新しいキリスト教

巻頭言篇

 

 

最初の2016年から直近の2018年分は

電子書籍に移行しました(2018年12月29日)。

 

 

 

2019年1月11日(金)

 

 

スウェーデンボルグ読者の一人として

それを伝えることが大切かと思います。

 

主はペトロに「私に羊を飼いなさい」(ヨハネ21・17)と

言われました。ペトロとは真理、教義、信仰のことです。

スウェーデンボルグは新しい教会の教義ですから

まさにペトロです。

 

ですからスウェーデンボルグ読者は教えなければならないのです。

 

もちろんまず自分が悔改め、再生して救われることが先決です。

だからとても難しいのです。

 

私も人に教えることなど到底出来ない人間です。

しかし、自分自身の証しをするならそれはそれで許されるかもしれません。

 

サンダー・シングは私は証しをするために来ましたと

欧州での講演で述べていました。

あの見神者サンダー・シングが、です。

 

もちろん証しをすると言っても

サンダー・シングと比ぶべくもありません。

 

 

最近、すみれさんという名の小学生の

女流棋士が登場しました。新聞のコラムにあったのですが

夏目漱石がすみれのような小さいものになりたいという俳句を

読んでいるそうです。

 

そう言えばマリア・ヴァルトルタ(ワルトルタ)も

自分はすみれであると書いていました。

 

自己愛で肥大し、世間愛にまみれた私が今から

小さく清楚なすみれになるのは不可能です。

 

それは一度高級娼婦に身を落としたマグダラのマリア

(マリア・ヴァルトルタの新しい福音による)が

終生処女のシスターになれないのと同じです。

 

しかし、私のハンドルネーム小さなヨハネは

主がマリア・ヴァルトルタを呼ばれる時の

愛称から拝借したものです。

 

私の洗礼名がヨハネ・マリアではありますが。

実はこれも恥ずかしながらジャン・マリ・ヴィアンネ

から拝借しました。

 

全く人の借り物ばかりです。看板に偽りありとはこのことです。

しかし私も小さい者になりたいと心は願っています。

 

これもマリア・ヴァルトルタの新しい福音に登場する

世捨て人のエンドルの老ヨハネのようなものです。

 

マグダラのマリアにしてもエンドルのヨハネにしても

素晴らしい主の使徒となりました。

 

私の目指すのは彼らです。

 

 

 

静思社/柳瀬芳意訳/イマヌエル・スエデンボルグ/

啓示による黙示録解説6

 

黙示録1・2「彼(ヨハネ)は神の聖言と

イエス・キリストの証を証しした。」

 

「ヨハネにより仁慈とその信仰から生命の善の中にいる

者たち凡てが意味されているため、それで霊的意義では

これら凡ての者が意味されている。聖言の霊的意義の中

にいる天使たちは、聖言に記されている人物の名は全く

知っておらず、ただその人物が表象し、そこから意味し

ているところのもののみしか知っていないのであり、

れはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為に

おける善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集

合体である。これらの者が『証する』のである。即ち、

聖言の諸真理を、特に主の人間的なものは神的なもので

あるというその聖言の真理を見、承認し、心から

光の中に受け入れ、告白するのである。」

 

 

 

 

 

2019年2月10日(日)

 

何とか簡単で分かりやすく実践しやすい

キリスト教をご提供したいと以前から考えています。

 

それは新しいキリスト教の考え方、

新しい理解の仕方の意味です。

 

また具体的な実践方法です。

 

 

キリスト教は正しい理解によって初めてキリスト教となります。

つまり間違った理解をしているならそれはキリスト教ではないのです。

 

 

ヤコブの息子ヨセフはエジプトの高官となりました。

彼に二人の息子が生まれ、一人がマナセ、一人がエフライムです。

霊的な意味はマナセは再生した者に与えられる新しい意志のことです。

エフライムは再生した者に与えられる新しい理解、理性のことです。

 

このエフライムという名は予言書にしばしば登場します。

 

例えば

 

ホセア13・12−13

 

「エフライムの咎はとどめておかれ

その罪は蓄えておかれる。

産みの苦しみが襲う。

彼は知恵のない子で

生まれるべき時なのに、胎から出て来ない。」

 

 

これはつまりなかなか正しい理解が

されない(生まれて来ない)という意味でしょう。

 

キリスト教がキリスト教となるためには正しい理解が必須なのです。

 

 

 

新しい宗派とか新しい組織を目指しているのでは

決してありません。

 

あえて言えば単なるキリスト教です。それは

初代教会、あるいは我が国キリシタン時代の教会

の信仰です。そこに個人的に回帰することです。

 

 

個人個人が新しい理解をしてキリスト教徒となり

霊的に救われれば良いと願うだけです。

 

それによって個人が救われ、家庭も社会も

国家も世界も良くなると思っているのです。

 

 

精神的な内なる礼拝だけでなく、

外なる礼拝、即ち、外形的な礼拝は必要であり、

有意義です。従って

どうしても教会組織は必要ですが、

それは従来の教会へ行かれれば十分です。

私は教会組織については従来の教会組織を尊重します。

 

 

私は日本人として我が国の寺社仏閣へも参拝します。

そこで祀られているのは主であることを

知っているからです。

 

なぜなら神は唯一の方だからです。

皆、自分たちが祈りを捧げているのが

主であることを知らないのです。

 

端的な例は弥勒菩薩(みろくぼさつ)です。

弥勒の語源はマイトレーヤであり

その語源はメシアだそうです。

つまり唯一の神であり救い主である

主イエス・キリストのことに他なりません。

 

天台宗や浄土宗、浄土真宗で礼拝する

阿弥陀如来(あみだにょらい)は

アミターユ、アミターバが語源で

無限の命、無限の光り(無量寿、無量光)の意味だそうです。

無限の愛と無限の知恵、真理です。

それは主イエス・キリストの名です。

 

紀元前の釈迦の頃には登場しておらず、

釈迦は神を信仰していたのではないのです。

 

それは釈迦の仏教とは全く別物です。

 

阿弥陀如来の名は紀元1世紀インドで登場したと聞きます。

その時もう12使徒の一人トマスであったか

あるいはその弟子たちか

インドで宣教していたでしょう。

 

主イエス・キリストの名が

阿弥陀如来の語源となっているのでしょう。

 

ですから、我が国で阿弥陀如来を信仰する

仏教宗派はたくさんあるでしょうが、

実はそれは仏教の衣を着たキリスト教なのです。

 

私たちが知らないだけです。

 

 

 

異教の神社仏閣へも参拝するのですから、

ましてキリスト教各派の教会が

主に祈っているのは明らかであり、尊重します。

彼らが主イエス・キリストが父なる神御本人

であることを知らないだけなのです。

 

新しいキリスト教は各宗教を尊重します。

それを破壊しようなどとは思いません。

 

ただ、真実はそういうことであって、主イエス・キリストが

唯一の神であり救い主であることをお伝えしたいと思います。

 

その方たちがそれに気づいて各宗教、各宗派の

儀式伝統に従って主を礼拝されればと思います。

しかし、それももちろん無理強いはしません。

 

 

私は全く新しい人に宣教します。

 

 

私は無教会主義というのを詳しく知りません。

しかし新しいキリスト教は無教会主義ではありません。

 

 

ちなみに私は新しい方には個人的には

カトリックをお薦めします。

 

他の教派でも構いません。

出来れば聖餐(聖体拝領)のあるところ

をお薦めします。

 

 

ただし、どの教会であっても、

すぐに教会へ行くのは決してお薦めしません。なぜなら

正確な真理を教えてくれる教会はどこにも無いからです。

いずれ出てくるでしょうが、残念ながら今はありません。

 

 

従って教会へ行って教わろうとしてもそれは無理です。

知らないものは教えられないからです。

誰も無い袖は振れません。

 

 

よく、キリスト教の勧誘に、お気軽に教会へ

お越しくださいという誘いがあるかと思います。

 

また、私たちもキリスト教について興味が湧いたら

教会へ行けば良いと思っています。

 

 

しかし、それは残念ながら全く誤りです。

それは主の次の御言葉の通りです。

 

 

ルカ6・39

「盲人が盲人の道案内をすることができようか。

二人とも穴に落ち込みはしないか。」

 

 

私が主のその御言葉を引用するのは

まことに僭越ですが、実際そう思います。

 

 

何故なら、真理を総合的に教えてくれる教会は無いからです。

 

例えば主イエス・キリストが唯一の父なる神

御自身であるなどと、どこの教会が教えてくれるでしょう?

 

スウェーデンボルグ派の新教会では教えてくれるでしょう。

しかし聖母マリアが人類の母であり、母なる教会、

新しいエルサレムその方であるなどと世界中で

どこの新教会が教えてくれるでしょう?

 

カトリックなら聖母を教えてくれるでしょう。

しかし、主が父なる神だとは教えてくれません。

 

 

 

信じるだけでは救われません、悔改めが必要ですなどと

どのキリスト教会が言っているでしょう。

 

 

悔改めとは主を仰ぎ、日常生活において十戒を

守ること、即ち、悪を避け、誠実に各人の職務を遂行すること

であるとどこの教会が教えているでしょう。

 

 

聖体拝領(聖餐)こそ教会の集いの中心であると

どこの教会が教えているでしょう。

             

 

教会へ行くのは自分で学んでよく理解できるようになってからです。

私自身教会へ行くまで6年間勉強しました。

 

スウェーデンボルグの本を通じて主を知ったのが

40歳の時です。それから5年間スウェーデンボルグを

勉強しました。聖母を発見するまでその後

1年かかりました。46歳で教会へ行き、

              洗礼を受けたのが47歳でした。         

 

まるで天地創造の7日間のようでした。

 

天地創造の話は物理的な宇宙創造の話ではありません。

スウェーデンボルグが『天界の秘義』で明らかにしていますが

それは人間の再生の物語です。

 

6日間は刻苦勉励のことです。

 

 

 

皆様は私のその47年間かかった理解の内容を

こうしてたった1日で聞けるのです。

 

インターネットのおかげで

何と便利な世の中になったことか!

