カナン

 

1.カナン

2.カナンの地

3.カナンの地へ入る

 

 

 

 

1.カナン

 

 

天界の秘義1083

 

『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。人間が教会となる以前、すなわち、かれが再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、かれが再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。

 

 

天界の秘義1083[2]

 

古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生けにえ、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いておこったのである。すなわち、生けにえとそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。

 

 

天界の秘義1083[3]

 

古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することはできない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しないかぎり、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、かれは聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、かれらは外なる礼拝の中にかれら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主はかれらの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、かれらの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈をもっていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。かれらは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかしかれらは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝をもっているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

天界の秘義1091

 

「その年の若い方の息子[弟]が自分にしたこと」。これは内なる礼拝から分離した外なる礼拝は(他を)侮るていのものであることを意味している。文字的なまたは歴史的な意義からはかれの年若い息子によりハムが意味されているかのように思われるが、しかし以下の節からカナンが意味されていることが明白である。なぜなら『カナン呪われよ』と言われ、次の節に(26,27節)カナンは僕とならなくてはならぬと言われているからである。ハムについては何ごとも言われていない理由は次の節に説明しよう。ここではわたしたちは順序がセムが最初に、ハムが次に、ヤペテが第三に、カナンが第四に言われているようになっている理由を単に述べることにしよう。仁慈は教会の最初のもの、またはセムであり、信仰は第二のもの、またはハムであり、仁慈から発した礼拝は第三のもの、またはヤペテであり、信仰も仁慈もない外なるものにおける礼拝は第四のもの、またはカナンである。仁慈は信仰の兄弟であり、それで仁慈から発した礼拝もまた信仰の兄弟であるが、しかし仁慈のない外なるものにおける礼拝は『僕の中の僕』である。

 

 

天界の秘義1092

 

 25節。「かれは言った、カナン呪われよ、かれはその兄弟に対し僕の中の僕とならなくてはならない」。『カナン呪われよ』は内なるものから分離した外なる礼拝はそれ自身を主から離反させることを意味し、『かれはその兄弟に対し僕の中の僕とならなくてはならない』は教会の中の最も卑賤なものを意味している。

 

 

天界の秘義1093

 

 「カナン呪われよ」。これは内なる礼拝から分離した外なる礼拝がそれ自身を主から離反させることを意味していることは、カナンの意義から、また『呪われること』の意義から明白である。『カナン』は内なる礼拝から分離した外なる礼拝であることは、前にカナンについて言われたことから、またかれが『呪われる』と言われていることからも明白であり、またかれが僕の中の僕となることについていかに記されていることからも明白であり、さらにセムのみでなくヤペテの僕である者は外なるもののみにおける礼拝といった、教会そのものから分離したもの以外のものを意味するはずはないのである。このことは『呪われる』ことの意義から明白であって、それは自己を離反させることであるが、それは主は決して何人をも呪われないし、また怒りさえもされないのであって、自分自身を主から遠ざけて、自分自身を呪う者は人間であるためである(前の223、245、592番に言われ、示されたことを参照されたい)。天が地から隔たっているように、主はたれかを呪って、その者を怒ることからは隔たっておられるのである。主は、全知であられ、全能であられ、その知恵により宇宙を支配され、かくて凡ゆる弱点からは無限に超越されておられるのに、自分の行うことについては、ほとんど何ごとも知っておらず、自分自身では悪以外には何ごとも行うことができない人間のようなみじめな塵(ちり)、埃(あくた)を怒られるとは、そうしたことをたれが信じることができよう。それゆえ主が怒られる、または慈悲以外のものになられるということは決してありえないのである。

 

天界の秘義1093[2]

 

ここに秘義が含まれていることは単に以下のことのみからでも認めることができよう。すなわち父の裸かを見て、そのことを兄弟たちに告げたのはハムであるのに、そのハムが呪われていないで、かれの息子のカナンが呪われたのであり、カナンはハムの独り児ではなく、またかれの長子でもなく、順序では第四番目の者であったのであり、そのことは第十章の6節から明白であって、そこにハムの息子たちの名が記されており、すなわち、クシ、ムズライム、プト、カナンと記されているのである。息子がその父の不法を負ってはならないこともまた神の法則の一つであったのであり、そのことはエゼキエル書に明白である―

 

