エラム
天界の秘義1228
『エラム』により仁慈から発した信仰が意味されていることは内なる教会の本質から明白である。仁慈が教会の第一義的なものであり、仁慈から教会が考えまた行動する時教会は内なる教会である。仁慈から最初に生まれるものは信仰以外の何ものでもない、なぜなら信仰は仁慈から発し、それ以外の如何ような源泉からも発していないからである。『エラム』は仁慈から発した信仰であり、または内なる教会を構成する信仰そのものであることはまたエレミヤ記に明白である。
エラムについて予言者エレミヤに臨んだエホバの言葉。見よ、わたしはエラムの弓を、かれの力の長を砕くであろう。そしてエラムの上にわたしは諸々の天の四つの端から四つの風をもたらし、かれらを凡てその風の方にまき散らしエラムの追放された者らの来ない国民は一つとしてないであろう。わたしはエラムを彼らの敵の前に、彼らの魂を求める者の前に狼狽させよう、わたしは彼らの上に悪を、わたしのはげしい怒りをもたらし、かれらを滅ぼしつくすまでかれらの後に剣を送ろう。わたしはエラムの中にわたしの王座をおき、そこから王と君たちとを滅ばすであろう。しかし後の日にはわたしはエラムの捕らわれた状態をもとにかえすようになるであろう(49・34−39)。