 

 

数学が全く苦手な私は大学入試に失敗し、

1年間予備校に通いました。

予備校の先生方はまさに教えるプロでした。

本当に誠心誠意教えてくださいました。

 

おかげで私は数学の2次試験で5問中2問解答し、

何とか合格出来ました。それも一つは中学生の公式を使って。

 

それは予備校の先生が教えてくださったわけではありません。

私が一生懸命勉強したのできっと主と聖母が

憐れんでくださったのでしょう。

2年とも数学の1次試験は0点(!)だったのです。

 

アルスの司祭で有名なジャン・マリ・ヴィアンネ

(1786〜1859)のラテン語のようなものです。

 

マリア・ヴァルトルタ(ワルトルタ)の自叙伝の中で彼女が

母親に対して書く口癖ですが、まことに

「やれやれ」です。

 

 

私も予備校の諸先生に倣って、

皆様を天国へ送りたいと思います。

この世は天国への予備校です。

 

もちろん唯一の教師は主です(マタイ23・10)。

 

私は羊飼いである主の牧羊犬として。

私自身天国へ行けるかどうか分かりません。

 

しかし、主は悪党であろうと、誰であろうと天国へ招いて

くださっていることを知っています(ルカ23・43)。

 

私たち人類に天国の幸福を与えたくて主は私たちを創造されたのです。

 

主のお招きに与るかどうかは私たちの決意と

これからの行い次第です。

 

パウロの働きでたくさんの人が天国へ行ったでしょう。

しかし、彼自身は己の自己愛が抜けきらなかったようで

地獄へ行ったとスウェーデンボルグは

非公刊の『霊界日記』に書いています・・・。

 

それが現実なのです。

主のお力が弱かったのではありません。

本人自身の選択です。

 

まず、学んで、決意すること、それから主の教えに

従って実践することです。

それは悔改めを一生かけて実践することです。

 

 

 

さて、学ぶ方法は聖書と新しい啓示書を読むことです。

 

 

教会へ行くのも実は聖餐(聖体拝領)のためです。

主とより強く結ばれるためです。

聖体拝領(聖餐)を通じて私たちは主を見上げ

悔改めの実践に取り組むことが出来るのです。

 

 

それも自ら学ばなければ誰も教えてくれません。

 

 

 

アモス8・11−13

「見よ、その日が来ればと

主なる神は言われる。

わたしは大地に飢えを送る。

それはパンに飢えることでもなく

水に渇くことでもなく

主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

人々は海から海へと巡り

北から東へとよろめき歩いて

主の言葉を探し求めるが

見いだすことはできない。

その日には、美しいおとめも力強い若者も

渇きのために気を失う。」

 

 

 

エレミア14・3

「貴族は水を求めて、召し使いを送る。

彼らが貯水池に来ても、水がないので

空の水がめを持ち

うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。」

 

 

 

教会で真理を学ぼうとしても無いのです。

 

 

 

人とのつながりを求めて教会へ行っても

人に躓くだけであろうと思います。

 

そもそも教会とは再生した個人のことです。

人間は再生しなければ霊的なものとはなり得ず、

霊的な物事は理解すら出来ないのです。

 

再生した個人が集まったところが本来の意味の教会です。

 

個人が再生していなければ、キリスト教会の看板を掲げて

いくらたくさん人が集まっていても、それは教会ではありません。

 

 

教会へ行って誤ったことを教わるくらいなら

行かない方がいいでしょう。

 

皆さんはまだ再生していませんから

無知の塊です。

 

 

そんな状態で教会へ行ったり、

宗教学者や宗教評論家の本を読んだりするのは

樹海に入り込むようなものです。

 

樹海には善良な人間で彷徨っている人もいるでしょうが、

「知識の木の蛇」もいるでしょう。

神殿で商売する商人もいるでしょう。

 

樹海の学者を尋ね歩いていては時間がかかるばかりで

樹海から抜け出すことが出来ません。

 

識別力が働かないうちはスウェーデンボルグ

という安全な道を踏み外さないことです。

 

識別力が付けば、もうそんなものに

見向きもしなくなるでしょう。

 

とにかく自分で勉強して信仰を確立してからです。

 

そうすれば人に躓くなどという己の無知から

生ずる初歩的なミスは犯さなくなります。

 

 

無知と言われて怒らないでください。

無知な方が良いのです。

 

なまじキリスト教をかじるのはお薦めしません。

 

教養のためにキリスト教を学ぶなどというのは

そもそも動機が不純です。

 

宗教は教養のためのものではありません。

学問の研究対象でもないし、

学者を糊塗させるためのものでもありません。

 

実践してこの世と来世で幸福になるための方法です。

 

 

むしろ無知で善良な方がはるかに良いでしょう。

しかし、真理を求める心(情愛)が必要です。

 

真理を求める心があれば主は必ず導いてくださるでしょう。

真理を求める心そのものが主から与えられた賜物なのです。

 

真理を求める情愛は真理を理解する情愛をもたらすでしょう。

それは真理を認識させるでしょう。

 

そうすれば真偽を判断できます。

 

それは誰にも主はお与えになるのですが

当人が拒むのです。

 

 

太陽は誰にでも照りますが、

本人が縁の下にもぐってしまうのです。

 

そうです。引きこもってゲームばかりしていてはいけません。

いえ、それはTVゲームだけではありません。

 

社会的な活躍や成功も、自分の名誉や利益ばかりを

追求するならゲームと同じです。

 

それは自己への愛と世への愛と言います。

その二つが私たちの心の中に地獄を作ります。

 

私たちは皆自分で作った地獄の中で日々暮らしているのです。

 

どんなに社会で活躍し成功しても、行く手に

地獄が口を開けて待っています。

 

 

人の役に立ちたいという善い目的から、

悪いことは神の前に罪として避け、誠実に行うなら別です。

 

逆にそうするならどんなにささやかな仕事でも良いのです。

目立たない日常の仕事でも、家事だけでも

人や家族を思ってするならそれは主をお喜ばせするでしょう。

 

それが神を愛し、隣人を愛すことです。

神への愛と隣人への愛が私たちの心の中に天国を作ります。

 

私たちは自分の作った天国か地獄へ死後入って行くのです。

そこには自分と同じような人たちがいます。

そこで永遠に暮らすのです。

 

人を愛す人ばかり集まったらそこは天国ですし、

エゴイストばかりなら地獄です。

 

 

死んだらもう後戻りは出来ません。

天使(善霊)になるか悪魔(悪霊)になるか

この世で決まるのです。

 

 

 

とにかく太陽のもとに出なければなりません。

自分の心を自己愛と世間愛という欲念の暗闇に

閉じ込めていては太陽の光りは入って来れません。

 

主は私たちの戸口で戸を叩いておられます(黙示録3・20)。

己の欲念に気づいて、これはまずいと

思うなら主は入ってきてくださるでしょう。

 

主は灯火(ともしび)を点(とも)してくださるでしょう。

 

 

 

 

さて、要は個人個人の頭の中の理解の問題です。

 

 

新しいキリスト教の骨子は

 

 

1.主イエス・キリストは父なる神御自身であること

 

 

2.信じるだけで救われることはなく、悔改めて主の戒めを行うこと

 

 

この二つです。

 

 

更に私たちを支えてくれる聖母と聖体拝領(聖餐)

があります。

 

 

3.聖母は私たちの母であり、母なる教会その方であること

 

 

4.聖体拝領(聖餐)は最も聖い礼拝であり

教会の集いの中心であること

 

 

 

信じられないことを信じ込めという意味ではありません。

私たちは理解、認識できるようになって初めて信じることが可能です。

 

それには学んで実践して悔改める必要があります。悔改めて

再生しない限り、理解することも信じることもできないでしょう。

 

 

無限ループのようなことを申し上げていますが

実践してみるしかありません。

 

 

聞く耳のある方は聞くでしょう。

人間にはその真偽を聞き分ける直感があるのです。

合理性とも言います。

 

 

そして主に願えば主は力を授けてくださるでしょう。

また聖母におすがりすれば聖母は支えてくださるでしょう。

 

また私たちそれぞれにとって一番良い方法で

優しくも厳しく導いてくださるでしょう。

 

私たちが従うかどうかです。

 

 

これが新しいキリスト教の考え方の骨子です。

 

 

 

 

なお、自学自習のための教材(?)は

 

まず聖書、特に新約聖書の四福音書です。

 

主が父御本人であることを頭に叩き込んで福音書を

読めば、なるほどそうか(!)と理解できるでしょう。

特にヨハネによる福音書を読むとそれを感じるでしょう。

 

それだけで長足の進歩です。

主が神御自身であることを理解出来ただけで

樹海を抜け一気に5合目の展望台に到達します。

 

世間はそこまで到達していません。

すべての学者も樹海の中です。

 

