ダイヤモンド

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷中P156/583・1

 

「ダイヤモンドができるのには、時間がかかります、ヨハンナ。隠れた火の年月が必要です・・・急いではいけません、決して・・・そして、決して失望してはいけません、ヨハンナ・・・」。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P164

 

ダイヤモンドは、研磨されなければ美しい輝きを放つことはない。カットされると、太陽光線がカット面に反射して、えもいわれぬ光彩を放つようになる。そのように、十字架によって磨き上げられるときに、わたしたちの霊魂は天の王国において宝石のように輝くようになる。

 

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P312

 

主の御恵みによって、わたしたちは豊かな生命を受けるのです。歓びを受けるのです。歓びこそ、わたしたちが豊かな生命を受けている証です。クリスチャンの多くは、生命はあっても、病にかかっています。病人は健康ではないため、生命があっても歓びがありません。「豊かな生命」の中にしか、健康はないのです。死ねば天国に行けると思っている不幸なクリスチャンが多くいます。しかし、天国はこの地上において始まります。霊魂が神にふれ、主の臨在を実感するときに、わたしたちは天国とは霊魂の完全な平和のことであり、そこにこそ地上天国があることを理解するのです。

 イエス・キリストの中にあるこのような平和を得た人は、罪を犯したいとは思わなくなります。新生を得ていない人々は、このような平和を得ることはできません。彼らは、神の聖心に逆らうありとあらゆる罪を犯して、平和を見つけようとします。

 彼らは、ダイヤモンドを持っていながらその価値を知らずにいた人のようです。彼は、それをただの綺麗な石としか思わなかった。それで、見知らぬ人が二、三フランを差し出したときに、それを手放してしまった。しかし、相手が立ち去ったあとで石の価値を知った男は、こう思うのです。「綺麗な石ころと思っていたのに、あれはダイヤモンドだった。何と愚かなことをしたものだ」。彼は買った人を訪ね歩きます。救い主を知らない異教の国の人々は、ダイヤモンドを見つけているのです。彼らはその価値を知り、主の中に救いを見出しているのです。名ばかりのクリスチャンが、キリストを探し求めて救われた異教の国の人々の言葉に耳を傾けるときが、今やきているのです。わたしは、自分が聖書を引き裂いたことを、ときどき後悔しますが、自分が霊的に盲目だったのを幸いに思うこともあります。それによって、生けるキリストの価値を知ることができたからです。わたしは、主のいい知れぬ愛を知りました。主を礼拝する人々は、安らぎを見ます。しかし、主を憎む人々が主に導かれると、生ける愛を経験するのです。主の愛は、弟子にばかりか、敵にも向けられているからです。

 わたしは、幾多の奇蹟を見たときに、ますますもって、生けるキリストを実感しました。キリスト教諸国には、奇蹟は作り話にすぎないという人々が、今も数多くいます。彼らは奇蹟を信じてはいません。彼らが信じなのは、理解していないからです。理解できないのは、体験をしていないからです。