  罪を犯す魂は死ななくてはならない、息子は父の不法を負うてはならない、父もまた息子の不法を負うてはならない(18・20、申命記24・16、列王記下14・6)。

 

 そのことはまたこの不法は(すなわち、ハムが父の裸かを見て、それを自分の兄弟たちに告げたということは)極めて軽微なものであって、子孫全体がそのために呪われるはずはないということを考察するなら、そこからも明らかとなるのである。この凡てからここにはアルカナ[秘義]が含まれていることが明白である。

 

 

天界の秘義1093[3]

 

『ハム』の名が今記されていないで、『カナン』が記されているのは、『ハム』は霊的な教会における仁慈から分離した信仰を意味しており、これはその教会では真理が存在しているため、信仰のうちに聖いものがあるからには、呪われることができないためである。そこから仁慈がないとき、信仰もないものの、それでも人間は信仰の知識から再生されるため、仁慈のないこの信仰も仁慈に結合されることができ、かくてある意味では兄弟であり、または兄弟になることができるのであり、それでハムではなく、カナンが呪われたのである。さらにカナンの他の住民は、異邦人もユダヤ人も、その大部分は礼拝をことごとく外なるものから成立させるといった性質をもっていたのである。こうしたものが、ここに含まれているアルカナであり、もしそうでなかったとするなら、カナンは決してハムに代えられはしなかったであろう。内なる礼拝から分離した外なる礼拝はそれ自身を離反させ、かくてそれ自身を呪うことは以下のことを考察するなら、そこから充分に明白となるであろう。すなわち、外なる礼拝の中にいる者らは世的な、形体的な、地的な物以外には何物をも顧慮しないのであり、かくて下の方を眺めて、その心と生活とをそれらの物の中に浸すのである。そのことについてはわたしたちはまもなくさらに多くのことを述べよう。

 

 

天界の秘義1097

 

「カナンはかれの僕とならなくてはならない」。これは礼拝を全く外なるものから成立させている者は教会の人間たちに卑賤な勤めを行う者らの間にいることを意味していることはユダヤ教会の中の表象的な物からとくに明白である。ユダヤ教会では内なる教会はユダとイスラエルにより表象され、ユダにより天的な教会が、イスラエルにより霊的な教会が、ヤコブにより外なる教会が表象されたのである。しかし礼拝を専ら外なるものから成立させた者らは異邦人により表象されたのであって、この者らは他国者と呼ばれて、かれらの僕となり、その教会の中で奴僕の仕事を行ったのである。例えばイザヤ書には―

 

  他国人[他国の者]は立って、あなたらの羊を飼い他国人の息子らはあなたらの耕作人となり、またあなたのぶどう作りとならなくてはならない。しかしあなたらはエホバの祭司と呼ばれ、わたしたちの神の仕え人と呼ばれなくてはならない。あなたらは異邦人の富を食べ、かれらの栄光をあなたら自身ほこらなくてはならない(61・5,6)。

 

 ここには天的な人は『エホバの祭司』と呼ばれ、霊的な人は『あなたたちの神の仕え人』と呼ばれ、礼拝を専ら外なるものから成立させている者は、かれらの畠とぶどう園に働かなくてはならない他国人の息子らと呼ばれているのである。

 

 

天界の秘義1103

 

「カナンはかれの僕とならなくてはならない」。これは礼拝を外なるもののみから成立させる者は卑賤な役目を果すことができることを意味していることは前節(25、26)にカナンが僕であることについて言われたことから明白である。こうした人間は実に地上では主の教会の中では僕ではないのである。なぜならかれらの中には高い地位を占め、他の凡ゆる者の上に置かれて、仁慈と良心からは何事も行ってはいないが、しかも極めて厳格に教会の外なるものを守り、それを守らない者を罪に定めさえしている者が多くいるからである。しかしこうした人間は仁慈と良心の中にいないで、礼拝をもっぱら内なるものを欠いた外なるものから成立させているため、主の王国では、すなわち、他生では僕である。なぜならかれらは不幸な者の中に居るからである。かれらがそこで果している務めは卑賤なものであって、またそれにはここに充分に述べることもできないほどに多くのものがあるが、それについては主の神的慈悲の下に今後記すことにしよう。なぜなら他生では各々の者は例外なしに何か用を果たさなくてはならないからであるが、それは人間は世に住んでいる間に、また他生に住んでいる間にも、主の良しとされるところに従って、その住んでいる社会にまた隣人に対し用を遂行するという目的以外の目的のためには生まれていないためである。このことは人間の身体の場合も同一であって、人間の身体の各部分も、実にそれ自身では無価値な物でさえも何かの用を果さなくてはならないのである。例えば、食物に対してのみでなく、排泄物を分離し、内蔵を浄化する上に役に立たなくてはならない多くの唾液、胆汁、他の分泌液のような、それ自身では排泄物のようなものであるといったものも何かの用を果さなくてはならないのである。畠とぶどう畠の肥料と糞といった他の多くの物もそのようなことに役立っているのである。

