ベニヤミン
1.悲しみの息子
2.媒介的なもの
3.新しい真理
1.悲しみの息子
天界の秘義4593[2]
ラケルがエフラタに行く道で死んで葬られたことによりその純粋な意味では遺伝したものが試練により永久に斥けられたことが意味している。遺伝的なものであったものは内的な真理に対する人間的な情愛であって、それを神的な情愛が斥けたのである。こうした理由からこの息子はその母から『ベノミ』または『悲しみの息子』と呼ばれたが、その父からは『ベニヤミン』または『右手の息子』と呼ばれたのである。母から来ている人間的な情愛の中には善以外の何ものも存在していないのである、なぜなら人間的な情愛の中には自己のための目的として自己と世の栄誉が存在しているが、しかし神的な情愛の中には、ヨハネ伝の主の御言葉に従って、人類を救うことが自己から発するために自己のための目的が存在しているからである―
わたしはあなたがわたしに与えられた者たちのために祈ります。なぜならわたしのものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはわたしのものでありますが、わたしはかれらの中に栄えを受けているからです。これは父であるあなたがわたしの中に、わたしがあなたの中にいるように、かれらも凡て一つのものとなるためであり、またわたしたちの中に一つのものとなるためです。あなたがわたしに与えられた栄えをわたしはかれらに与えました。かれらがわたしたちが一つのものであるように、一つのものとなり、わたしがかれらの中におり、あなたがわたしの中におられるためです(ヨハネ17・9、10、21−23)。
2.媒介的なもの
天界の秘義5411
「ヨセフの兄弟のベニヤミン」。これは媒介的なものであるところの天的なものの霊的なものを意味していることは、ベニヤミンの表象から明白であり、それは天的なものの霊的なものである(そのことは前の4592番に見ることができよう、また天的なものの霊的なものは媒介的なものであることも見ることができよう)。全般的に、媒介的なものがないかぎり、内なるものは外なるものと交流することはできないのであり、またその逆に外なるものも内なるものと交流することができないのであり、従って『ヨセフ』であるところの神的なものから発した真理は、ベニヤミンによって表象されて、『天的なものの霊的なもの』と呼ばれる媒介的なものがなくては、『ヤコブの息子たち』であるところの、自然的なものにおける全般的な諸真理と交流することができないことを知らなくてはならない。媒介的なものは、このようなものとなるためには、内なるもののみでなく、外なるものの性質を多少なりと持っていなくてはならない。媒介的なものが存在しなくてはならない理由は、内なるものと外なるものとは相互に非常に明確に区別されており、ちょうど身体である人間の究極的な外なるものが、その霊であるかれの内なるものから、人間が死ぬと分離されるように、分離されることができるほどにも明確に区別されているということである。その媒介的なものが切断されると、外なるものは死に、媒介的なものが間に在るときは外なるものは生き、媒介的なものが間に在るに応じ、またその方法に従って外なるものは生きるのである。ヤコブの息子たちはベニヤミンがいなかったため、(すなわち、媒介的なものがなかったため)、それでヨセフはその兄弟たちに自分を明らかにすることはできなかったのであり、また同じ理由からかれらに聞きづらいことを語って、かれらをスパイと呼び、監禁したのである。
天界の秘義5543
ベニヤミンの表象は媒介的なものであり(5411、5413、5443、5539番)、『つれてくること』の意義は連結されることである。
天界の秘義5548
さらにヨセフもベニヤミンも内なるものを表象しているが、ヤコブの他の十人の息子たちは外なるものを表象しているのである(5469番を参照)。
天界の秘義5688
ベニヤミンがここに、かれらの『一番年の若い兄弟』と呼ばれ―実際かれはそうであったのであるが―すなわち、凡ての者の後に生まれた者、または出生では一番 年の若い者と呼ばれているのは、霊的な意味ではベニヤミンが表象している媒介的なものもそうしたものであるためである、なぜなら媒介的なものは、人間が霊的に生まれるときは、すなわち、かれが再生するときは、内なる人間的なものである合理的なものが先ず主によって再生し、その後かれの自然的なものが再生するからには、人間の中に凡てのものの最後に生まれるからである(3286、3288、3321、3493、4612番を参照)。媒介的なものはその両方のものにもあずかっているため―霊的なものになされた、または新しくされた合理的なものと、また自然的なものにもあずかっているため―またそれは自然的なものから、その自然的なものもまた新しくされないかぎり、何物もとることができないため、それで媒介的なものには後になるまでも生まれることはできないのであり、そして実際自然的なものが再生している度に従って生まれるのである。
3.新しい真理
天界の秘義5804[2]
人間が真理により善に来たときは、かれは『イスラエル』であるが、かれがそのとき善から、すなわち、主から善を通して受け入れる真理は新しい真理であり、それが父とともにいた間のベニヤミンにより表象されているのである。この真理により善は自然的なものの中に豊かに実を結ぶものとなり、善がその内に宿っている無数の諸真理を生み出すのである。このようにして自然的なものは再生し、豊かに実を結ぶことを通して先ず善い果実をもった木のようななり、継続的に庭園のようになるのである。この凡てから霊的な善から発した新しい真理により意味されていることが明白である。
天界の秘義5806
