ベルナルド
1091〜1153
あかし書房/ベルナルド/雅歌について(一)/P30
「だからこそ、わたしは霊界のまぼろしや象徴的な夢については話したく
ありません。たとえばなしや、かたどりについても話したくありません。
天使たちの美しさにしてからが、わたしを退屈させるだけです。わたしの
愛するイエズスこそ、その尊さにおいても、その輝きにおいても、これら
のものをはるかに越えておいでになるからです。」
ベルナルドは聖母を讃える本を書いている時に聖母のご出現があったと言われています。恐らくそうでしょう。そうでなければこれほど優れた洞察が出来るはずがありません。彼は主イエズス・キリストを神その人であると明確に認識しています。そして冒頭の引用によれば、彼は霊眼を与えられていたようです。彼は天使も見たでしょうし、主もご出現されたのでしょう。
あかし書房/聖母の歌手/P35
肉はみな草なのですから、肉に過ぎなかったユダヤ民族が、草のように枯れ果ててしまったのは当然なのです。ユダヤ人は、新約の霊の樹液をすべて拒否して、律法の死んだ文字の孤塁に立てこもったとき、ちょうど水分を断たれた草のように、枯れ果ててしまったのは当然ではないでしょうか。
では、花はどうなったのでしょうか。花も散ってしまったのです。ユダヤ人が、しきりに律法を誇っていたそのむなしい栄光が、すでに過去のものとなり廃絶したとき、そのとき花も散ってしまったのです。
あかし書房/聖母の歌手/P41
しかし、マリアのうちには、一層素晴らしいこと、一層大きな賛嘆に値することが、ここにあります。それは、処女でありながら子を産むということなのです。一人の女性が母親であると同時に処女でもある、ということは、世界が始まって以来、一度も聞いたことがなかったのです。
ああ、その上、マリアが、どんな子供の母親であるかがよくおわかりでしたら、マリアのこの高い位の前に、あなたの驚きはいかばかりなのでしょう。どんなに驚いても、足りないとしかお考えにはならないでしょうか。神ご自身を、自分の子として持つ女性こそ、あなたのお考えでは、いやむしろ神の判断では、天使たちよりも一層高い地位に置かれているのではないでしょうか。そしてこの女性こそ、マリアなのです。マリアは、天使たちの主であり神であられる方を、なんのためらいもなく、自分の子供と呼んでおいでになるのです。「母はイエズスに言いました。“子よ、まあ、あなたはなぜ、わたしたちにこんなことをしたのです。見なさい。父上もわたしも、心配してあなたを捜し回っていたのです”」(ルカ2・48)
神に向って、このように大胆不敵な口が利ける天使がいるのでしょうか。天使たちにとっては、ダビデが「神は霊をご自分の御使いとした」(詩篇104・4)と言っているように、神のお恵みによって、自分たちが霊として、神の御使いとして、創造され、天使と呼ばれることがすでに、この上ない名誉なのです。
これに反して、マリアは、天使たちの神の母なのです。マリアは、ご自分が、神の母であることを自覚しています。天使たちは畏れかしこんで、このいと高きみいつの神に仕えています。マリアはこの同じいと高きみいつの神を心安く“わが子”と呼んでおいでになるのです。
あかし書房/聖母の歌手/P42
神は、ご自分が進んでお選びになった、マリアの子という身分と名前を、決して嫌がるはずがありません。福音記者もそのことを、少しあとに記述してこう言っています。「イエズスは彼ら[両親]に従っておられました」(ルカ2・51)。
「従っておられた」―だれが、従っておられたのですか。だれが、だれに、従っておられたのですか。ああ、神が、人間に従っておられたのです。神が! そうです、神が従っておられたのです。天使たちがご自分に従っているその神、主天使も権天使もこぞって、ご自分に仕えているその神―この神が、マリアに従っておいでになったのです。それもただ、マリアにばかりではありません。マリアのゆえに、ヨセフにまでも従っておいでになったのです。