 

 

天界の秘義1200

 

 『カナン』はその内に内なるものを何一つもっていない外なる礼拝を意味していることは前にカナンをとり扱ったところに示した。『カナン』と呼ばれている外なる礼拝は主が来られる前の、また主が来られた後のユダヤ人のそれのようなものである。かれらは外なる礼拝を持ち、これを厳格に守りはしたがそれでも自分たちはただ身体をもってしか生きていないと考えていたほどにも内なるものについては全く無知であったのである。霊魂の性質については、信仰について、主については、霊的な天的な生命の事柄については、死後の生命については、彼らは全く無知であったのである。それで主の時にはかれらの極めて多くの者は―マタイ22・22−33、マルコ12・18−28、ルカ20・27−41に明白なように―復活を否定したのである。人間は自分が死後も生きることを信じないといったものになると、かれはまた霊的なものであり、天的なものである内なるものが何か存在していることを信じないのであって、単なる欲念の中に生きている者らは、身体と世との生活を送っているため、そうしたものとなり、とくに嫌忌すべき貪欲に溺れている者らはそうしたものになるのである。にも拘らずかれらは礼拝を持っていて、その会堂にまたは教会に出席し、儀式を守り、或る者は極めて厳格にそれを守っているが、しかしかれらは死後に生命があることを信じていないため、その礼拝は、核のない貝がらのように、果のならない、また葉さえもない木のように、内なるものを何ら持たない外なる礼拝以外のものではありえないのである。『カナン』により意味されているものはこうした外なる礼拝である。前にとり扱われた他の種類の外なる礼拝は内に内なるものを持った礼拝であった。

 

 

 

 

2.カナンの地

 

 

天界の秘義1585

 

「ヨルダンの平原[平地]をことごとく見た」。これは外なる人の中にあったいくたの善といくたの真理とを意味していることは『平原[平地]』と『ヨルダン』の意義から明白である、内意では『ヨルダンの平原』は外なる人をそのあらゆる善と真理との方面で意味している。『ヨルダンの平原』がそのことを意味しているのはヨルダンはカナンの地の境界であったためである。カナンの地は、前に言いもし、示しもしたように、主の王国と教会とを意味し、事実その王国と教会との天的なものと霊的なものとを意味したのであって、そのためそれはまた聖地、天のカナンと呼ばれており、それが主の王国と教会とを意味しているため、それはその最高の意義では主の王国と教会とのすべてにおけるすべてであられる主御自身を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義1585[]

 

ここからカナンの地にあるあらゆる都も、また山、岡、谷、川、その他あるゆるものさえもが表象的なものとなったのである。

 

 

 

天界の秘義1585[]

 

イスラエルの子孫がカナンの地に入ったときヨルダンを渡ったこと、そのときそれが分かれたことも同じく外なる人を通して内なる人に近づくことを表象し、また人間が主の王国に入ることなどを表象したのである(ヨシュア記3・14から終りまで、4・1から終りまでを参照)。

 

 

 

天界の秘義4447[2]

 

