ギリシャ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P169

 

あなたたちは確実に 私が聖書で語っている言葉を 無視している、もし本心からそれに従っていたなら、「年寄りだからといって 軽蔑するな・・・」(*3)むしろ手を差し出すようにと書かれてあるのを 読んでいよう。 自らを聖なる人、義人と呼ぶあなた方が、誰かに対して怒りを抱くなら、どうして私に哀れみを求められよう? あなたは 兄(*4)に対して恨みを抱く、その罪を私は赦すべきか? あなたが日々唱えるキリエ・エレイソンを 私はどう扱うべきか? たびたびの犠牲や 焚かれる香を 私はどうしたらよいのか? これらとて あなたの罪に対する私の赦しを得させてはくれない。

 

*3 シラ書8:6

*4 ヨハネ・パウロ二世教皇

 

 

私の言うことを 聞きなさい。 あなたのすべての落ち度に私は涙したが、我が心は、兄弟よ、愛と慈しみの深淵。 あなたの霊を生き返らせ 目に輝きをそえるのは 私。 私は癒しといのちと祝福を与える。 もしあなたにおもねる言葉を述べたなら、それは私ではない。 あなたの過ちを明確に説明したのは 悔悛の心で私のもとに立ち帰らせるため そのときはあなたを癒そう。あなたの恥ずべき裸身は 今や我が聖人たちと 天国の我が天使たちに見られている。 あなたは自分を 曝している、兄弟よ、しかもすべての国たみだけでなく 全天を前に。 唖然とするような裸身であろうと、それでも、自らを低くし、悔い改めて私が述べたことを深く心に受けとめるなら あなたを支えて ふたたび私自身をまとわせる。

 

膝を屈めなさい、ギリシャよ、そして赦しを 私の名によって赦しを求めなさい。 起き上がって 死から甦り、御母にその歩みを導かれなさい、聖性へと サファイア(*)の小道を 幼子のように。 あなたの不毛の行為から回復して下さるよう 聖なる母に呼び求めなさい、私への奉仕が清い心でなされ 高貴なものとなるように。 あなたの聖性を聖母が取り戻し ふたたび成長して救いに至るよう助けてくださるように。

 

聖人たちに呼びかけなさい あなたが塵と灰の中で悔い改め 私(*1)に対して言ってきたすべてを撤回するとき光の故郷への道を示され 発する言葉がもはや空虚ではなく 平和の旋律に変えられるように。 ああ、東の家が聖なる口づけをもって 西の家に挨拶するのは いつの日か? ic

 

娘よ、彼らの口が 私のからだに負わせた深手を見よ。 祝福された者よ 私を探そうと 身を屈めないように。 私はあなたの頭上 そして傍らにいる。

 

来なさい 主の歓びと平安のうちに入りなさい。 決して後を振り返らず 私に接ぎ木されたまま 前を見ていなさい。 Ic

 

 

教皇さまがギリシャを訪問されている間に このメッセージを受けました。そこでは多くの人たちが、この訪問に抗議していました。このメッセージは 多くの大主教の手に渡され、ヨハネ・パウロ二世教皇が発たれる二日前に、クリストドロス主教にも届けられました。

 

(*)サファイアは「美徳」を表します。

(*1)「私」とはここではヨハネ・パウロ二世教皇のことも含まれています。「最も小さな者にたいしてすることは、私にしているのです」と聖書の中で仰ったキリストのみ言葉を確認するものです。

 

 

 

真の基督教275

 

 宗教は最古の時代から存在し、地に住む者達は至る所で神に関わる知識と死後の生活に関する若干の知識を持っているが、これは彼ら自身から或は彼ら自身の理知から来ているのではない、古代の聖言(264、265、266番)から来ており、後にはイスラエルの聖言から来ているのである。この二つの聖言から宗教は印度とその島々に、エジプトとエチオピアを経てアフリカの諸王国に、アジアの海岸地方からギリシャに拡がり、そこからイタリーに拡がったのである。然し聖言は単に象徴的に、即ち、天的な物に相応し、それ故それらの物を意味している現世的なものによって録されることが出来るのみであった故、異邦人の宗教は偶像的となり、ギリシャでは神話的となった。そして神的な特性と属性とは、恐らくエホバから由来しているヂョウヴと呼ばれる最高神によって支配される神々として眺められた。而して彼らは楽園、洪水、聖火、黄金時代から鉄の時代に至る四代(ダニエル2・31−35)を知っていたのである。