人よ、この二つの絶妙な事柄を、心行くまで驚嘆するがよい。神の母マリアの高い位か、それとも人間への神の服従か―この二つのうち、どちらが一層あなたの驚嘆に値するのですか。神の御子の尊敬に満ちた、母マリアへの孝子の態度か。それとも母マリアの類ない権威か。どちらも絶妙な奇跡ではありませんか。
神が一人の女性に従っておいでになります。ああ、なんという異色の謙遜なのでしょう。一人の女性が神に命令を下しています。ああ、なんという高い位、類ない権威なのでしょう。一人の女性が神に命令を下しています。ああ、なんという高い位、類ない権威なのでしょう。童貞者をたたえる讃美の歌の中に、彼らは子羊が行くところには、どこにでもついて行く(黙示録14・4)という句があります。だとすれば、子羊を先導する母マリアには、どんな讃美をささげねばならないのでしょう。
人よ、服従することを学びなさい。一塊の土に過ぎない人間よ、従うことを学びなさい。吹けば飛ぶ塵に過ぎない人間よ、相手に譲ることを学びなさい。あなたを創造された神について福音記者は、「彼は彼らに従っておられた」と記述しています。あなたを創造された神が、マリアに従っておられたのです。またマリアのゆえに、ヨセフにも従っておられたのです。
人よ、おごり高ぶる灰よ、恥じなさい、赤面しなさい。神はこのようにご自分を低くされるのに、あなたは途方もなく自分を高くしているのです。
あかし書房/聖母の歌手/P45
自分の純潔を自慢している童貞者よりも、謙遜の道をたどる罪人のほうが、救霊への、聖性への、一層確実な道を選んでいるのです。謙遜な罪人が、その謙虚な償いによって、自分の罪の汚れを清めているのに反して、おごり高ぶる者の傲慢は、せっかく自分が持っている純潔を汚しているのです。
あかし書房/聖母の歌手/P133
そのような理由から、天使はマリアに「聖霊が、あなたの上に、“更に”臨み、いと高き者の力が、あなたを覆います」と言ったのです。「いと高き者の力が、あなたを覆います」とは、どんな意味なのでしょうか。それは知る人ぞ知るのです。いと高き者の力で、自分が覆われるということを、自分の体で、じかに体験するという大きな恵みをいただいたマリアだけが、そのことを知っているのです。すなわち、御言葉の受肉の際、だれも近づくことのできない光[御言葉]が、どのようにして、おとめマリアの清いご胎の中に忍び込んだのか、どのようにしておとめマリアは、この永遠の光[御言葉]との接触に耐えることができたのか、また、おとめマリアがそれに耐えることができるようにと、聖霊はどのようにマリアの体の一部分を取って、それをご自分に一致させ、こうして御言葉の肉体を造り、それを生きるものとしたのか、更にどのようにして、マリアの体の他の部分を、ご自分の力で、ちょうど影のように、ベールのように、覆い隠したのか ― このような幽玄な神秘の過程を、自分の知性で理解し、識別できる者は、それをじかに自分の体で受け止めたマリア意外にはだれもいません。
「いと高き者の力が、あなたを覆いましょう」と天使はマリアに言います。
これから行われようとしている御言葉の受肉の神秘は、聖なる三位一体の神が、ただマリアと二人きりで、ただマリアのうちでだけ行いたいのです。だから、それを理解できる者はただ、その過程を自分の身で、じかに体験する者、すなわち、マリアだけである、ということを天使はマリアに納得させたいのです。
「聖霊が、あなたの上に、更に臨みます」と、天使はマリアに言います。天使はこう言いたいのです。 ― ああ、おとめマリアよ、聖霊の全能の力によってこそ、あなたは身ごもるのです。“いと高き者の力が、あなたを覆いましょう”と、わたしは申しました。その意味は、聖霊の働きによって、あなたが身ごもるそのマナーは、キリストという名の神の力、神の知恵によって、受肉の神秘の濃い影の中に、秘密のベールで深く覆い隠されているのです。そのため、御言葉のこの受肉の神秘はただ、キリストとあなただけが知ることができるのです。
