エノク

 

 

 

 

 

 

天界の秘義519

 

 当時最古代教会とそれに続いた諸教会の中に認識の問題であったものから教義を作り上げた人々がいたが、それはこのような教義が善い真のものを知ることのできる規定として役立つためであった。このような人々は『エノク』と呼ばれたのである。このことが『エノクは神とともに歩んだ』(創世記5・24)という言葉により意味されているものであり、その教義はそのように呼ばれたのである。このことは『教える』ことを意味する『エノク』という名により同じく意味されている。同じ事がまた『歩む』という表現に意義からも明らかであり、かれは『エホバと共に』歩んだと言われないで、『神と共に歩んだ』と言われているという事実からも明らかである。すなわち『神と共に歩む』ことは信仰の教義に従って教え、生きることであるが、『エホバと共に歩む』ことは愛の生活を送ることである。『歩む』ことは『律法の中に歩む』『法令の中に歩む』『真理に歩む』のように、生きることを意味した慣習的な言葉の形式である。『歩む』ことは真理に、従って信仰または信仰の教義に関わりをもった道を元来意味している。

 

 

 

天界の秘義521

 

 『彼はいなくなった、神は彼を取られたからである』という言葉が教義を子孫のために保存したことを意味することについては、エノクの場合、すでに言ったように、彼は最古代教会では認識の事柄であったものを教義にまとめたのであるが、それは、かの教会の時代には許されはしなかったのである、なぜなら認識により知ることは教義により学ぶこととは非常に異なったことであるからである。認識の中にいる者たちは既に知っていることを形に表した教義により学ぶ必要はないのである。例えば、良い考え方を知っている者は、技術の何らかの規則により考えることを教えられる必要はないのである、なぜならそのようなことをするなら、その者の良く考える能力は、煩瑣学者の塵芥の中に動きの取れない者の場合のように、害われてしまうからである。認識により学ぶ者たちには、主は善い、真のものを内なる方法により知るようにされているが、しかし教義から学ぶ者達には知識は外なる方法により、または身体の感覚の方法により与えられており、その相違は光と闇とのそれに似ているのである。天的な人の認識は筆舌に言い尽くし難いものであることをまた考えてみられよ、なぜならそれは状態と境遇とに応じた凡ゆる変化を以て、極めて微細な特殊なものにも入っているからである。しかし最古代教会の認識能力は死滅して、その後人類は真で善いことを教義により学ぶことが、または暗黒により光に来ることが先見されたため、『神は彼をとられた』、即ちその教義を子孫のために保存されたとここに言われているのである。

 

 

 

 

天界の秘義522

 

 『エノク』と呼ばれた者達の認識の状態と性質もまた私に明らかにされた。それは明確さを全く持たない、一種の全般的な、曖昧な認識であった、なぜならそのような場合心はその見解をその心自身の外側で決定して教義的なものにするからである。

 

 

 

聖書21

 

 私はさらに以下のように教えられた、即ち、(創世記5・21−24に記されている)エノクはその交友と共になって、かの最古代教会の人たちの口から相応したものを集めて、その知識を子孫に伝えたのであり、その結果相応の科学はアジヤの多くの王国に、とくにカナンの地に、エジプト、アッシリア、カルデア、シリア、アラビアに、またツロ、シドン、ニネベにも知られたのみでなく、培われもし、またそれはそこの海沿いの場所からギリシャにまでも伝えられたが、しかしギリシャでは、その国の最初期の作者たちから明白なように、寓話に変わったのである、と。