 

 

 

天界の秘義2762[3]

 

戦車と馬とがこうした事柄を意味したことは古代教会の中には良く知られていたのであって、そのこともまたその教会の書であるヨブ記から明白であり、そこには以下の言葉が記されているのである―

 

神は彼女に知恵を忘れさせ、これに理知を与えられなかった。彼女は高く自らをもたげる毎に、馬とその騎手とを蔑む(ヨブ記39・17−19)。

 

古代教会から、理解する能力という馬の意義が周りの賢人たちに拡がり、ギリシャにまでも入ったのである。ここから以下のことが起るようになったのである、すなわち、彼らが太陽を描写した時(その太陽により愛が意味されたのであるが、2441、2495番)、その中に彼らの知恵と理知との神を置いて、その神に火の戦車と四頭の馬とを与えたのであり、また海の神を描写したときは、海により全般的な知識が意味されたため、その神にもまた馬を与えたのであり、理解から知識が起ってくることを描写した時は、彼らは蹄で蹴って泉を開く飛び駆ける馬を表象したのであり―その泉には科学である処女が住んでいたのである。トロイの馬によっては都の城壁を破壊するために彼らの理解から考案されたもの以外には何ごとも意味されはしなかったのである。現今ですら知性は、かの古代の民から受けつがれた慣習に従って、飛び駆ける馬、またはペガサスの姿の下に描かれ、学問は泉として描かれているが、しかし殆どたれ一人馬は、その神秘的な意義では理解を、泉は真理を意味していることを知ってはおらず、ましてやこれらの意義は古代教会から異邦人に伝えられたものであることを知ってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義7729〔8〕

 

 古代人は理知では現代人にいかほど勝れていたかは以下の事実から知ることが出来よう、すなわち、彼らは世の多くの物は天界のいかようなものに相応しているかを、従ってそれは何を意味しているかを知っていたのであり、このことは単に教会の者たちに知られていたのみでなく、教会の外にいる者にも知られていたのである、例えばギリシャに住んでいた者たちにも知られていたのであり、彼らの中で最古代の者たちは表意的なものにより物事を記したのであるが、それは現今では全く知られていないため、寓話的なもの〔作り話〕と呼ばれているのである。古代の賢人たちはこうした物を知っていたことは以下の事実から明白である、即ち、彼らは理知と知恵の起原を有翼の馬により示し、この馬をペガサスと呼んだが、この馬はそのひづめで(地を)蹴ると泉が涌き出で、その泉のあたりに九人の処女がいて、しかもそれは岡の上にあったのである、なぜなら彼らは、『馬』により知的なものが、『翼』により霊的なものが、『ひづめ』により、理知の起原であるところの、究極的な度の真理が、『処女』により科学が、『岡』により合意が、霊的な意義では仁慈が意味されているからである。他の凡ゆる物も同様である。しかし現今こうした事柄は失われたものとなってしまったのである。

 

 

 

天界の秘義6832〔7〕

 

神的善そのものがまた表象されるようにと、祭壇には絶えず火を点じなくてはならないことが命じられた―

 

 祭壇には火を燃やし、消してはならない、祭司は毎朝その上で木片に火をつけなくてはならない。火を絶えず祭壇の上に燃やして、消してはならない(レビ6・12、13)。

 

火が神的愛を表象していることは古代人には非常に良く知られていたことは以下の事実から非常に明白である、即ち、この表象的なものは古代教会から偶像を礼拝している遠隔の諸国民へすらも拡がり、彼らは不断の聖火を制定して、そのためにヴェスタ修道女と呼ばれた処女たちを任命したことが知られているのである。

 

 

 

聖書21

 

 私はさらに以下のように教えられた、即ち、(創世記5・21−24に記されている)エノクはその交友と共になって、かの最古代教会の人たちの口から相応したものを集めて、その知識を子孫に伝えたのであり、その結果相応の科学はアジヤの多くの王国に、とくにカナンの地に、エジプト、アッシリア、カルデア、シリア、アラビアに、またツロ、シドン、ニネベにも知られたのみでなく、培われもし、またそれはそこの海沿いの場所からギリシャにまでも伝えられたが、しかしギリシャでは、その国の最初期の作者たちから明白なように、寓話に変わったのである、と。