 

 

旧約聖書の十戒の教えは神を愛し、隣人を自分

のように愛せという主の御言葉(マタイ22・34−40他)

に集約されています。

 

主の祈り(マタイ6・9−13、ルカ11・2−4)

に人を赦さなければ自分も赦され

ないことなどが集約されています。

 

 

 

それと新しい啓示書です。

新しい啓示書を聖書と併せて読まなければ

聖書の意味は分かりません。

 

 

私がお薦めするのは具体的には

 

スウェーデンボルグ全般、

トマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』、

マリア・ヴァルトルタ『私に啓示された福音』

 

です。

 

他にも新しい啓示書はたくさんありますが

最低限その三つです。

 

 

スウェーデンボルグは膨大ですから

『天界と地獄』、『真の基督教』から

始められ、あとは興味にまかせて

読まれればよいと思います。

 

 

勉強嫌いの私が申し上げるのも変ですが

とにかくご自分で学ぶことです。

 

主は福音書や新しい啓示書を通して

直接皆様に教えてくださるでしょう。

 

主こそ唯一の教師なのです。

 

 

 

私は皆様を刺激しているだけです。

 

自動車のセルモーターのようなものです。

あるいはオートバイのエンジンをキックするようなものです。

今はオートバイもセルモーターでしょうが。

 

始動したら、主から油をいただいて皆様ご自身が

回転し始めるでしょう。

 

そうすれば私の言っていることなど無視していただいて結構です。

きっと私などよりはるかに馬力もあるでしょう。

ポンコツの私などあっという間に置いていかれるでしょう。

 

 

その時皆様は町の人々がサマリアの女に言ったように言うでしょう。

 

 

ヨハネ4・41−42

 

「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。

彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、

もうあなたが話してくれたからではない。

わたしたちは自分で聞いて、

この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」

 

 

主を見出すことです。

そして聖母も。

 

 

 

少なくとも上に挙げた三つの本を読まれることです。

くれぐれも宗教学者や宗教評論家の本など読まれませんように。

 

彼らは神である主について、人間について何も知らないのです。

 

人間の想像で書いたものなど当てになりません。

哲学も心理学もそうです。

 

 

 

 

キリスト教について論ずる宗教学者や宗教評論家や

知識人の方がたに申し上げます。

 

皆様はご自分の考えが当てにならないことを

よくご存知だと思います。

 

当てずっぽうで人を惑わしませんように。

 

 

 

皆様も上に挙げた見神者による啓示書をお読みなさい。

 

啓示書を通して主から学ぶことです。

 

憶測では分からなかったことが啓示によって書かれています。

 

それらを読まずにキリスト教を語ることなどナンセンスです。

 

 

見神者たちはそれらを読んでいないのではと言われるなら、

こう申し上げましょう。

 

彼らは主から直接啓示されて主から書いているのです。

 

何を読んでいようといまいと関係ありません。

 

 

しかし、皆様も私たちも違います。

見神者(預言者)たちのように特別なカリスマ(霊的な賜物)を

いただいているわけではありません。

 

ですから私たちは皆啓示書(もちろん聖書も含む)

から学ばねばならないのです。

主は私たちのために見神者(預言者)たちに御言葉を託されたのです。

 

 

いつまでも出鱈目な御託を並べるなら主は

あなたがたを神殿から追い払われるでしょう。

             

主は私のように人間的にも学問的にも

恥ずかしい無知な役立たずも

鞭や箕(み)としてお使いになるでしょう。

 

私が直接何か出来るのでありません。

他の人たちが学んで新しい知識を得るようになると

当然選別が行われるという意味です。

 

 

どうかそうならないよう

皆様も新しい啓示書で学ばれますように。

 

少なくともそれらを読んでから論評

されますように。

 

そうしないと次の世代の人たちから

古臭いと相手にされなくなるでしょう

 

それは天動説が地動説に変わるようなものです。

時代の変化が来ています。

 

 

皆様を批判するばかりで行いの伴わない私も

 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」

(マタイ7・1)

 

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」

(同7・5)

 

「あなたたちのことは全然知らない。

不法を働く者ども、

私から離れ去れ」(同7・23)

 

 

と言われないよう

自戒したいと思います。

 

 

 

 

 

2019年2月28日(木)

 

 

平成最後の年を迎えました。

新しい日本は何を目指せば良いのでしょう。

 

敗戦から70年が経過し、我が国は経済的に大きく発展しました。

 

そして今世界情勢の変化により日本は覚醒し、

「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」

WGIP)と呼ばれるくびきがはずれようとしています。

 

日本はこれから独立した普通の国となるでしょう。

いえ、それどころか混迷した世界を霊的に(精神的に)

リードする国になるでしょう。

 

またそうならなければなりません。

それは日本に与えられた使命であり

義務であると思います。

 

幸い皇室制という世界に稀に見る貴重な

国体は護持されました。

 

それは神である主への信仰の象徴です。

 

当然軍備も必要です。そのために

現在の不備な憲法を改正しなければなりません。

 

それらは国家の大切な器であり身体です。

その仕事は国にお任せしたいと思います。

 

しかし、国を国たらしめるのに必要なのは外形的な

器や身体だけではなく、中身であり霊魂です。

 

戦後その精神的支柱が破壊され、失ってしまいました。

他人のせいにする訳ではありません。自ら招いた災厄です。

 

経済的発展はそれはそれで大切なことです。

しかし経済発展の追求だけでは精神的支柱を取り戻すことは出来ません。

 

 

 

目標を失った若者がたくさんいます。

死ぬのを怖がっている大人もたくさんいます。

 

倫理道徳も荒廃しています。

目や耳を疑うような殺人、詐欺も横行するようになりました。

 

何のために生きているのか分からないまま

どうせ死ぬならこの世の快楽を追求すればよいと皆生きています。

 

それは私たちが神に対する信仰を失ってしまったからに他なりません。

神に対する信仰がなければ

私たちは生きる目的、目標

指針、希望を得ることは不可能です。

 

私たちは神を棄て、己の欲望のままに生きています。

自己愛と世間愛に信仰が席を譲ってしまったのです。

 

 

哲学や心理学に答えは出せません。

 

霊的なものを教えるのは本来宗教の役割です。

しかし、宗教もそれが出来ません。

 

宗教も神を理解しなくなってしまったからだと

私は思います。

 

 

一体何をもってそれを教えたらよいのでしょう。

 

教育勅語でしょうか。

 

私は教育勅語を知りません。

それもいいかもしれません。

 

しかし、もっと新しいもっと本質的なものを考えたいと思います。

 

私の考えるそれは、新しいキリスト教です。

 

 

 

これは現在のキリスト教とは全く似而非(にてひ)なるものです。

 

現在のキリスト教はもう神を知らないからです。

 

私の考える新しいキリスト教とは次のような内容です。

 

 

 

1.主イエス・キリストは唯一の父なる神御本人であること

 

 

2.信ずるだけでは救われず、十戒に基づく悔改めと行いが必要であること

 

 

3.聖書と新しい啓示書を通して主から直接学ぶこと

 

 

 

4.聖母マリアは神(主イエス・キリスト)の母であると同時に

私たち人類すべての母であり母なる教会であること

 

黙示録21章の天から降って来る新しいエルサレムとは

聖母を意味していること

聖母は究極の教会(新しいエルサレム)を

表象される方であること

 

聖母こそ分裂した全キリスト教会を一致させてくださること

また分裂した人類すべてを一致させてくださる方であること

 

 

 

5.外なる礼拝(外形的な礼拝)は必要であり、

聖体拝領(聖餐)は最も聖い礼拝、

教会の集いの中心であること

 

新しいキリスト教に新しい組織は不要であり、

各人は従来の教会に集えば良いこと

 

 

以上です。

 

 

 

この教会は十戒に基づくものです。

 

これは人類すべての規範です。

 

主が神を愛し、隣人を自分のように愛せと

仰った御言葉(マタイ22・37−40)を

具体的に説明したものです。

 

 

これこそ私たち自身を救い守ってくれるものです。

この世でも来世でも通じる最高の方法です。

 

どんな民族、どんな国際紛争にも通用する武器です。

 

これを我が国の精神的支柱とするのです。

 

 

これは武士道をも教育勅語をも上回るものです。なぜなら

神その方からの明確な教えだからです。

武士道や教育勅語、凡ゆる宗教、倫理道徳の元です。

なぜなら万物の創造主・神は唯一だからです。

 

その神とは主イエス・キリストであったと認識する宗教です。

 

そして父なる主だけでなく母なる聖母もおられる

完全無比なキリスト教です。

キリスト教の完成形です。

 

これは初代教会、キリシタン時代の教会にあった

ものと思われます。

 

現在見られる西方系キリスト教にはありません。

 

初代教会、キリシタン時代の教会への回帰であり

復興です。

 

しかし、厳密に言うと、初代教会、キリシタン時代の

教会にはスウェーデンボルグの教義はありませんでした。

 

マリア・ヴァルトルタの新しい福音もありませんでした。

 

今やその他たくさんの啓示書が与えられています。

 

その意味でこれは全く新しいキリスト教です。

 

過去にこれほど明確で豊かなキリスト教はなかったでしょう。

 

 

これは純粋なキリスト教です。

 

これによって現在のキリスト教がもう実質的に

キリスト教でないことが明らかになるでしょう。

 

