べツレヘム
天界の秘義4593
「ラケルは死んでエフラタに行く途中で葬られた」。これは前の内的な真理に対する情愛の終りを意味していることは以下から明白である、すなわち、『死ぬこと』の意義はそのようなものでなくなることであり(494番を参照)、かくて終りであり、ラケルの表象は内的な真理の情愛であり(3758、3782、3793、3819番)、『葬られること』の意義は前の状態が斥けられて、新しい状態が甦ることであり(2916、2917、3256番)、『エフラタ』の意義は前の状態における天的なものの霊的なものである(4585番)。この凡てから、ラケルがエフラタに行く途上で死んで葬られたことにより前の内的な真理に対する情愛の状態の終りと『ベツレヘム』であるところの新しい状態がよみがえることが意味されており、そのことの解説は以下に述べよう。
天界の秘義6247
「それは(エフラタは)ベツレヘムです」。これは、それに代って真理と善に対する新しい情愛の状態を意味していることは、『ベツレヘム』の意義から明白であり、それは新しい状態における天的なものの霊的なものであり(4594番を参照)、かくて真理と善に対する新しい情愛の状態である、なぜなら天的なものの霊的なものは善の真理であり、かくて善から発した真理に対する情愛であるからである。この節の内意における内容のいかようなものであるかを述べることが必要である。とり扱われている主題は真理に対する前の情愛を斥けて、新しいものを受けることである。真理に対する前の情愛は人間が再生しつつある間に存在しているが、しかし新しいものである後のものは、かれが再生したときに存在するのである。前の状態ではその人間は知的なものになろうという目的のために真理に感動するが、しかし後の状態では賢明なものになろうという目的から真理に感動するのである。または、それと同じことではあるが、前の状態ではかれは教義のために真理に感動するが、しかし後の状態では生命のために感動するのである。教義のために感動するときは、真理からかれは善を目指すが、しかし生命のために感動するときは、善から真理を目指している。かくて後の状態は前の状態とは逆のものである、それでその前の状態はその人間が再生しつつある間に斥けられ、新しい状態である後の状態が受け入れられるのである。さらに前の状態は、後の新しい状態に比較すると、不潔なものである。なぜなら人間は知的なものになろうとして教義のために真理に感動する時は、それと同時に名声と栄誉にもまた感動するからである。この情愛はそのとき現存しないわけにはいかないのであり、それはまた導入させるものとして許されてもいるのである。なぜなら人間はそうした性質をもっているからである。しかしかれは生命のために真理に感動すると、そのときは栄誉と名声とを目的としては斥け、生命の善を、すなわち、隣人に対する仁慈をかき抱くのである。