アッシリア

 

 

 

天界の秘義1186

 

『アッシル』は論じることであることは聖言におけるアッシル、またはアッシリヤの意義から明白であり、そこでは、それは理性に関わる事柄の両方の意義に絶えず取られているのである、すなわち理性にぞくしたものと理論の意味に取られているんどえある。理性と合理的な事柄により真である事柄が元来意味され、論じることと理論とにより誤った事柄が意味されているのである。『アッシル』は理性と論じること[理論]を意味しているため、それは記憶知を意味しているエジプトと極めてひんぱんに連結して用いられている、なぜなら理性と論じること[理論]とはこうした知識から発するからである。『アッシル』が論じること[理論]を意味していることはイザヤ書に明白である―

 

 禍いなるから、わたしの怒りのむち、アッシルよ、かれは正しいことを考えない、またその心も正しいことを思いめぐらさない、かれは言った、わたしの手の強さによってわたしはそれを行った、またわたしの知恵によって(行った)、わたしは理知のあるものであるから、と(10・57、13)。

 

 ここには『アッシル』は論じることを意味しており、それでかれについてはかれは正しいことを考えもしないし、また思いめぐらしもしないと言われ、また『かれは理知があるため、かれ自身の知恵によって』とも言われている。

 

[2]エゼキエル書には―

 

 一人の母の娘である二人の女がエジプトで淫行を犯した、かれらはその若い日に淫行を犯した。その一人は淫行を犯して、その恋人らに溺れた、その隣人のアッシル(アッシリア人)に溺れた、かれらは青い着物を着ていた、またかの女は主長と支配者とに溺れた、その凡ては好ましい、若者であり、馬に乗る騎士である。バベルの息子らはかの女のもとに来て、その淫行をもってかの女を汚した(23・2,3、5、6、17)。

 

 ここでは『エジプト』は記憶知を意味し、『アッシル』は論じることを、『バベルの息子たち』は欲念から発した誤謬を意味している。

 

[3]同書に―

 

 ああエルサレムよ、おまえはまたエジプトの息子らと淫行を犯した、おまえはまたアッシェルの息子らと淫行を犯した、おまえはおまえの淫行をまし加えて、カナンの地にも、カルデヤにも至った(16・26,28,29)。

 

 ここでは『エジプト』は同じく記憶知を意味しており、『アッシル』は論じることを意味している。霊的な天的な事柄について記憶知から論じることは、聖言のここでもまた他のところでも、『淫行』と呼ばれている。エジプト人とアッシリア人との淫行が意味されていないことはたれでも認めることができよう。

 

 

天界の秘義5044[5]

 

さらに―

アッシルは正しく考えない、彼の心は正しく思い巡らさない、彼の心は破壊することであり、少なくはない幾多の民族を切りはなつことである。彼は言う、私の君は王ではないか、と(イザヤ17・8)。

 

『アッシル』は神的真理について論じることであり、―そこから幾多の誤謬が発生してくるのであるが―歪められた理論を意味している(1186番)。理論により生み出され、真理そのもののようにも見えるところの、このように誤謬化された真理が、または誤謬が、彼が『私の君は王ではないか』と言ったことにより意味されているのである。『アッシル』は議論[論じること]であることは、またその『王である君』は真理そのものであると信じられている誤謬であることは、心が文字の意義の中に留め置かれている限りは認められることは出来ないし、またそこから信じられることは出来ないのであり、ましてや神の聖言の中にはその文字に現れているものよりも更に聖い、更に普遍的なものが在ることについて心が否定的なものに傾いているなら、認められも、信じられもしないものの、それでも聖言の中ではその内意においては理論と論じること以外には何事も理解されてはいないのであり、『王』により真理そのものが、『君』により真理の主要な事柄が意味されているのである。天界ではアッシル〔アッシリヤ〕については何事も知られてはおらず、天使たちもまた天使たち自身から王と君との考えを斥けており、それを人間の中に認めると、それを主に移して、天界の主から発して主のものであるものを、即ち、主の神的善から発している神的真理を認めるのである。