ブリージ・マッケナ(1945〜)

「祈り―恵みの泉―」

聖母文庫・聖母の騎士社

 

「退屈な司祭だとか、司祭が聖霊による刷新された人でないとか、

うるさい人だとか、臆病だとか、私たちは司祭のことをいろいろ言うのですが、

自分の信仰が足りないのに司祭を非難することなどできるでしょうか。

本当は、司祭が問題ではないのです。本当の問題は自分の信仰にあるのです。」

 

「私は司祭たちに、イエスを私たちの祭壇に連れてくることは、

彼らの出来る一番美しいことですと言います。(中略)マリアのように、

彼はイエスを生むのだということを自覚しなければなりません。彼が私たちに

イエスをもたらすことの出来る唯一の道は、御聖体をとおしてです。」

 

ブリージ・マッケナはアイルランド生まれのシスター。

24歳の時、重症のリューマチ性関節炎を主イエスにより癒され、それ以後

主より「癒しの賜物」を与えられ、人々や司祭のために祈る奉仕をしています。

 

<感情ではなく信仰を>

P152

「人々は私のところにきて次のように言うようになりました。

『私はミサ聖祭のときに何も感じませんし、退屈です。祈りの集いは命に

満ちていて、とても良い気持ちになり、ずっとたくさんのことを得ます』

 

私はいつもこう答えます。『信仰と感情は二つの違う事柄です。

“あなたの感情によってあなたは救われる”とか、

“あなたの感情によってあなたはいやされる”などと

イエスが言われたという個所は、神のみ言葉のどこにもありません。

イエスは人々の信仰をほめることはなさいました。

その信仰とは見えないことを信じることです。イエスは、

“見ないで信じる人々は祝福されている”とおっしゃいました』

 

これはカトリック信者である私たちにとって大きな挑戦です。

御聖体は奇跡であり神秘であるため、私たちは御聖体を説明できません。

大切なのは頭で理解することではなく、心で信じることなのです。

感情がキリストを御聖体に現存させるのではありません。御聖体においてキリストを

私たちに現存させるのは、叙階された司祭をとおして働かれる聖霊の力なのです。

私は何も感じないかもしれません。しかし、イエスはそれでもそこにおられるのです。

 

別の面からいえば、私が祈りの奉仕に行き、パンひと切れを取って、

イエスを現存させるためにあらゆることを試みたとしても、それがイエスを

現存させることにはなりません。それは叙階の秘跡の力を要するのです。

 

御聖体の中にイエスが現存なさることを本当に信じているかどうか、時々

私は自分に問いかけてみます。このパンが、ヨハネ6章の中でイエスが

話しておられる賜物だということを私は信じているでしょうか?

救われるためにはイエスの体を食べ、イエスの血を飲まねばならないと

イエスが話されたとき、イエスの弟子たちもイエスに従ってきた人々も、

信じることができなかったことを思い出してごらんなさい。

 

イエスが奇跡やさまざまなしるしや不思議を行なっておられるときに、イエスを

受け入れることは簡単なことです。しかし、あなたが理解できないときや、

自分の目で何も見ることができないときに、信じるのは難しいことです。

しかし、それがクリスチャンへの挑戦です。イエスが御聖体の中におられること、

そして彼が私たちを愛しておられることを信じるために、わたしたちは呼ばれています。

私たちに与えられているのと全く同じ挑戦が、最初の弟子たちに与えられていました。

それは彼らにとってはもっと困難なことでした。彼らは私たちの利点をもって

いませんでした。つまり、イエスが死者の中からよみがえられたことや

、五旬際の使途たちの証言や、二千年間の伝統などはなかったのです。

(中略)

ミサ聖祭で完全に生きておられるイエスにお会いすることを私が

本当に信じるなら、二つの非常に具体的な力強い方法でイエスに会えるという

ことを認識します。神のみ言葉の宣言をとおして、私はイエスに

会うのです。福音を宣べ伝える助祭や司祭たちは、私を清め、いやし、

解放してくれる生けるみ言葉を実際に私に提供しているのです。

私が御聖体を拝領するとき、魂のための食物を受けるのです。

主の食卓で、私は自分の人生の道の方向と案内を受けます。御聖体のうちに

私は福音の中に宣言されていることを聞いて、聞いたばかりのことを

生き抜くため、私に力を与えてくれる食物をうけるのです。」

 

<御聖体のイエスに触れて>

P161)

「この二つの方法でイエスにお会いできることを考え、

イエスの衣の裾に触れた女の人の物語をもう一度思い起こして見ましょう。

この福音のテーマを描いているようなニ、三の出来事を分かち合いたいと思います。

 その一つは若い司祭の話です。彼はとても心配していて、また恐れがいっぱいの

状態で、私に電話をくれました。声帯に癌ができていることが発見され、三週間

のうちに喉頭を取り除く手術を受けなくてはならなかったのです。彼はもう絶望だと

言いました。叙階してからまだ六年しかたっていなかったのです。

私は彼と祈ったとき、御聖体について彼に話すようにと、主が私に望んでおられる

のを感じました。『神父様、私は今、電話であなたと祈ることができます。

祈りましょう。でも、今朝あなたはイエスにお会いになりましたか?