ここにベニヤミンにより表象されているところの、また前に(5804番を参照)記されているところの真理が教会の唯一の真理であることについては実情は以下のごとくである。この真理は、(『イスラエル』であるところの)霊的な善から発していて、父とともにいる時のベニヤミンにより表象されているところの、かの真理であるが、しかしそれはヨセフとともにいるときはさらに内的な真理である。ベニヤミンが父とともにいる時表象していて、新しい真理と呼ばれている真理は、人間を教会とする唯一のものである、なぜならこの真理の中に、またはこれらの真理の中に善から発している生命が在るからである。すなわち、善から信仰の諸真理の中にいる人間が、教会であるが、信仰の諸真理の中にはいるが、仁慈の善の中にはいない人間は教会ではないのである、なぜならこの人間における諸真理は、たとえ同じ信仰であっても死んでいるからである。このことからこれが教会の唯一の真理であることにより意味されていることを認めることができよう。
天界の秘義5807
「その父はかれを愛しています」。これは、それが自然的なものから発している霊的な善と連結していることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『愛』の意義は連結であり(そのことについては間もなく述べよう)、ここでは『かれを愛している』者であるイスラエルの表象は自然的なものから発している霊的な善であり(4286、4598番を参照)、『父が愛している』者であるベニヤミンの表象は(前の5804、5806番のように)新しい真理である。この真理がその善と連結していることが『かれの父がかれを愛していること』により意味されるものである。この真理はその善から発しているため、その真理との連結が存在しないはずはないのである。この真理と善との間には父と子との間の連結のようなものが在り、また心が欲することとその理解することの間の連結のような連結が在るのである、なぜなら善は凡て意志のものであり、真理は凡て理解のものであるからである。意志が善を欲するとき、この善は理解の中へ導入され、そこにその善の性質に応じて形を取り、この形が真理である。そして新しい真理はこのようにして生まれるため、連結が存在するにちがいないことは明白である。
天界の秘義5807[2]
愛が連結であることについては、それは二人の者の心の、または二人の者の思考と意志との連結であるため、霊的な連結であることを知らなくてはならない。このことから、愛は、それ自身において観察されるなら、純粋に霊的なものであり、その愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜であることが明白である。愛はその本質においては人間の心を構成しているいくたの形または原質における状態の変化と変動から生まれてくる和合(ハーモニー)である。この和合は、もしそれが天界的な形から発しているなら、天界的な愛である。それで愛は主から発している神的愛[神の愛]そのもの以外のいかような起原ももつことはできないし、かくて愛は、いくたの形に流れ入って、そのいくたの形をその形の状態の変化と変動とが天界の和合をもって存在するように処理する神的なものであることが明白である。
天界の秘義5807[3]
しかしそれに対立した愛は、すなわち、自己を、また世を求める愛は連結ではなくて、分離である。それらは実に連結のように見えはするが、しかしそれは各々の者が他方の者を、その二人が利得と名誉とを追求しているかぎり、またはかれらに反抗する者に復讐し、これを迫害しているかぎり、自分自身と一つのものとなっているものとして、認めているためである。それでその一方の者が他方の者にくみしないなら分離がおこるのである。天界的な愛はそれとは異なっていて、自己のために他に善を為すことを全く嫌忌し、他の者の中に在る善のために善を為し、これをかれは主からから受け入れるのであり、従ってその善が発生してくる源泉である主御自身のために善を為すのである。
天界の秘義5809
「かれをわたしのもとへ下らせなさい」。これはその新しい真理は内なる善に服従しなくてはならないことを意味していることは『下らせること』の意義から明白である、なぜなら連結するために内なるものへ来ることはそれに服従することであるからである、なぜなら連結が生まれるためには、下にあるものは、または外的なものであるものは凡て高いもの、または内的なものに従属し、または服従しなくてはならないからである、またここにかれらが下らせなくてはならない者であるベニヤミンの表象は新しい真理であり(そのことについては前の5804、5806番を参照)、かれが下ってそのもとへ行かねばならないヨセフの表象は、前に示したように、内なる善である。
天界の秘義5816[2]
ベニヤミンにより表象されている真理が『ヨセフ』である内なる善に服従しないかぎり、慈悲はなく、自然的なものにおける諸真理との連結もないことについては、実情は以下のようになっているのである。人間を教会とする真理は善から発した真理である、なぜなら人間は善の中にいると、そのときはかれは善から真理を見て、認識し、かくてそれが真理であることを信じはするが、もし善の中にいないなら、全くそのようなことは起らないのである。善は光を与え、照らし、人間に真理を見、認め、信じさせる小さな焔のようなものである。なぜなら善から発した真理の情愛[真理に対する情愛]は内なる感覚をその方へ決定づけ、その視覚を、暗黒を生み出す世と身体の物から引き出すからである。ここのベニヤミンが表象している真理はこのようなものである。これが教会の唯一の真理であることは、すなわち、それは人間を教会とする唯一の真理であることは前に見ることができよう(5808番)。しかしこの真理はヨセフにより表象されている内なる善に全く服従しなくてはならないのである、なぜなら主は内なる善を通して流れ入って、下に在る諸真理に生命を与えられ、かくてまたイスラエルにより表象されているところの、自然的なものから発した霊的な善から発しているこの真理にも生命を与えられるからである(4286、4598番を参照)。