つまり、天使はマリアに、こう答えたいのでしょう。 ― おとめマリアよ、どうしてあなたはわたしに、ご自分がまもなく体験しようとしておいでになることを、お尋ねになるのですか。まもなくあなたは、受肉の神秘のマナーを知ることになるのです。まもなくそれが理解できる幸せに巡り会うのです。受肉の神秘がどのように行われるかは、それをまさに行おうとしておられる方が、あなたに教えてくださるのです。わたしですか、わたしはただあなたに、処女懐胎を告げ知らせる使命しかいただいておりません。あなたの処女懐胎を実現する使命はいただいておりません。処女懐胎に関しては、それを実現してくださる方だけが、あなたに実現のマナーを教えることがおできになるのです。また、それが、ご自分の身に実現されるあなただけが、それを教わる資格があるのです。
あかし書房/聖母の歌手/P176
次に、地上を旅する教会を、月にたとえましょうか。月が、自分からは光を放たないように、地上の教会も「わたしを離れては、あなた方は何もすることができないのです」(世5・5)と仰せになった義の太陽キリストからだけ、生命の光と熱をいただいているのです。地上の教会を月にたとえますと、マリアこそ、月と太陽との中間に位置を占めて光り輝いている仲介者なのです。今先わたしが、賛嘆の情を込めて申し上げたとおりです。黙示録の、そのことを歌っているからです。「一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏んでいます」(黙示録12・1)
愛する兄弟のみなさん。マリアの御足にしがみついていましょう。切実な嘆願を込めて、マリアの御足の元に身を投げましょう。マリアを引き留めるのです。わたしたちを祝福してくださらない限り、立ち去らせてはいけません。戦いに強い方だからです(創世記32・26)。
露と地面との間に置かれたギデオンの羊の毛、太陽と月との間に置かれた女 ― それは、イエズス・キリストと教会との間に置かれた仲介者マリアのシンボルなのです。露にしっとりと湿った羊の毛も驚異ですが、太陽を着た女こそ、一層驚異に値するのです。女と太陽とを同位に置いていることがすでに驚異です。しかし、女と太陽との距離をゼロに置いていることは、一層大きな驚異なのです。太陽の高熱のさ中にあって、マリアのか弱い肉体が、どのように耐えることができるのでしょうか。
ああ、モーセ、ああ、聖なる人よ、あなたも驚いていらっしゃる。ごもっともです。あなたはもっと近くから、燃えるやぶの奇跡を見たがっておいでになる。だが、そのためにはまず、履いているサンダルを脱がなければなりません。燃えるやぶに近づきたいのでしたら、潔く、地上的な考え、肉感的な思いを、かなぐり捨てなければなりません。「わたしは行ってこの不思議な見ものを見、なぜやぶが燃えてしまわないかを知りたいものだ」(出エジプト記3・3)とあなたは言われます。やぶが火で炎々と燃えているのに、それでも燃え尽きてしまわないのは、確かに不思議な見ものです。
太陽を着た女が、太陽の高熱で焼け死にしないで、ふだんと変わらない姿でいるのは、一層不思議な見ものではないでしょうか。炎に包まれたやぶが少しも焼けないということは自然ではありません。まして太陽を着ても、その高熱に耐えるということは女にできることではありません。それは人間の能力も天使の能力も無限に超えたことなのです。
