カルビン

 

 

続最後の審判54

 

 私はカルビンと只一度だけ話したことがある。彼は頭上の前面に現れる天界の一つの社会にいた。彼は以下のように言った、私は信仰のみについてはルーテルとメランヒトンとは一致していない。なぜなら業は聖言に再三言われていて、それを行うことが命じられており、それゆえ信仰と業とは連結されなくてはならないからである、と。私はその社会の支配者たちの一人から、カルビンは正しく、他を乱すようなことは何ら為していない故、彼の社会に受け入れられていると聞いた。

 

 

 

真の基督教798

 

(1)カルビンは始めて霊界に入った時、依然、彼の生まれた世界に居るものと考えた。彼は最初その交わった天使たちによって、今は彼らの世界に居ることを聞かされたけれども、「私は同じ身体、同じ手、同じ感覚を持っている」と語った。しかし、天使たちは彼に彼は今は原質的な身体の中に在り、それは前には物質的な身体を着せられていたのであり、その物質的な身体は脱ぎすてられ、人間がそれによって人間である所の原質的な身体が残ったのであると告げられた。最初彼はこれを理解したが翌日には自分は依然その生まれた世界に居るのであるという前の信念に帰った。これは彼は感覚的な人間であり、その身体の感覚の対象によって学ぶ以外のものは何物をも信じないためであって。それ故、彼は信仰の凡ゆる教義を、自らの理解から取得し、聖言から取得しなかったのである。彼は民衆の賛意を得るために、聖言から引用したに過ぎなかったのである。

 

 

 

(2)この第一期の後、彼は天使たちの許を離れ、予定を信じていた古代人を探し求めながら彷徨った彼らは地下の遥か彼方に居り、そこに至るには裏道しかないが、ゴドシャルクスの弟子たちはなお自由に彷徨って居り、霊の言葉でピリスと呼ばれる場所に時々集合すると告げられた。で、彼はその強い要求によって彼らの集会所に連れられて行き、彼らの間に来ると歓び、その親友となった。

 

 

 

(3)しかしゴドシャルクスの追随者等が洞窟内の彼らの兄弟等の許へ送られた後は、生活が彼には非常に退屈なものに思えた、遂に彼は心の単純な宗教的な人々から成る一つの社会に隠れ家を見出した。しかし彼らは予定に関しては何事も知らず、またそのことについては些かの顧慮をも払わないことを知ると、その社会の端の所で仏頂面をして、どのような宗教的な問題にも一度も口を開かなかった。このように定められたのは、彼が予定に関するその過誤から遠ざけられ、またドルト会議以後、かの忌むべき異端を固執した者らの陣列が満たされるためであった。これらの者は上述したように、徐々に地下の洞窟に集合した。

 

 

 

(4)遂に、現代の予定主義者たちの間に、「カルビンは何処にいるか」との叫び声がおこった。かくて彼は上述の社会の端に見出された。それから彼は予定説の毒に同じく感染していた或る一長官の許へ連れられて来た。この人は彼を自分の家に迎え、主によって新しく天界が形成されるまで彼を庇護した。しかしその後その庇護者はその一隊の者と共に追い出され、カルビンは評判の悪い或る家に赴き、そこに暫くの間止まった。

 

 

(5)彼は自由に彷徨うことが出来たので私の所へ来て共に語った。我々は先ず主の御言に従って(マタイ28・18)主のみを天と地の神として認める者達によって今や形成されつつある新しい天界について語った。これらの者は主と父とは一であり(ヨハネ10・30)、主は父の中に在り、父は主の中に在り、主を見且つ知る者であり、かくて教会と天界の一人の神が在すことを信じていると私は語った。これを聞くと彼は最初は日頃の沈黙を守っていた。が、約半時間を経て突然語り出した。「キリストはヨセフに嫁したマリアの子である人間ではなかったか。如何にして人間は神として礼拝し得られようか」私は答えた。「イエス・キリストは我々の贖罪者、救い主、神にして人ではありませんか」これに対し彼は答えた。「彼は神にして人である。しかし、神性は彼のものではなく、父のものである。」「それではキリストは何処に居ますか。」と私は尋ねた。彼は言った。「天界の最も低い部分に居る。これは父の前に於ける彼の謙虚と自らが十字架に懸けられることを許したことにより確証される」それから彼は世から彼の記憶に入ったばかりの言を以て基督礼拝を罵り始めた。その言の意味はかかる礼拝は単なる偶像礼拝に過ぎないというにあった。彼はこの礼拝を冒瀆しようとしたが、私と共に居た天使たちは彼の唇を閉じた。

 