天的なものであった最古代教会の残りのものは依然カナンの地に、とくにヒテ人とヒビ人と呼ばれている者たちの間に存在した。この残りのものが他の何処にも存在しなかった理由は、『人間』または『アダム』と呼ばれた最古代教会は(478、479番)、カナンの地に在り、それで『エデンの園』も―これによりその教会の人たちの理知と知恵とが意味され(100、1588番)、その中の木によりかれらの認識が意味されたのであるが(103、2163、2722、2972番)―その地に在ったということである。そして理知と知恵とは『庭園』または楽園により意味されたため、それにより教会そのものが意味され、教会が意味されたため、天界もまた意味され、天界が意味されたため、最高の意義ではまた主が意味されたのであり、それでこの意義では『カナンの地』そのものは主を意味しており、関連的な意味では天界を、また教会を意味し、個別的な意義では教会の人間意味し(1413、1437、1607、3038、3481、3705番)、それでまた『地』または『大地』は、それが単独に聖言に記されている時は、同じような意義を持っており(566、662、1066、1067、1413、1607、3355番)、『新しい天と新しい地[大地]』は新しい教会の内なるものと外なるものの方面である(1733、1850、2127、2118、3355番)。最古代教会がカナンの地に在ったことは567番に見ることができよう、その結果そのいくたの場所は表象的なものとなり、そうした理由からアブラムはそこに行くことを命じられ、その地はかれの子孫であるヤコブの息子たちに与えられたのであるが、それはそのいくたの場所の表象的なものが―それに従って聖言が記されることになっていたのであるが―保存されるためであったのである(3686番を参照、その同じ理由から山と川、その周囲の凡てのものはもとより、そこの場所もすべて表象的なものとなったのである(1585、1866、4240番)。

 

 

 

天界の秘義4453[3]

 

カナンの地は、『商品』または『製品[製造品]』から派生している名を最古代教会から持っていたのである、なぜならそうしたものが原語の『カナン』の意味であるからである。

 

 

 

天界の秘義10507

 

「そして今行きなさい、わたしがあなたに言ったものへその民を導き入れなさい。」これは、この国民は教会を表象しなくてはならないことを意味しているが、教会がその中に在ることを意味していないことは、『その民をカナンの地へ導き入れること』の意義から明白であり、それは教会が存在するようにしむけることである、なぜなら『カナンの地』により教会が意味され、『そこへその民を導き入れること』によりその霊的な意義では彼らの間に教会を設立することが意味されるからである、なぜならその国民はそれが教会となるためにその地へ導き入れられたからであるが、しかしここではそれは単にそれを表象することを意味しているにすぎないのであり、それは『・・・ものへその民を導き入れなさい』と言われて、『地へ』とは言われていないためである。(イスラエルとユダヤ国民のもとには教会は存在しないで、単に教会を表象するものが在ったにすぎないことについては、4281、4288、4311、4500、4899、4912、6304、7048、9320番を参照されたい)、『カナンの地』は教会を意味し、3686、3705、4447、5136、6516番、従って聖言の『地』また『大地[陸]』が教会を意味していることについては、9325番に引用されたところを参照されたい。)

 

 

 

 

3.カナンの地へ入る

 

 

新共同訳聖書

出エジプト記1・9−10

 

国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

 

 

文語訳聖書

出エジプト記1・9−10

 

彼その民にいひけるは視よこの民イスラエルの子孫われらよりも多くかつ強し。来たれわれら機巧(かしこ)く彼らに事をなさん恐らくは彼ら多くならん又戦争(いくさ)の起ることある時は彼ら敵にくみして我らと戦ひ遂に国よりいでさらんと

 

 

 

天界の秘義17巻P

 

出エジプト記1・9

 

かれはその民に言った、

見よ、イスラエルの息子たちの民は多く、私たちよりも多数である。

 

 

出エジプト記1・10

さあ、私たちはそれを慎重に扱おう。恐らくそれは数が増し、戦争がたまたま起ると、それはまた私たちの敵に加わって、私たちと戦い、この地から上って行くであろう。

 

 

 

天界の秘義6658

 

「この地から上って行く」(出エジプト記1・10)。これは、かくして教会が新しく建てられるであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『上ること』の意義は高揚されることであり、即ち、教会の更に内的なものに向って高揚されることであり(3084、4539、4969、5406、5817、6007番を参照)、『地』、ここではゴシェンの地の意義は教会である(そのことについては前の6649番を参照)。更に内的なものへ高揚されることは―そのことは『その地から上ってカナンの地へ入ること』により意味されているが、そのことは―教会が新しく設立されるであろうということを意味しているのである。人間が情愛から善を為す時、教会は実際彼のもとに新しく設立されたのではあるが、しかしそれでもそれは、彼が悪と誤謬との対して戦わない中は、かくて彼が試練に堪えない中は、充分に新しく設立されてはいないのである、即ち、彼は試練に堪えた後で、真に教会となり、その時天界へ入れられるのであり、そのことはイスラエルの息子たちがカナンの地へ入れられたことにより表象されているのである。