アシェル
1.聖書
創世記49・20
アシェルには豊かな食物があり
王の食卓に美味を供える。
天界の秘義3936
12節、13節。「レアの下婢ジルパはヤコブに第二の息子を生んだ。レアは言った、わたしの祝福の中に。なぜなら娘たちはわたしを祝福された者と呼ぶでしょうから。で、彼女はその名をアセルと呼んだ」。『レアの下婢ジルパはヤコブに第二の息子を生んだ』は第二の全般的な真理を承認することを意味し、『レアは言った、わたしの祝福の中に。なぜならわたしを祝福されたものと呼ぶでしょうから』は、その最高の意義では永遠を、その内意では永遠の生命の幸福を、外意では情愛の歓喜を意味し、『彼女はその名をアセルと呼んだ』はその性質を意味している。
天界の秘義3939
「彼女はかれの名をアセルと呼んだ」。これはそれの性質を意味していることは、『名を呼ぶこと』の意義から明白であり、それは前のように性質である。性質そのものがアセルの表象するものである。『アセル』は原語では『祝福』を意味しているが、その名はかれの母レアの言った言葉、『わたしの祝福の中に。なぜなら娘たちはわたしを祝福されたものと呼ぶでしょうから』により意味されている凡てのことを、すなわち、永遠の生命の幸福に相応している情愛の歓喜を含んでいる。これは外なる人を内なる人に連結させるところの第四の全般的な原理である、なぜなら人間は自分自身の中にこの相応している歓喜を認めると、そのときかれの外なる人はかれの内なる人に連結され初めつつあるからである。それらを連結させるものは真理と善の情愛の歓喜である、なぜならその人間の生命はその情愛の歓喜の中に在るために、その情愛の歓喜がないなら何ものも連結されないからである(連結はことごとく情愛を通してなされることについては3024、3066、3336、3849、3909番を参照)。『彼女を祝福されたものと呼ぶ娘たち』により教会が意味されている。(聖言の内意では『娘』は教会を意味している、2362番を参照)。このことがレアにより言われたのは、その下婢[女中]から生まれた者により、教会がその人間の中に発生してくる意図の下に連結に対し役立つところの手段である全般的な真理が意味されているためである。なぜなら人間はこの歓喜をまたは情愛を認めると、かれは教会になりつつあるからであり、実情はそうしたものであるため、このことが下婢の第四のまたは最後の息子について言われているのである。
天界の秘義6408
「アセルからは」(創世記49・20)。これは情愛の至福を、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈とにぞくしている天的な情愛の至福を意味していることはアセルの表象から明白であり、それは永遠の生命の幸福と情愛の至福である(3938,3939)。
さらにアセルは「至福」からそのように呼ばれたのである。この至福は内なるものであって、何人のもとでもその身体そのものの中では明らかに示されはしないし、かくて感覚には明らかにされないため、容易に説明することはできない。なぜなら人間は、その身体の生命の間では、身体の中に起こるものは明確に知覚はするが、その霊の中に起こるものは極めて不明確にしか知覚しないからであるが、それは、人間は身体内にいる間は、世の心づかいに妨害され、この心づかいが在るところには、情愛の至福は、自然的な感覚的な物が内なる物に調和した状態になっていないかぎり、身体の中までも流れ入ることができないのであり、そのときでさえも[調和しているときでさえも]心の満足から生まれる静謐として、不明確にしか流れ入ることができないためであるが、しかしそれはこの生命を去った後は明らかに示されて、祝福された、幸福なものとして認められ、そのときはそれに内部も外部も感動するのである。約言すると、天的な情愛の至福は霊魂または霊そのものの至福であって、内なる道から流れ入って、身体にまでも浸透し、そこに、自然的な、感覚的な愛に妨害されないかぎり受け入れられるのである。
天界の秘義6408[2]
この至福は自己と世への愛の歓喜の中にいる者らのもとではその一片もありえない。なぜならそれらの愛は全く対立したものであるからであり、それでこれらの愛にいる者らは顕職に挙げられ、神としてまつられ、富に満ち溢れ、他の者以上に富を得る至福以外の至福が何か存在することは全く把握することはできないのである。もしかれらがこれらの愛から生まれる歓喜は外なるものであって、身体とともに死滅し、心の中に残るものは、地獄を支配しているような悲哀と憂うつとに死後変化してしまうが、内なる歓喜があって、それは天界にいる者たちにより享受される満足と幸福であると告げられるなら、これらの事をかれらは全く把握しないのである。それは外なるものがかれらを支配しており、内なるものは閉じられているからである。この凡てから「アセル」により意味されている情愛の至福により意味されていることを知ることができよう。