あなたはイエスに毎日お会いになるのではありませんか?』私は全然知らなかった

のですが、この司祭は毎日ミサ聖祭をささげていなかったのでした。

 

私はかれに言いました。『神父様、毎日あなたがミサ聖祭をささげるとき、

あの聖なるホスチアをとるとき、それを食べるとき、あなたはイエスに会って

いるのです。聖書の中の女の人はイエスの衣の裾にただ触れただけでした。

でも、あなたはイエスご自身に触れ、イエスを自分の体の中にいただくのです。

あなたはイエスを食物としていただくのです。あなたは、イエスが実際に

あなたの喉を通って入ってこられることに気づいていますか?あなたがいやしを

求めていくのに、イエス以上に良い方はおられません。イエスにいやしてくださる

ようお願いしてください』電話の向こうで彼が泣いているのが聞こえました。

彼は『シスター、ありがとう、ありがとう』と言い続けていました。

 

三週間後に手術をするために彼は入院しました。その後電話をくれ、

手術はしなかったと言いました。医者は、彼の癌は消えてしまい、声帯が

真新しくなっていることを発見しました。

私は彼の名前も知りませんでした。約一年後、彼の友達をとおして、彼のことを

聞きました。病気になる前に、この若い司祭は日曜日以外にはミサ聖祭を

ささげるのをやめていたそうです。つまり、彼はミサ聖祭についてとても

不真面目だったのです。神は彼の人生を変えるために、癌という病気の

体験をお使いになったのです。この司祭は完全にいやされました。そして、

そのいやしは肉体だけではなかったのでした。彼は御聖体中心の司祭に

なりました。ヨハネ第4章の井戸の側にいた女の人のように聖体祭儀は、

彼にとって生きておられるイエスに会うための機会となったのです。

彼は最高の井戸、そこで飲んだら決して渇くことはないという井戸で、

イエスに会うことが始まったのです。そうです。奇跡は起こるのです。

(中略)

もし、あなたがミサ聖祭に正しい態度であずかるなら、あなたの人生と

生活は変わります。私たちの教会はしばしば、ミサ聖祭にあずかり、

預かる前と同じ状態で帰るという人々で一杯です。

(中略)

退屈な司祭だとか、司祭が聖霊による刷新された人でないとか、

うるさい人だとか、臆病だとか、私たちは司祭のことをいろいろ言うの

ですが、自分の信仰が足りないのに司祭を非難することなどできるでしょうか。

本当は、司祭が問題ではないのです。本当の問題は自分の信仰にあるのです。

もし、司祭が強い信仰をもっていれば、意味ある礼拝に向かう大きなステップだ

ということは事実です。私の司祭への奉仕において、私はいつでも司祭たちに、

さらに大きい信仰へとチャレンジするのはそのためです。

 

ミサ聖祭の中で司祭が何を代表し、何を行なっているかを見るために

自分自身や司祭の人間性を越えた向こう側を見なければなりません。

カトリック信者として、ご聖体において、

自分とイエスとの間に司祭を入れてはいけないのです。

 

教会は私たちにミサ聖祭にあずかることを義務づけています。

それはイエスが私たちを必要としているためではありません。イエス

ご自身が言われたように、イエスを憎んでいるがゆえに私たちを憎んで

いるこの世の中で生きるため、教会は、すべての良い母親と同じように、

私たちには命のパンが必要だということを知っているからです。

 

私たちはその旅路を歩むために、力づけられる必要があります。魂のための

食物と体のための食物、これがミサ聖祭の中でイエスが私たちにくださるものです。」

以上

 

 

(電話)

ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P60

 

 次に、主は私に聖櫃の上に乗っている巨大なピンクの電話のイメージを見せてくださいました。私はそれを妨げになるものだと思い、私の心から閉め出したくなりました。しかし、太い字で電話の下に次のような言葉がありました。「電話はコミュニケーションの手段です。人々はそれを使って互に話し合います。私もまたそれを利用します。電話をお使いなさい。人々はあなたの声を聞きますが、私に接するのです」私が人々に会いに出かけなくてもよいように、そして、主のみ前で彼らと一致するだけでよいように、電話で人々と共に祈ることを、主が私に教えてくださったのはそのときでした。主は時間や場所に制限されるお方ではないのです。