誤謬の悪
天界の秘義7272
「が、わたしはパロの心を頑にしよう」(出エジプト記7・3)。これは誤謬の悪から発した頑迷を意味していることは、『頑にすること』の意義から明白であり、それは頑迷である、それが誤謬の悪から発した(頑迷)を意味していることは、『パロの心』により意味されているのである、なぜなら『心』によりその純粋な意義では天的な愛の善が意味され(3313、3887、3889番を参照)、それでその対立した意義ではそれは奈落の悪を意味しており、それが誤謬の悪を意味していることは、パロにより誤謬の中にいる者らが表象されているためである。誤謬の悪は誤った原理[主義]から起こるものであり、例えば、人間は外なる物を通して、聖いものとなる、例えばユダヤ人の場合では、生贄、洗い、血をふりかけることを通して聖くなる、人間は仁慈と信仰を通して聖くなりはしない、かくて人間はたとえ憎悪、復讐、強奪、残酷といったものに生きていても聖くなるというようなものから起こっているのである。こうした悪は誤った原理から起こっているため、『誤謬の原理』と呼ばれるのである。
また一例として、信仰のみが救うのであり、仁慈の業は救いには何ら寄与しないと信じている者を考えられたい、また自分はその全生涯を間いかような生活を送ったにしても、死ぬ時にでも救われると信じ、そうした原理[主義]から何らの仁慈も示さないで、他の者を軽蔑し、自分に敬意を示さない者をことごとく敵視し、憎悪し、復讐を求め、他の者の財産を奪おうとの欲念を抱き、無慈悲、狡猾、策略に生きている者を考えられたい。こうした悪もまた誤謬の悪である、なぜなら誤謬から彼はそうしたものは悪ではないと自分自身に説きつけてしまっているか、または、たとえそれが悪であっても、自分が最後の息を引きとる以前にでも外面的な信頼から主の執成しを告白し、また主の十字架を通して罪が拭い去られることを告白しさえすれば、それは拭い去られてしまうと説きつけるか、しているからである。
天界の秘義7272[3]
また一例として祈願の際、死人に聖者として近づいて、これを崇め、またその像を崇めている者たちを考えられたい。こうした礼拝の悪は誤謬の悪である。誤謬の悪を行う者らは凡て、誤謬が真理であると信じ、従って悪は悪ではないか、またはとがめられるものではないと信じているのである。同様に罪は人間によっても赦されることが出来ると信じている者も、また自分たちはいかような罪の中にいても、すなわち、いかような精神的な醜悪さと腐敗との中にいても、天界へ入れられることが出来ると信じている者もそのように信じているのである。約言すると、誤謬の悪は信仰の誤謬と礼拝の誤謬のようにも数が多いのである。こうした悪は(人間を)地獄におとしはするが、それでも悪から発している悪ほどには甚しくはない。悪から発している悪は自己と世への愛から起こってくる欲念から発しているものである。