それに耐えることのできる、もっと強い力を、どこかに探し求めねばなりません。「聖霊があなたの上にさらに臨みます」(ルカ1・35)と天使がマリアに言います。それに対して、もしマリアが「神は霊です。わたしたちの神は、焼き尽くす火です」と抗弁されたとすれば、天使は答えてこう言うのです。「いと高き者の力が、― そうです、わたしの力でもなく、あなたの力でもなく、全能の神の力が、その影であなたを覆うでしょう」(ルカ1・35)。いと高き神の全能の影で覆われるとき、どんな弱い女でも、マントのように着た太陽の高熱に耐えることができるのです。
人間の頭で理解できない神、人間が近づくことのできない神、人間が見ることのできない神、人間が想像することのできない神 ― この神が、御言葉の受肉によって、わたしたち人間にとって、理解できる神、近づくことのできる神、見ることのできる神、想像することのできる神と成られたのです。御言葉の受肉以来、神は人間に理解されたいのです。人間に見られたいのです。人間の思考の対象になりたいのです。どんなお姿のもとで、神は人間にそうしてもらいたいのでしょうか。それは例えば、飼い葉桶に寝かされているお姿です。聖母のふところに眠っておいでになるお姿です。山の上で説教しておいでになるお姿です。終夜祈っておいでになるお姿です。こういうお姿のものに、ご自分を神として観想してもらいたいのです。または、十字架にはりつけになっているお姿、死に悶えているお姿、完全に死体となっているお姿、古聖所にお下りになっているお姿、さらにまた三日目に復活したお姿、勝利のしるしに使徒に手足の釘跡をお示しになるお姿、使徒たちの見ている前で栄光の昇天をなさるお姿 ― こういうお姿のご自分を、人間に観想してもらいたいのです。このような出来事を通して、真実に、敬虔に、神性な感激のうちに、神を観想することのできない人間が一人でもいるのでしょうか。これらの神秘のどの一つを観想しても、その中にわたしは、神を見ることができ、神についての適正な考えを持つことができます。これらの神秘のすべてを通して、神ご自身が、わたしの神が、そこに姿を現しておいでになるからです。
人と成った御言葉の、これらすべての出来事についての観想を、わたしは知恵と呼びました。これらの観想の、感性における甘美さを、賢慮と呼びました。この甘美さを永遠の大祭司キリストは、新約の人々の心にお注ぎになるのです。
あかし書房/聖母の歌手/P266
聖母の被昇天は、聖母の地上における、御言葉への温かい受け入れに対する、神の感謝にあふれる天の国への聖母受け入れなのです。
あかし書房/ベルナルド/雅歌について(一)/P29
預言者たちの口から出ることばの洪水が、いったい自分にとって、どんな役に立つのでしょうか。むしろ、人の子らの中でいちばん美しい人(詩45・2)この人こそ“かれの御口の口づけをもって、わたしに口づけしてほしい”ものです。わたしはモーセなんかにもう聞きたくありません。モーセは“口も重く、舌も重い人です”(出4・10)。イザヤにも聞きたくありません。イザヤは“けがれたくちびるの者です”(イザ6・5)。エレミヤにも。エレミヤは“ただ子供にすぎず、どのように語ってよいか知りません”(エレ1・6)。わたしは、どの予言者とも、問答無用です。
ただ、すべての預言者が、そのかたについて多くのことを語っているそのかただけが、おん自ら、わたしに語ってほしいものです。そうです。そのかたが“ご自分の御口の口づけをもって、わたしに口づけしてほしい”のです。そのかたが、預言者においてではなく、また預言者をとおしてでもなく、ご自身で、わたしたちに語ってほしいのです。なぜなら、預言者たちのことばはちょうど“大空の雨雲の暗やみ、濃い雲、密雲”(詩18・11)のようだからです。どうか、そのかた自身が“ご自分の御口の口づけをもって、わたしに口づけしてほしい”のです。どうか、そのかたの優美な姿が、そのかたの感嘆すべき教えのかずかずが、“わたしのうちで泉となり、そこから、永遠の生命への水がわき出ますように”(ヨハ4・14)。