ダン

 

 

天界の秘義3923

 

 

「それで彼女はその名をダンと呼んだ」。これはその性質を意味していることは『名』と『名を呼ぶこと』の意義から明白であり、それは性質である(144、145、1754、1896、2009、2724、3421を参照)。性質そのものが『ダン』という名前の中に存在しているのである、なぜならかれは『審くこと』からそのように名づけられたからである。

 

 

天界の秘義3923[2]

 

『ダン』は人間が再生しつつある時最初のものでなくてはならない肯定的なものであることは、『ダン』の名が言われている聖言の他の記事からもまた認めることができよう。―

 

 ダンはイスラエルの種族の一つとして、その民を審くであろう、ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のくびすを噛み、これに乗る者は後に倒れるであろう。ああエホバよ、わたしはあなたの御救いを待ちます(創世記49・16,18)。

 

 ここの『ダン』は真理を肯定するものを意味しており、それについては、たれかが感覚的な事柄から真理について論じるときは、それは『途の上の蛇、小道の上の毒蛇となるであろう』と言われ、それが最低の知的な事柄または記憶知に諮るときは、『馬のくびすをかむ』と言われており、その時それが真理から離れ去ることは『それに乗る者は後向きに倒れること』により意味されており、そうした理由から、『ああエホバよ、わたしはあなたの御救いを待っています』と言われているのである。『蛇』は神のアルカナについて感覚的な事柄と記憶知から論じる人間であることは前に見ることができ(195−197番)、『道』と『小道』は真理を意味し(627、2333番)、『馬のくびす』は最低の知的なものまたは記憶知である(259番)、なぜなら『馬』は知的なものであり(2761、2762番)、その最低の部分は『くびす』であるからである。

 

 

天界の秘義3923[7]

 

 最初の境界は、すなわち、その地の真中または最内部は、エルサレムがそうしたものになる前ではベエルシバであったが、それはアブラハムがそこにおり、イサクもまたそこにいたためである、しかし最後の境界はまたはその地の最端はダンであり、そこあら凡ゆるものの一つの総合体が意味されたときは『ダンからベエルシバまでさえも』と言われたのである、例えばサムエル書の下巻には―

 

 サウロの家から王国を移し、ダンからベエルシバにさえいたるまでも、イスラエルを、またユダを治めるダビデの王座を立てる(サムエル下3・10)。

 

 

天界の秘義6396

 

 ダンは真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者たちを意味していることは、ダンの表象から明白であり、それは生命の善であるが(3921、3923番を参照)、しかしここでは真理から多少の生命の善の中にはいるが、未だ善からその中にいない者である。なぜなら主により再生されつつある人間の実情は以下のものであるからである。彼は先ず真理の中にいるが、真理から生命のいかような善の中にもいないのである。次に彼は真理から生命の善の中にいるが、しかし未だ善からその中にはいないのである。その後、彼は再生すると、善から生命の善の中におり、その時は善から真理を認めて、それを彼自身の中に増大させるのであり、これが再生の段階である。『ダン』により、真理から生命の善の中にいるが、しかし未だ善からそこにいない者たちが意味されており、彼らのもとでは善は真理の中に深く隠れていて、彼らに真理の情愛を与え、彼らを駆って真理に応じて生活させるのである。このような者たちは主の王国の中にいるが、しかし彼らは善から善を為さないで、真理から善を為し、即ち、新しい意志から為さないで、知的なものから為し、かくて愛から為さないで、それがそのように命じられているため服従から為すため、それで彼らは主の王国の中で最初の、または究極の天界にいる者たちの間にいるのである。