それが言い過ぎなら、現在のキリスト教は酸素不足、

低栄養、貧血で殆ど死にそうな状態だと申しましょう。

 

あるいはスキャンダルという癌に犯されている状態です。

 

現在のキリスト教は人々に十分な酸素も栄養も与える

ことが出来ません。

 

新しいキリスト教は最初は異端と言われるかもしれません。

しかし、全く逆です。

これが究極の本当のキリスト教です。

 

 

天動説が地動説になる時のようです。

 

 

これはまだ世間に知られていません。

日本はおろか、恐らく世界でも。

 

これは日本オリジナルのキリスト教です。

 

メイド・イン・ジャパンのキリスト教です。

 

素材はすべてキリスト教国(教徒)に与えられた啓示書です。

 

スウェーデンボルグ、サンダー・シング、

トマス・ア・ケンピス、マリア・ヴァルトルタ、

ヴァッスーラ、アグレダのマリア、『聖母から司祭へ』、

聖母のご出現、等々、等々。

 

 

キリスト教国でそれらを統合することは出来ませんでした。

未だに啓示そのものが受け入れられていないものがあります。

 

 

スウェーデンボルグは主イエス・キリストを父なる神御自身

であると宣言し、英米の一部で受け入れられました。

日本でも。スウェーデンボルグ派、新教会などと呼ばれます。

 

しかし、その教会で聖母は受け入れられませんでした。

 

母のいない父だけのキリスト教です。

 

しかし、この新しいキリスト教は父と母が揃っているのです。

 

世界中で今まで誰がスウェーデンボルグと聖母をブレンドしたでしょう!

 

 

 

黙示録21章に花嫁の姿をして天から降って来る

新しいエルサレムとはこのことです。

 

それはまた聖母マリアでもあります。

聖母は新しいエルサレム(新しい教会)を

表象されているのです。

 

 

聖母は神(神御自身である主イエス・キリスト)の母であり、

私たち人類の母です。主は私たちに母を賜ったのです。

 

主が十字架上から使徒ヨハネにあなたの母であると仰った

御言葉(ヨハネ19・27)はその意味です。

 

母なる教会とは聖母のことです。

 

私たちには父なる主もおられれば、母なる聖母もおられるのです。

みなしごではないのです。

 

あなたがたをみなしごにはしておかない(ヨハネ14・18)

と仰った主の御言葉は真実だったのです。

 

何とありがたいこと!

 

これほど私たちの心を満たしてくれるキリスト教はありません。

 

 

 

皆様はちっとも驚かれないかもしれませんが、実に

これは画期的な(!)キリスト教です。

 

 

我が国の御木本幸吉翁が世界で初めて

養殖真珠を発明したことを思い出してください。

 

あの発明家エジソンも驚いたそうです。

 

フランスでは宝飾業者から御木本幸吉の真珠は

インチキであると訴えられました。

しかし、まぎれもない真珠であることが

認められ彼は勝訴したのです。

 

 

何を言っているのか理解されないかもしれません。

 

現在のキリスト教を本当のキリスト教であると

思っている学者や知識人の人たちには理解できないでしょう。

 

彼らがキリスト教と考えているものがそれは

違うと言われたら、当惑するでしょう。

 

鳩が豆鉄砲をくらったように。

 

あるいはフクロウが昼間の太陽のもとに

引き出されたように。

 

とんでもない商売敵が現れたと怒り出すかもしれません。

神殿から追い出すのかと(ヨハネ2・13−17他)。

あるいは無視されるだけかもしれません。

 

これは主がマタイ24章で世の終わりについて

予言されていますが、そのことです。

 

古いキリスト教が終わり

新しいキリスト教が起こることを主は仰っているのです。

 

黙示録全般もそのことを告げています。

 

 

ですから新しいキリスト教と申し上げているのは

そういう意味です。

 

現行のキリスト教と同じものと誤解されませんように。

 

あるいは少し前のキリスト教と。

 

異邦人を征服し、奴隷売買をしていたキリスト教

は本来キリスト教などではありません。

 

キリスト教と称していただけです。

 

キリシタン時代の信仰への回帰と言っても、一部の

宣教師自体は日本の植民地化を目指していたのかもしれません。

秀吉が彼らを追放したのはその意図を彼が感じ取ったのでしょう。

それも当然と言えば当然です。

 

キリシタンが寺社仏閣を破壊したこともあったようですが、

それもとんでもないことです。

そんなことをしてはいけません。

 

理由は詳しく分かりませんが、スウェーデンボルグは

ザビエルが地獄にいることを報告しています

(真の基督教824、霊界日記4570小)

 

私がキリシタン時代のキリスト教を初代教会と並んで

手本とするのは、主を神御自身と認め、

聖母を我らの母として敬慕して

いたであろうからです。

 

その素朴で優れた認識を持った信仰に対して敬意を表すのです。

 

 

しかし、過去ばかり見ていても過去は玉石混交です。

間違ったものを研究しても意味ありません。

 

信仰義認説や刑罰代償説を学んでもそれらは間違いです。

 

歴史学者も宗教学者も過去を見ます。

しかし、これからどうするかについて解答は

持ち合わせていません。

 

それは神が与えてくださるのです。

 

 

川下へ降るのではなく、

神のおられる川上を目指して流れを遡ることです。

 

ウナギやナマズになるのではなく、

鮭のように。

 

ヨハネ3・27

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」

 

 

教会は異邦人の許に移されることも福音書で

主が述べられています。

 

主が仰っていることが今まさに実現するのです。

 

これからは日本人がキリスト教の真髄を教える時代が来るでしょう。

キリスト教国にもそうでない国にも。

 

日本が養殖真珠を作る方法を世界に教えたように。

 

 

私は昔、宝石商になりたいと思いました。

だからと言って何をしたわけでもありませんが。

 

社会人になって3年ほどして

大阪に転勤し、伊勢の御木本真珠島を2度訪ねました。

 

御木本幸吉翁に興味がありました。

 

しかし、主は今私に霊的にそのような仕事を与えてくださいました。

霊的な真珠作りです。

 

これは残念ながら(!)お金に無縁であり、

教祖となって組織を支配するわけでもありません。

 

各人の心の中の変化を目指しているからです。

新しいキリスト教という組織も不要です。

 

教会組織そのものは必要ですが、

それは従来の教会で十分です。

 

各人が通える教会へ行けばよいのです。

 

ただし、個人で勉強して信仰を確立してから行かれることです。

すぐに教会へ行ってはなりません。

 

そうでないと、教会は真理を教えてくれるわけでは

ありませんし、人に躓くだけでしょう。

 

 

新たにクリスチャンになる方にはカトリックを

お薦めしますが、聖餐がある教会ならいいでしょう。

 

なぜなら教会の集いの中心は聖体拝領(聖餐)だからです。

ですから表面的にはこれまでと何ら変化はありません。

 

理解する内容、信じる内容が従来と異なるのです。

 

従来の3神論ではなく、主イエス・キリスト1神論です。

 

 

 

こうして新しいキリスト教をお伝え出来ることほど

嬉しいことはありません。

 

インターネットの発達がなければ無理だったでしょう。

 

 

 

このHPはさしずめ小さな蜂の巣です。

 

主は慈悲深くも私を働き蜂の1匹にしてくださり、

私は色々な啓示書から花粉や蜜を集めて

巣に運びます。

 

 

元祖小さなヨハネのマリア・ヴァルトルタは

主から、あなたは皆のための貯水槽だ

と言われました(/)。

 

 

食べるか食べないか、飲むか飲まないかは

皆様のご自由です。

 

それは皆様の合理性(理性)と自主性(自由意志)

に任されています。

 

合理性と自主性は主から皆様へ与えられた

かけがいのないタラントです。

 

たくさんの人が食べて飲み、成長して、

たくさんの働き蜂となりますように。

 

しかしまだ巣が充分出来ていません。

外壁は隙間だらけで中身は全くこれからです。

まだ設計図のようなものです。

 

永遠に完成しません。

 

 

働き手はまだ少ないのです。

主が働き手を送ってくださいますように(ルカ10・1−2)。

 

一人ひとりのやれることには限りがありますが、

ウンカのように結集すれば大きな力となるでしょう。

 

クラウド・コンピュータのように。

 

 

 

それはグリニョン・ド・モンフォール(1673〜1716)の

次の言葉通りです。

 

私よりふさわしい皆様に期待しております。

 

 

愛心館/山下房三郎訳/『聖母マリアへのまことの信心』/114

 

「わたしは、こんなことを予測しているのです。すなわち、この小さな本と、それを

書くため聖霊がお使いになった人(=著者)を、悪魔的な歯でかみ砕き、八ッ裂きに

しようと、多くの敵どもが、怒り狂う野じゅうのように、襲いかかってくるでしょう。

すくなくともかれらは、この本を出版させないために、どこかの倉庫の片すみに、

やみと沈黙とホコリの中に埋没させるでしょう。そればかりでなく、この本を

読んで、まことの信心を実行する人々に対してさえも、迫害の手をのべるでしょう。

かまうもんですか。いや、それで結構。こうした展望は、わたしを大いにはげまし、

大成功まちがいなし、との希望さえ与えてくれるのです。つまり、まもなく

急テンポでやってくる宇宙ぐるみの超非常事態に際会して、イエズスとマリアの

大軍団が、しかも忠勇無双の男女両兵士の大軍団が、世界のずい処に旗あげをし、

世俗に対して、悪魔に対して、腐敗した人間性に対して、血みどろの戦いをいどみ、

最後には勝利をおさめるのです。“読者は、よく読み取るように”(マタイ24・15)

