され、意味されているのである。