エリア

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

1.聖書

 

マタイ17・1−3

 

六日の後、イエスは、ぺトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

 

 

マタイ17・10−13

 

彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

 

 

ルカ1・17

 

彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。

 

 

新共同訳聖書コンコルダンスP386

 

ヤーウェは神

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義6752

 

二人の人間が、即ち、モーセとエリアが特に聖言の方面の主を表象しており、モーセは歴史的な書物の方面の主を、エリアは予言的な書物の方面の主を表象しているのである。その他にエリシャがおり、最後にパブテスマのヨハネがおり、それでバプテスマのヨハネは『来るべきエリア』により意味されている者である(マタイ17・10−13、ルカ1・17)。しかしモーセが律法の神的なものを表象していることが示されることができる以前に、その律法の神的なものの何であるかを話さなくてはならない。律法の神的なものとは広い意味では聖言全体を意味し、それほど広くはない意味では歴史的な聖言を、狭い意味ではモーセを通して書かれたものを、最も狭い意味ではシナイ山で石板の上に書かれた十誡を意味しているのである。モーセはそれほど広くない意味における、また狭い意味における、同じく最も狭い意味における律法を表象しているのである。

 

 

天界の秘義6752[9]

 

モーセにより歴史的な聖言の方面の主が表象され、エリアにより予言的な方面の主が表象されたため、それで主が御形を変えられたとき、モーセとエリアとが主と話しているのが見られ(マタイ17・3)、主の神的なものが世に現れたときは、聖言を表象した者たち以外には何人も主と話すことも出来なかったのである、なぜなら主と話すことは聖言を通して為されるからである。