“それができる者は、それを受け入れなさい”(マタイ19・12)」

 

以上

 

 

 

 

2019年3月27日(木)

 

 

現代のキリスト教が最も認めたくないのは

スウェーデンボルグの教義と聖母でしょう。

 

それは端的に言えば、父なる主、母なる聖母ということです。

 

スウェーデンボルグは主イエス・キリストは

父なる神御自身であることを教えています。

 

聖母は世界各地でのご出現や啓示を通して

御自身が人類すべての母であることを

教えておられます。

 

純朴な信徒は潜在的にそれを認めたいと願っているでしょう。

そのことを知ったらどれほど喜びに溢れるでしょう。

 

いえ、非クリスチャンでもそのことを知ったら

雪崩を打ってキリスト教に改宗するでしょう。

 

しかし、現代のキリスト教教役者はそれを認めないし、教えません。

 

それは恐らく潜在的に自分たちの地位がおびやかされるからでしょう。

 

 

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムのような

その呪縛を解く必要があります。

 

そうすればキリスト教は広まるでしょう。

 

 

もちろん純真善良な教役者はたくさんおられます。

しかし、彼らもそのように教わっていないのです。

 

長い間、龍が支配していたのです。

 

黙示録の龍とはスウェーデンボルグによると

信仰のみによる義認を信奉する者たちのことです。

特にそれを奉ずる教役者たちでしょう。

あるいは仁慈から分離した信仰のことです。

 

彼らは霊界で集まると、遠くから見ると

全体が龍のように見えるのだそうです。

 

 

赤い龍

 

 

しかし、純朴な信徒や教役者だって、

理性が与えられているのですから

知ろうとすれば分かった筈です。

 

ですから、完全に責任が無いというわけではありません。

自分を棚に上げて彼らを責めるつもりはありませんが

やはり私たちは皆悔改める必要があるのです。

 

 

だからこそ主は黙示録の冒頭で方々の教会に

悔改めよと言われたのでしょう。

 

教会とは厳密には再生した個人のことを意味します。

 

 

 

スウェーデンボルグの教義と聖母は現代版の踏み絵です。

 

スウェーデンボルグの教義とは

主イエス・キリストは父なる神御自身であり、

私たちは主を信じ、悔改めて悪を罪として避けなければ滅びるという

ことです。天界と地獄があることも含みます。

 

 

現代のキリスト教は並列的○=○=○な三位一体論ですから

主を父なる神御自身であるとは認めません。

 

しかし神は唯一であり、それは重層的(◎)な三位一体です。

 

そのことを指摘するスウェーデンボルグは古い教会から

無視され、踏みにじられている状況です。

 

 

一方スウェーデンボルグの教義を信奉する教派もあります。

英米に発しスウェーデンボルグ派とか新教会と呼ばれます。

 

彼らは黙示録に登場する新しいエルサレムは新しい教会の意味であり、

自分たちはその新しい教会を目指していると言います。

 

 

彼らは主が父なる神であることは認めますが、聖母を認めません。

 

しかし実は聖母こそ彼らの目指している新しいエルサレムその方です。

 

主が十字架上からヨハネに、あなたの母であると仰って

賜った聖母は教会を意味しています。

 

ヨハネは仁慈の業です。それは私たちの目指すべきものです。

 

目指すべきものを象徴するヨハネに賜った教会が

教会の目指すべき新しいエルサレムでなくて一体何でしょう?

 

つまり聖母こそ新しいエルサレムなのです。

 

彼らはそのことに気づきません。

あるいは気づこうとしません。

 

啓示書やご出現を通して

今来られている聖母を拒絶します。

 

新しいエルサレムその方である聖母を

否定するのです。

 

それでは旧約聖書を信奉すると言いながら、

この世に降られた唯一の父なる神・主を拒絶し、

十字架につけたユダヤ民族と同じになってしまいます。

 

無視することは黙殺と言って、殺すことと同じです。

主が殺されたのは無視されることの象徴です。

 

 

新教会発足時は聖母に関する啓示はあまりなかったと思われます。

 

 

スウェーデンボルグが亡くなったのは1772年であり、

新教会が英国で発足したのは1788年前後です。

 

聖母がフランスのルルドでベルナデッタにご出現されたのは

1858年です。ポルトガルのファチマで3人の少年・少女にご出現されたのは

1917年です。新教会が発足してだいぶ後のことです。

 

聖母のご出現

 

聖母がパリのカタリナ・ラブレにご出現し、

不思議のメダイを作れと仰ったのは1830年です。

フランスのラ・サレットでのご出現は1846年です。

 

なるほどこれでは仕方ありません。

 

しかし、それ以前にも聖母のご出現や啓示はあります。

 

メキシコのグアダルペにご出現されたのは1531年です。

 

アグレダのマリアが『神の都市』を書いたのは1637年であり、

中断していたようですが、再度書き始めたのが1655年です。

 

私は勉強不足であまり知りません。

しかしきっともっとあるでしょう。

 

 

現在はすでにこれだけ聖母について新しい啓示が

豊富に与えられています。

 

ですから、以前は聖母が新しいエルサレムであることに

気づかなかったとしても、またそれを教えられなかったとしても

新しい啓示を手にとって見なければなりません。

 

 

人がスウェーデンボルグを読まないことを嘆くなら

自分たちも聖母に関する啓示を読まなければなりません。

読まないのはただの怠慢です。

 

 

また教会の分裂が悪であることは知っているはずです。

肝心のスウェーデンボルグ自身

ルター派にとどまったではないですか。

 

主が教会の分裂をどうして喜ばれるでしょう?

 

新教会創設時、ジョン・クルーズ牧師は英国国教会にとどまった

ことも新教会の皆様はご存知でしょう。

 

彼は若者たちがロンドンで新教会を発足させようとした時

遠路はるばる馬車に乗って引き止めに来ました。

 

彼は「神的人間性」という言葉が光って見えたと言います。

彼には主の霊が働いていたのでしょう。

 

 

純朴な新教会の信徒、教役者もたくさんいらっしゃるでしょう。

 

聖母が新しいエルサレムであることなど

教わっていないのですから仕方ないですが、

今は知ろうと思えば知ることは出来るのです。

 

 

エホバの証人の人たちは他の啓示

を読むのは禁止されていると書いているのを

見かけたことがあります。

 

今度、駅前に立っている彼らに確認してみようかと思います。

(聞いてみましたが、明確な答えは得られませんでした。

禁じてはいないが読まないとのこと。)

 

カトリックは最近まで聖書さえ読むことを禁止していたそうです。

 

聖書や啓示書を読まないで一体どうやって学ぶのでしょう?

 

説教が無意味とは言いませんが、残念ながら

あまり霊的でない場合が多いのです。

 

同様に新教会の人たちも聖書とスウェーデンボルグだけで

いいのでしょうか?

 

スウェーデンボルグ以外の啓示もたくさんあるのに、

どうしてそれらを読まないのでしょう。

 

スウェーデンボルグは天界で天使たちが

霊たちにこう言っているのを聞いています。

 

霊界日記4775

「あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]

教義をまさに受けようとされており、また、

主から新しい聖書を受けられるでしょう」

 

汚れのない教義がスウェーデンボルグの教義だとすれば

他に新しい聖書が与えられるのです。

 

マリア・ヴァルトルタ『私に啓示された福音』を読めば

これこそ新しい福音であり、新しい聖書であることが分かるでしょう。

 

 

またヴァッスーラを読めば主が教会の分裂を

望んでおられないことは明らかです。

 

分裂した教会組織を一つにしなさいと主は仰っていません。

心で一致しなさいということです。

 

それは新教会の人はよくご存知です。

スウェーデンボルグは仁慈(愛)で一致すれば、

教義の違いがあってもそこから新しいキリスト教(会)が

誕生するとたびたび述べています。

組織はそのままで良いのです。

 

それは私も知っています。

 

ですから、すでに現在新教会に属している方は

精神的な一致で良いと思います。

善意でそうされたのですから。

 

 

しかし、これからのスウェーデンボルグ読者には、

もしクリスチャンになろうとするなら

一致を体現するうえでどうせなら

カトリックに集結したら

どうでしょうかと私は敢えて提案します。

 

 

主を神御自身と認めない現代のカトリックが正しいとは言いません。

しかし、分裂を推進する積極的な理由もないと思うからです。

 

そして自ら進んで一致の範を世界に示すためです。

 

そういう人が増えたらカトリック全体も変わります。

 

非クリスチャンである99%の日本人の一部が

主を父、聖母を母と信じて加われば。

 

初代教会も我が国キリシタン時代の教会も

主を父、聖母を母と信じていたと思います。

 

その時代の無垢な信仰に戻るのです。

 

 

スウェーデンボルグはこれからは何々派と

呼ばれてはならないと言います。ただの基督教会であると。

それは組織のことを指しているのではないと思われますが、

いっそ外形的にもそうしたらどうでしょうか。

 

これからクリスチャンになる人には

分裂したプロテスタントや新教会に

これから入信してそこにとどまる

理由もしがらみもありません。

日本人は99%が非クリスチャンなのですから。

 

これから分裂した諸派へ行くこと自体

分裂を推進することであり、

それは不断の分裂なのです。

 

教会は主の体であり、分裂することは

主の体を引き裂くことです。

主がそれを喜ばれるでしょうか?