 私は彼を回心させようとの熱意から、我らの救い主なる主は神と人であるのみでなく、彼に於いて神は人であり人は神であると語った。而してこの事を私は彼の中には神性の完全性はことごとく身体をなくして宿っているというパウロの言葉により(コロサイ2・9)彼は真の神にして永遠の生命であるとヨハネが語っている所により(第一書5・20)また子を信ずる者は凡て永遠の生命を持ち、信ぜぬ者は生命を見ず、反って神の怒りがその上に臨むことが父の意志であるという主御自らの御言により(ヨハネ6・39、40。3・36)更にキリストに在っては神と人とは二人ではなく一人であり、両者は人間に於ける霊魂と身体のように、一人格の中に在るというアタナシウス信条に宣言されている事により証明した。これを聞くと彼は答えた。「聖言のこの凡ての引用は私には無価値である。異端は凡て聖言の引用によって支持することが出来る。それ故、聖言は吹く風のままに動く風車のようなものである。予定のみが他のすべての教義を包含している。それは謂わば、教義の集会の幕屋であり、而して義認と救いを生む信仰はそのも社であり、聖所である。何人も霊的な事柄に関しては自由意志を持たない。救いは自由な賜物である。予定に反する論議は私の耳には胃のゲップか腹が下痢でも起こしているように聞こえる。予定説以外の教義が聖言により教えられている教会の集まりは羊と狼の混じり合った群れであるが、しかし、狼は羊を―それは予定された者のことであるが―襲わないように律法により口籠をかけられているのであると私はしばしば考えたことがある、而してそこの説教は、それが如何ほど雄弁であっても、譬えて言えばしゃっくりのようなものに過ぎないのである。しかし、私は自分の信仰を次のように述べよう、一人の神が在る、彼は全能である。父なる神によって選ばれ、予定された者等を除いては何人にも救いは無い。それ以外の者は凡てその運命を堪え忍ばねばならぬと」。

 

これを聞くや、私は激怒して語った。「去れ、悪魔よ! 君は涜言を語っているのだ。君の信仰は或る者は天界に、或る者は地獄に予定されていることを意味する。それ故君は神は暴君であり、その好む者を自らの都に入れ、他を拷問場に渡すと信じている。恥知らず!」それから私は「一致信条」から抜粋した以下の文を読んだ。「もし心の信頼と信仰が、単にキリストの神性に従ってのみでなく、その人間性に従って、キリストに置かれるならば、もし崇拝の栄誉が両性に向けられるならば、それは呪うべき偶像崇拝である」および、「キリストは凡ての人のために死んだのではなく、単に選ばれた者のためにのみ死んだのである、神は人間の大部分を永遠の堕地獄のために創造し、彼らが回心して生きることを欲しない。選ばれた者と再生した者は大いなる罪と各種の犯罪を犯すにしても、信仰と聖霊とを失うことは出来ない、しかし選ばれない者は必然的に罪に定められ、たとえ一千度も洗礼を受け、毎日聖餐に列し、更に能う限りの聖い、罪の無い生活を送るにしても、救いに至ることは出来ない」(1756年ライプツィヒ版より、837、838頁)。

私はこの抜粋を読んだ後、それは彼の教義を正当に述べているか否かと尋ねた。彼は自分はその言葉そのもに責任があるか否かは確かではないが、それは彼の教義を正当に述べていると答えた。これを聞くと、主の凡ゆる僕たちは彼を棄て去り、彼はかの忌まわしい予定説を確認している者等の洞窟に急ぎ去った。その後私はこれらの或る者等と語り合い、その状態を尋ねた。彼らは働くことを強いられ、互いに憎み合っている。彼らは凡ゆる機会を捕らえて互いに傷つけ合う。而してこれが彼らの生活の喜びである(また485、488番を参照)。

 

 

 

真の基督教799

 

 私は他の多くの者と語り合った、その中の或る者はこの三人の指導者の追随者であった。仁慈の生活を送り、真理をそれ自体のために愛した凡ての者たちは新教会の教義を教えられることを喜ぶが、誤った宗教を確認し、悪い生活を送った者は教えられることを欲しない。彼らは新しい天界を避け、地獄に在って彼ら自身に似た者等と交わり、そこに主礼拝を廃棄し、イエスの名を聞くに堪えない。しかし、天界では凡ての者は心を一つにして主を彼らの神として認めているのである。

 

 

 

霊界日記6041

 

カルビンは天界の或る社会の中にいたが、しかしその社会の真中からは遠く離れた所におり、依然、世にいたとき信奉していたような教会の教義を信奉していた。かれはわたしと話し合って、以下のように言った、すなわち、自分は信仰と善い業とについてルーテルと文通したが、ルーテルは注意を払ったのである、自分は、もし信仰のみが採用されるなら、聖言の中に在る幾多の事柄は否認されることになるが、それでもこれらのものは連結されねばならないことを示したのである、また、ルーテルはカルビンの書物を読むことをためらって、もし自分が業を受け入れるなら、自分は法王派の者らからは遠く離れはしないことになるとも答えたのである、後ではかれらは文通して、カルビンは善い業を伴った信仰にとどまったが、ルーテルは信仰のみにとどまって、信仰は木が実を生み出すように善い業を生み出すことを信じ、連結するものが在る、と言ったが、しかしかれはそのことについてはかれの追随者らが考えたようには考えなかったのである。ルーテルはカルビンに以下のことを書いたのである、すなわち、自分は業を確立することはできない、なぜなら業は人間から発しており、人間からは善は何一つ発しないからであり、また業の中には功績が在るからである、と。カルビンは、正しくて、騒ぎもおこさなかったため、その社会へ受け入れられた。わたしはそのことをその社会の総督[治めている者]から聞いたのである。