 

主はヴァッスーラに

「どうして分裂しているかを説明しなさい」

と仰っています。

 

分裂

主は、いかなる教会の分裂も望まれない

分裂は主の身体を引き裂く羊飼いの杖を折る

分離分裂したままでいる限り まだ闇の中にいる

どうして分裂しているかを説明しなさい分派

連結『はなれないこと』は愛と慈悲

 

 

スウェーデンボルグもこれからはただの基督教会と

呼ばれなくてはならないと述べています。

 

静思社/イマヌエル・スエデンボルグ/

主新しい教会へ招きたもう/大要(10)(P16)

 

「今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない、

ましてやルーテル派、カルビン派とも呼ばれてはならない。

基督教会と呼ばれなくてはならない。」

 

 

スウェーデンボルグ・メモ/(44)ご参照

 

 

 

また、聖人崇拝を避ければカトリックの方が

天界の教義を受け入れると述べていることをご存知でしょうか。

 

 

静思社/スエデンボルグ/神学論文集P64

 

「それで、もし、彼らが法王崇拝から遠ざかり、

聖徒たちを呼び求めることから遠ざかり、

両種類の聖餐式にあずかるなら、

改革派よりも容易に新しい教会へ、

教えられて入れられることが出来るのである。」

 

 

カトリックが改革派よりも容易に新しいエルサレムに、または新しい教会に入れられる理由/ご参照

 

 

確かにカトリックで残念なのは、主が父なる神であることを

認めないのは除いても、もう一つあります。

 

それは聖体拝領の際、信徒にパンは与えられますが、

ワインは与えられないことです。

 

主は最後の晩餐で明らかにパンとワインをお命じになっているのに。

 

聖書より

 

 

スウェーデンボルグが言っている両種類の聖餐式とは

パンとワインによる聖体拝領のことでしょう。

 

 

それはワインの意味する真理が与えられていないことを

象徴しているように思えます。

 

スウェーデンボルグはその理由を信仰が仁慈から

分離されているからと述べています。

 

パンとワインとを分離した事情

 

 

いつかワインも与えられますように。

 

 

聖体拝領・聖餐

礼拝の最も聖いものご聖体における主の現存

教会的集いの中心聖体拝領の恩恵

 

 

 

 

分裂を続ける理由はありません。

 

スウェーデンボルグの本を保管し、出版することは非常に重要です。

私がスウェーデンボルグを読むことが出来たのも

新教会の先人の皆様のこれまでのご尽力のお蔭です。

 

しかし、それを抱いてカトリックに参加する人が増えれば

色々な問題は解決されるでしょう。

 

 

 

確かに冒頭の呪縛を解いたからといってすぐにキリスト教が広まる

というのは言い過ぎかもしれません。

 

なぜなら、悪にまみれてしまった私たちにとって、

悔改めを要求するキリスト教を

受け入れるのは本質的につらいものだからです。

 

純真な人にとっては簡単でしょう。

 

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい(マタイ11・28)

 

 

しかし、いざ悔改めなければならないとなると、

敬遠してしまいます。

真理を受け入れて守ることは

真珠貝に核を入れることや、

木に接ぎ木をすることに似ています。

 

それは身を切るからです。

 

これまでの野放図な自分を否定しなければならないからです。

 

 

信仰のみによる義認などという説が

いかに安直で有り難いか分かります。

 

ニューソートや自己啓発における

自分を大切になどというのも同様です。

それらはただのまやかしです。

 

 

スウェーデンボルグの教義と聖母は

現代のクリスチャンにとっての踏み絵です。

 

 

スウェーデンボルグは主を神御自身と認めない旧来の

カトリックやプロテスタントにとって痛い真理です。

神の栄冠を主にお返しする大政奉還です。

それによって初めてクリスチャンとなるでしょう。

 

 

聖母崇敬はスウェーデンボルグ派の新教会にとって

新しいエルサレムの名称を聖母にお返しすることです。

それによって真の新教会信徒となるでしょう。

 

 

しかし、聖母は真珠貝の核におけるピース

(他の貝からとった外套膜の切片)

であり、接ぎ木における包帯でしょう。

 

誰にとっても

聖母が痛みを和らげてくださるでしょう。

 

 

知性と勇気に溢れ、己を捨てることの出来る

日本人こそ新しいキリスト教を受け入れるでしょう。

 

新しい神仏習合を成し遂げるでしょう。

 

教会の一致を成し遂げるでしょう。

 

 

 

(他を遠慮なく批判、批評する以上名を名乗らないのも

フェアでない気がします。HP開設以来18年目

にしてプロフィールに私の実名を記載します。

売名になるかもしれませんが、それは

すべて主におまかせします。)

 

 

プロフィール

 

 

平成31年(2019年)4月2日(火)

 

新元号が決まりました。

新しい時代が始まります。

 

この良き時に新しいキリスト教を

お伝え出来ることはまことに喜ばしい限りです。

 

たくさんの人が主と聖母を知って幸せを味わうでしょう。

 

新しいキリスト教の時代が到来するでしょう。

 

 

 

 

2019年(令和元年)5月24日(金)

 

 

5月1日から新しい令和の時代が始まりました。

 

今月は聖母の月です。

 

そして私は聖母が新しいエルサレムであることに

ついて書き始めました。

 

いよいよ聖母が明らかになる時代が来たのだと思います。

 

そうです。令和の御代(みよ)は聖母の御代です。

 

聖母は主が神であられるという教義を表象されていると私は考えます。

その最も重要な教義はこれまで秘せられてきました。

 

それが聖母が秘せられてきたことと符号しています。

聖母が明らかになるということは

主が神御自身であることが明らかになることと軌を一にしているでしょう。

 

主が唯一の神御自身であられることを

最もよくご存知なのは聖母です。

 

現にクリスチャンは主が父なる神御自身であることを知らないではないですか?

ごく一部のスウェーデンボルグ読者以外は知りません。

信徒の中で純真な方は直感的にご存知の方はたくさんいらっしゃるでしょう。

 

しかし、それを表明している人はいないのです。

そんなことを言ったら三位一体論の側から異端のレッテルを貼られてしまいます。

 

しかし、天動説が地動説に変わったことを思い起こしてください。

三神論は夜の闇に退き、主イエス・キリスト一神論の太陽が昇るでしょう。

 

太陽は日本から昇るでしょう。

旧来のキリスト教国はこれまでの三神論に拘束されており、

それを唱えることは不可能なのです。

 

キリスト一神論がどうして異端でしょう?

これ以上キリスト教であるキリスト教はないではないですか?

異端とは文字の意義だけを信ずることから発生します。

 

あたかも主は父なる神とは別の方であられるかのように振る舞われました。

それを主の卑下の状態と言います。

御自身が父なる神であられるにもかかわらず、

栄化される前にはそのように振る舞われたのです。

 

 

聖母を知る、あるいは主をもっとよく知るためには

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/を読む必要があります。

 

現在完全訳が天使館から全10巻中8巻中まで発行されています。

(他にあかし書房/フェデリコ・バルバロ訳編で抄訳版全10巻あり)。

 

今8巻上を読み終えました。

 

本当に素晴らしい本です。

この本を与えてくださったことを主に感謝します。

また凡ゆる関係者の方々にも。

 

私はこれほど感動する本を他に知りません。

 

 

聖母の御代はこの新しい福音から始まるでしょう。

 

ちゃんと主は具体的な手段・方法を備えてくださったのです。

 

 

考えてみれば人類のこれまでの本の中で最高の本は

新約聖書の福音書だったでしょう。

もちろん今もかけがいのないものです。

 

クリスチャンで福音書を読んだことのない人はいないでしょう。

 

それと同様です。クリスチャンはもちろんのこと

これからキリスト教を学ぼうとする人はこの新しい福音を読む必要があります。

 

いえ、世界中のすべての人にお薦めします。

いかなる民族、いかなる宗教の人にも、

あるいは無宗教、無神論だと思っている人にも。

 

これからの最高の本はまさにこの新しい福音です。

万巻の書もこれに敵うものはありません。

 

人類の創造主御自身が、即ち、主イエス・キリストが

この福音書の中で直接私たちに語っておられるからです。

 

新約聖書の福音書よりもっと詳しく明快に。

 

真理を求めている人は一体これを読まずに

何を読もうと言うのでしょう?

 

一度これを読んで受け入れることが出来たら、

哲学、神学、心理学、歴史、自己啓発書等々

すべてが樹海の暗闇のように見えるでしょう。

 

スウェーデンボルグの本は必須の基礎知識であり、

そこを通らなければ樹海を抜けて5合目に行き着くことはできません。

 

恐らくピアノのバイエルのようなものでしょう。

あるいは高層建築の地下深くまで達した基礎です。

それが無ければビルを建てることは出来ません。

ビル全体を支えています。

 

あるいは一段ロケットです。その強力な推進力がなければ

地球を離れることが出来ません。

 

スウェーデンボルグは必要不可欠の力持ちですが、

彼自身は洗者ヨハネのように謙虚に

こう言うでしょう。

 

マタイ3・11−12

「わたしは、悔い改めに導くために、

あなたたちに水で洗礼を授けているが、

わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。

わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、

麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 

 

恐らくスウェーデンボルグは純粋な水(真理)で、

ヴァルトルタの福音は聖霊(感動)と火(愛)で

私たちを悪と誤謬から浄めてくれるでしょう。

 

スウェーデンボルグが整備した道を通って主と聖母が来られるのです。

 

 

ちなみに洗者ヨハネの言葉に「手に箕を持って」とありますが、

私の名前に「箕」がついているのはご愛嬌です。

主は御冗談も仰るのでしょう。

 

これから真の「箕」たちが天の軍勢のように

(黙示録19・14)現れるでしょう。

 

 

そう言えば今ちょうどジャンヌ・ダルクの章を

読んでいたところです。

(春秋社/石井良訳/ヴァルター・ニック/『偉大な聖者たち』)

 

たくさんのジャンヌ・ダルクや天草四郎が現れるでしょう。

これは天国の勢力と地獄の勢力との戦いなのです。

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/P6

‘43.6.19

「『これはと地獄との戦いなのだ』。

あなたたちは偽りの風除けにすぎない。あなたたちの

隊列の背後では天使たちと悪魔たちが闘っている。

あなたたちの動機の背後には、キリストに立ち向かう

サタンとの闘争というほんとうの理由がある。」

 

 

私は愛のない人間で冷酷、傲慢、軽率、馬鹿の塊です。

光栄な御冗談を感謝して真に受け、本当の「箕」の輪の

一つに加えていただけるよう努力せねばなりません。

 

 

私の願いは一人でも多くの方が

このヴァルトルタの新しい福音にたどり着いて

主を知り、聖母を知って救われ幸福になることです。

 

もちろん、知るだけでなく悔改めの実践が必要です。

 

私のすべきことは牧羊犬よろしく吠え立てることです。

私が説教するのではなく、主が啓示書を通してされるのです。

皆様が御自身でこの福音を読まれるなら

それにまさる喜びはありません。

 

 

この福音の中に主が鮮明に描かれています。

まるで主のお姿をこの目で見、

主の御声をこの耳で聞いているようです。

また聖母も。

 

あとはこの福音を通じて善き羊飼いである主が皆様を

直接導いてくださるでしょう。

 

主は私たちの本当の父(なる神)であり、

先生です(マタイ23・8−10)。

 

また聖母は私たち人類の母なのです(ヨハネ19・27)。

 

聖母は厳しくも優しい方です。

聖母は弱音を吐く私たちを叱咤激励し

見守ってくださるでしょう。

 

聖母はきっとこう仰るでしょう。

 

ヨハネ2・5

「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」

 

即ち、主に従いなさいと。

 

 

主と聖母を知ることは何物にもまさる宝です。

 

私たちには父なる主、母なる聖母がおられます。

 

孤児(みなしご)ではないのです(ヨハネ14・18)。

 

 

まだ人類は主が父なる神であることを、

聖母が人類の母であることを知りません。

 

昔は知っていたのですが、一瞬のうちに見えなくなってしまったのです。

 

数々の啓示(書)によって、今明らかにされようとしています。

 

真のキリスト教の時代が明け染めています。

 

 

 

 

2019年(令和元年)6月7日(金)

 

 

 

聖母は主が神であられるという教義を

表象されていると私は考えます。

その最も重要な教義はこれまで秘せられてきました。

 

それが聖母が秘せられてきたことと符号しています。

聖母が明らかになるということは

主が神御自身であることが明らかに

なることと軌を一にしているでしょう。

 

主が唯一の神御自身であられることを

最もよくご存知なのは聖母です。

 

主が父なる神御本人であることを

クリスチャンでさえ知りません。

ごく一部のスウェーデンボージャンを除いて。

 

いえ、信徒の中で純真な方は直感的にご存知の方は

たくさんいらっしゃるでしょう。

 

しかし、それを表明している人はいないのです。

そんなことを言ったら三位一体論者から

異端のレッテルを貼られてしまいます。

 

 

しかし神は唯一のはずなのに、三人おられるとは

一体どうなっているのでしょう?

 

 

 

主が父なる神であることを明確に表明したのは

スウェーデンボルグとサンダー・シングくらい

しか私は知りません。

 

 

しかし、思い出していただきたいのは

天動説が地動説に変わったことです。

いずれ三神論も夜の闇に退き、

キリスト一神論の太陽が昇るでしょう。

 

それも日本から昇るでしょう。

旧来のキリスト教国はこれまでの三位一体論の影響で

それを唱えることは不可能なのです。

 

ところでキリスト一神論がどうして異端でしょう?

これ以上キリスト教であるキリスト教はないではないですか?

異端とは文字の意義だけを信ずることから発生します。

 

あたかも主は父なる神とは別の方であられるかのように振る舞われました。

それを「主の卑下の状態」と言います。

御自身が父なる神であられるにもかかわらず、御自身を

栄化される前に主はそのように謙虚に振る舞われたのです。

 

父と子と聖霊とは唯一の神である主をそう表現しただけです。

私たち人間が霊魂、身体、働きを一体として持っているように。

それを分離してそれぞれ独立した人格だなどというのは

ナンセンスであることは誰でも分かるでしょう。

 

単に文字上の意義をそのまま受け取ってしまうとそう

なってしまうのです。実に単純な話です。

 

私たちが主が父なる神御自身であることを

信じなくなるのを先見してそういう表現に

なっているのです。

 

そうでないと主は神とは何の関係もない方と

思ってしまうからです。

 

少なくとも父なる神と切り離せない方だと思わなければ

主と相互に連結することは全く不可能だからです。

 

ですから主を「マリアの子」と表現する人、

そう考えている人は

主をただの人間と思っています。

 

主をただの人間と思う段階では主と結ばれることはありません。

 

主と結ばれる余地を少しでも残すために

父と子と聖霊という表現にしてあるのです。

 

聖霊も主御自身です。

 

聖霊には色々な意味があって、

主その方を意味する場合もあれば

主の働きを意味する場合もあると思います。

 

例えばパウロに話しかける聖霊と言う場合は主御自身でしょうし、

人に理解の光を与える場合は働きと考えて良いでしょう。

 

しかし、どちらも主がなさっていることです。

 

私たちがしゃべったらその声を聖霊と言うと

しても、声も私たちの一部です。

声が単独でしゃべっているのではありません。

まさに一体なのです。

 

同様に、聖霊という方が主以外にいると思うのは初歩的な誤りです。

 

聖書の表現は擬人法に富んでいます。

 

その辺はスウェーデンボルグで学ぶしかありません。

 

 

 

 

聖母は生ける聖櫃(せいひつ)です。

聖母のうちに主がおられます。

 

聖母はこの世に神をもたらしてくださいました。

 

今また聖母は私たちに主を再臨させてくださるのです。

それは個人個人の胸のうちにです。

 

聖母は生ける神殿です。

 

私たちは神仏の前で祈るために神社仏閣に行きます。

 

 

それと同様、聖母の前で聖母のうちにおられる主に祈ることが出来ます。

 

胎に主を宿された聖母がエリザベトを訪問すると

エリザベトの胎の洗者ヨハネが喜び踊りました。

 

エリザベトも「私の主のお母さまがわたしのところに

来てくださるとはどういうわけでしょう」と感動しました。

 

その頃、主とは唯一の神、万物の創造主、エホバということです。

 

今のように三人の神などという概念はありませんでした。

 

 

私たちも聖母を理解したら喜び踊るでしょう。

 

聖母が世界各地でご出現されていることをご存知でしょう。

有名なのはルルド、ファチマ、グァダルペ、メジュゴリエ、ガラバンダル・・・。

我が国の秋田でも聖母は御像(ごぞう)から涙を流されました。

 

神である主はもちろん生きておられます。

聖母も生きておられ、主と共に

私たちのもとに来られているのです。

 

主と聖母は私たちが呼びかければすぐに

現れてくださるのです。

目には見えませんが。

 

聖母は神なる主の最愛の母であり、妻であり、娘です。

主ともっとも一体の方です。

その聖母に取り次いでいただくことです。

 

困ったことがあったら聖母にお願いすることです。

聖母は主に取り次いでくださいます。

 

主は最も信頼し、愛する聖母の願いをすべて聞き入れてくださるでしょう。

 

聖母がぶどう酒がなくなった時、主にお願いしたら

主はすぐに水をぶどう酒に変えてくださったでしょう?

 

それは聖母の願いを主は必ず聞かれるという意味です。

主はそっけない素振りをされましたが

それは見かけ上だけのことです。

 

いくら信頼し、愛する方だからと言って、

あまりデレデレしたらおかしいでしょう?

 

主も聖母も慎み深いお方です。人前でそっけなくても

お二人は愛と信頼で固くつながっているのです。

 

 

主が私たちの完全な父であるように、

聖母は私たちの完全な母です。この世に

主を上回る父、聖母を上回る母はいません。

 

私たちは孤児(みなしご)ではありません。

私たちには父なる主、母なる聖母がおられるのです。

 

それが分かれば孤独ではなくなります。

 

主は最後に使徒ヨハネに聖母を母として賜りました。

最後まで主に付いて行ったヨハネは私たちのことです。

 

すると主は私たちに聖母を与えてくださるのです。

 

世間はまだ主が父であることを知りません。

もちろん聖母が母であることも。

 

 

まず主が父なる神御自身であることを知るために

スウェーデンボルグを読む必要があります。

 

今やスウェーデンボルグを読まずにキリスト教を

語れる時代ではなくなりました。

 

 

未だにスウェーデンボルグはニューソートだ、オカルトだ

フリーメーソンだなどと思っているなら時代遅れです。

 

それはその人の認識、あるいは色眼鏡であって、

その人自身の認識能力を赤裸々に物語っています。

 

スウェーデンボルグのようにキリストが万物の創造主、

唯一の父なる神、エホバご自身であるなどと言っている

ニューソートやオカルトやフリーメーソンがどこにあるでしょう?

 

そんなことを言ったら彼ら自身仲間内から追い出されるでしょう。

 

なぜなら彼らは最も主を否定する者たちだからです。

いつから彼らがキリスト教に宗旨変えしたでしょう?

 

彼らは自己崇拝者です。

人間は神に仕えるか己に仕えるかしかないからです。

 

スウェーデンボルグは彼らと正反対です。

未だにスウェーデンボルグを彼らの先輩だと言う人たちは

理解していないか、わざと偽りを言っているかのどちらかです。

 

 

 

そもそもキリスト教とは主イエス・キリストを唯一の神と信じ、

主の誡め、即ち、十戒を守ろうと努力する宗教のことです。

あるいは福音書の主の教えを実践しようとする宗教です。

 

十戒も福音書の主の教えも精神は同じものです。

どちらも主を愛し、隣人を愛しなさいということです。

十戒はそれを具体的に示したものです。

 

 

シナイ山でモーセに十戒を賜ったエホバ(ヤハウェ)も

新約聖書の主(イエス・キリスト)も

同じ方、同一人物(同一神)です。

 

キリストが父なる神ご自身であることを知ることは

キリスト教の初歩の初歩、基礎の基礎、

入門編中の入門編です。

 

スウェーデンボルグを読んでそのことを知っただけでは

まだ富士山の5合目です。

誤謬の樹海をやっと通過したに過ぎません。

 

現在のキリスト教は誤謬の樹海に覆われています。

キリストがどなたなのかも分かりません。

 

自分たちの求めているのは父その方である

主イエス・キリストであることを知りません。

 

樹海の中でどっちが山頂か分からない状態です。

 

問題は実践です。知っただけでは意味がありません。

それを実践しなければ。

 

食べただけで身体は強くならず、

身体を使わないといけません。

それと同様です。

 

宗教とはどう生きるべきかを学び、

それを実践するものです。

 

 

十戒の実践、それは即ち、日々の悔改めの実践に他なりませんが、

その実践と共に更に聖母を知らねばなりません。

聖母は私たちを見守り、叱咤激励してくださいます。

実に頼もしい母です。

 

実践段階に至らないと恐らく

聖母の有難味は分からないのでしょう。

 

最後まで主に付いて行ったヨハネに

主は聖母を賜ったのはきっと深い意味が

あるのでしょう。

 

少なくとも、主に従おうと努力しなければ

聖母を賜ることは出来ないでしょう。

 

 

 

 

2019年(令和元年)6月30日(日)

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中

を読みました。

本当に素晴らしい本です。

 

クリスチャンは福音書を読みます。

 

これからはこの本も読まねばなりません。

これはまさに新しい福音です。

 

特にこれからクリスチャンになろうという方に

お薦めします。

 

この福音書がこれからの常識になる

ことを期待します。

 

 

 

スウェーデンボルグが1段ロケットなら、

 

トマス・ア・ケンピスは2段ロケット、

 

マリア・ヴァルトルタの福音は3段ロケットであり、

完成です。

 

この中に天国があります。

 

 

 

どれも霊的な読み物ですが、敢えて言えば

 

スウェーデンボルグはその自然的なもの、

 

トマス・ア・ケンピスはその霊的なもの、

 

マリア・ヴァルトルタの福音はその天的なもの

だろうと思います。

 

うまく説明できません。

 

 

 

スウェーデンボルグは5合目まで

トマス・ア・ケンピスは5合目から上

マリア・ヴァルトルタは更にその途中から頂上という

ような感じです。

 

他にも補強してくれる見神者たちの啓示書が

たくさんあります。

 

強いて言えばその三つが大きな柱のような

気がします。

 

あくまで個人的な感想です。

私にとってそうだったというだけの話です。

 

 

 

物には順番があります。

 

スウェーデンボルグでまず誤謬を振り払い、

 

トマス・ア・ケンピスで実践の苦しさを体験し、

 

マリア・ヴァルトルタで平安に至る感じです。

 

 

それは主が来られる前に洗者ヨハネが準備した

ようなものです。

 

いきなりマリア・ヴァルトルタで主が語り掛けても

受け入れないでしょう。

 

 

スウェーデンボルグの本はスウェーデンボルグ自身の言葉で書かれており、

教室で先生から主に関する講義を受けているような感じです。

 

 

トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』は

途中から主が登場されます。

そして主と弟子(著者)との対話になります。

 

それは実践で苦しんでいる者と主との会話を

私たちにも聞かせてくれます。

 

 

マリア・ヴァルトルタの福音では

遂に主御自身が私たちの前に全身でお姿を現し、

私たちに直接語り掛けてこられるように感じます。

 

そして聖母も。

 

私たちはこのようにして啓示書を通して

主や聖母にお会いできるのです。

 

見神者たちのように霊眼が開かれて

直接見るわけではありません。

 

しかし、私たちにとってこれが主が与えてくださった

最善な方法なのだろうと想像します。

 

 

この方法をやってみたいと思われる方は是非

実験してみていただければと思います。

 

養殖真珠を作る実験です。

主に対する信仰の促成法です。

 

この方法が有効かどうか

皆様のお力がなければ

調べることは出来ないのです。

 

つまり再現できるかどうかという

再現性の問題です。

 

もし皆様にとって有効であれば

今度は皆様御自身がそれを広めてくだされば

主は喜ばれるでしょう。

 

ソメイヨシノを接ぎ木で増やすようなものです。

 

私は教祖などではもちろんなく、ただのメッセンジャーです。

皆様と同じ主と聖母のもとにおける一人の兄弟です。

 

信仰を得るのは皆様であり、皆様が主人公です。

 

皆様が主と聖母に導かれてクリスチャンとなるのですから。

 

クリスチャンとなった暁にはそれぞれの持場で

広めるだけです。

 

それは生き方を通してでしょう。

 

残念ながら私自身その域に達していません。

そうならなければならないと

頭では分かっているのですが・・・。

 

 

 

宗教というのは実践するものだと思います。

 

宗教学とか、キリスト教神学とか学んでも

実践しないなら机上の空論です。

 

それが教養なのか知りませんが、およそ空疎です。

 

単なる受け売りの全般的(曖昧)な知識にすぎません。

オウムがしゃべっているようなものです。

 

むしろ無教養を告白するようなものです。

 

そういう曖昧なものをオウムから聞いて実践するでしょうか?

 

オウムが実践していないものを。

 

オウム自身、実践してくれと頼んだ覚えはないと言うかもしれません。

 

 

しかしそう言っている私自身しゃべっているだけです。

 

 

 

神の愛と知恵422

 

「語ることと行うこととは異なっている」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・1・3

 「あなたがもし謙遜でなくて聖三位のおぼしめしに

かなわぬならば、聖三位に ついて深い議論をする

ことができても、なんの役に立とう。
 まことに人を聖人義人にするのは高尚な言葉ではない。

私たちを神に愛される 者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
 私は痛悔の定義を知るよりも、むしろ痛悔を心に深く感じたい。
 あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉とを

ことごとく暗記したところで 神を愛する心とその恩恵とが

なければなんの役に立とうか。
『空の空なるかな、すべて空である』(伝道書1・2)

しかし神を愛し、これにのみお仕えすることは別である。
 この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ

最高の知恵である。」

 

 

 

 

キリストに倣いて1・3・2

 

 「私たちには物の種類や区別を論ずる学者の説など、何の関係があろうか! 

永遠のみ言葉を聴く人は、さまざまの説に惑わされずにすむのである。

 万物は一つのみ言葉によって成り、

すべてこの唯一(ひとつ)の創造主(もの)を語っている。

これこそ万物の本源(みなもと)であって、

いまも私たちにお語りになるのである。

 このみ言葉がなければ、だれひとり明らかに悟ることも

正しく判断することもできない。

 この一つをすべてとし、すべてをこの一つに帰し、

またすべてをこの一つのうちに見る人は、

決して心を動かされず、神の平安を失わないだろう。

ああ真理である神よ、

私を永遠(とこしえ)の愛のうちに、主と一つにして下さい。

多く読んだり聞いたりすることは、しばしば私をウンザリさせます。

しかし私の願うもの望むものはみなあなたの中にあるのです。

すべての学者は口を閉じよ、あらゆる被造物はみ前に黙せよ、

ただ主だけ私にお語り下さい!」

 

 

 

そうです。私が語っているのは実践方法についてです。

 

多少神学論争をしますが、

それは私の言っていることが

どういうものかを紹介して理解していただくためです。

 

それとキリスト教を覆っている雑草(誤謬)を払うためです。

 

教養を誇示するために神学知識を披瀝をしているわけではありません。

そもそも私には神学知識がありません。

 

 

知っているのは主イエス・キリストが父であり、

聖母が母であるということ

 

後は主の戒めを守らなければならないこと。

(守ろうと努めること)

 

自分がどんなふうにそういう思いに至ったかという個人的経験

 

そのくらいです。

 

これだけで私には十分すぎるほどです。

 

 

ですから人にそれをお伝えしようとしているのです。

 

それはこうしてインターネットを通じて

書くことです。それもつまりしゃべるだけですが、

行いの一つのような気もします。

 

何もしないよりいいのではと。