アンナリヤの死
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P190
次に優しい上品な顔をのぞかせたのは、アンナリヤである。
「・・・入りなさい。一緒に来た人はどこに?」
「・・・主よ、向うにいます。彼女は帰りたいので、出発の支度をしています。私がここに留まりたいのを知っていて、マルタが明日の日暮れまでここに泊まっていくようにと言ってくださいました。サラは家を帰って、私がここに泊まることを伝えてくれるはずです。あとでお世話することがありますが、それはあとにしてサラはあなたの祝福を望んでいます」
「入るように言いなさい。祝福を与えよう」
アンナリヤは出て行き、すぐ仲間を連れて入って来て主のみ前にひれ伏す。
「平和があなたと共にありますように。主の恩寵を受けて、あなたをここに連れて来た人と同じ道に導かれるように願います。このアンナリヤの母と優しくつき合うように・・・。様々な束縛と苦しみをあなたから遠ざけてくださった天を祝福しなさい。今まであなたの意志で、子を産まずにきたことを将来ますます主に感謝するようになるでしょう。さあ、出かけなさい」
若いサラは深く感動して去る。
「あなたは、彼女が望んでいた通りのことを話してくださいました。彼女は常々、私にこう言っていました。『あなたの行かれる道を私も進んで行きたい。イスラエルでは、全く新しい道ですが、私もそれを望みます。私には父がいますし、優しい母もいますが、決してその道に入ることを邪魔しないでしょう。けれども、この望みが確かに実行できて、あなたと同じような聖なる決心を立てられるようにイエズスのお言葉を聞きたいのです』と。今、あなたは彼女の望み通りに言ってくださいました。私としてもうれしいし、安心しました。なぜなら、私は自分があまり彼女を強引に引っ張ったのではないかと、ちょっと不安に思っていたからです」
「・・・いつからあなたは彼女と一緒にいるのですか?」
「いつから・・・そうです、衆議会が命令を出した時、私は自分に向ってこう言いました。『主の時は来た、私は死の準備をしなければならない』と。以前、私はそのことをあなたにお願いいたしました。主よ、今日は、その時のことをあなたに思い出していただきたいのです。・・・あなたがもし、生贄となられるのなら、私もあなたと共に生贄となります」
「今でも、そのことを心に決めているのですか?」
「・・・そうです、変わりません。私は主のおいでにならないこの世に生きていることはできません。あなたが拷問されて死なれてのち、生き延びることは私にはできないのです。あなたがそうなられることを、私は心の底から恐れています。ある人たちはそんなことにはなるまいと希望を持っていますが、私はそうではありません。
その日はもう来ていると、私は感じています。あなたへの憎しみはあまりにも大きい・・・私の捧げものを、どうぞ快く受け入れてください。ご存じのように私は貧しい女で、あなたにお捧げできるのは自分の命しかありません。純潔を守ってきた今までの私の命、これだけです。
それで私は母に、身内の者をそばに呼ぶように頼みました。母が独りきりにならないように、サラにも頼みました。サラが私の命の娘になってくれるでしょう。私を退けないでください、主よ。世間はもう私にとって何の魅力もありません。まるで牢獄のように思われます。死の間際に立っている者にとっては、世間の喜びごと、楽しみごとがまるで風のように空しく傍らを通り過ぎて行くだけです。
私の望みは、生贄になることだけです・・・。世間の憎しみが主に降りかかるのを見るより先に、主のお苦しみに倣って生贄になりたいのです・・・」
「そうなれば、子羊を捧げる祭壇に贖いの血に染まった百合が添えられるでしょう。その生贄はただ愛のためだけであったと、天使たちはたたえ、私のあとに続く最初の生贄と称されるでしょう・・・」
「主よ、それはいつのことですか?」
「・・・ランプを灯し、婚礼の服を着けなさい。花婿は間もなく来ます。あなたは花婿の勝利を、いやその死を見ることなく、彼と共に天の国に入ることでしょう」
「・・・ああ・・・私はイスラエルで一番幸せな女です。冠を着けた女王のようです・・・主よ、この場であなたにお願いを一つしてよろしいでしょうか?
「どんなことか?」
「・・・ご存じのように、かつては私は一人の男を愛しましたが、それよりももっと大きな愛があるのを知って、彼と別れました。過去のことはもう過去のことですが、でも、私が生命のこの席に着くこの時、彼のためにも永遠の生命を願いたいと思うのですが、これは罪ではないでしょうか・・・」
「いやいや、決して罪ではない。生贄の聖なる昇天の際に、愛した者の善を願うのは当たり前のことです・・・」
「では、先生、主よ、私を祝福してください。今まで私の犯したすべてをゆるしてください。私の神よ、この貧しいはしためを迎えてあなたに寄り添わせてくださるのは、主ご自身です」
喜びと健康にあふれんばかりの娘は、イエズスの足元にひれ伏して、その足に口づけする。イエズスは彼女を祝福しながら祈る。大きな白いこのサロンは、天使的なこの儀式にふさわしく、白百合の香りに満ちているようである。
やがて、イエズスは立ち上がり、喜びに顔を輝かせながら、静かに部屋を出る。
次の日にアンナリヤと共に町に行くエリーザとニケを残し、帰って行く婦人たちと子供たちらは、歓声を上げながら騒々しく馬車に乗り込み、間もなくその馬車は轍(わだち)の音をきしませて、大きな門から去る。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P51
アンナリヤの家が見えてきた。四月の優しい風に揺れるぶどうの若葉で、屋上が飾られている。道に面した側に、白いヴェールをかけ白い服を着た娘たちがずらっと並び、中央にアンナリヤの姿が見える。皆、バラの花びらとスズランで一杯のかごを手に立っている。
「主よ、イスラエルの処女たちが、あなたにごあいさつをしております」と、道を開けいまはイエズスの傍らにいるヨハネが、血のように赤い花びらと真珠のように白いスズランを散らす生きる純潔の冠に、イエズスの注意を促す。
イエズスはとっさに手綱を引いて子ろばを止め、地上の他のすべての愛を放棄するほど自分を慕うそれらの処女たちを祝福するために手を上げた。アンナリヤが手すりから乗り出して叫ぶ。
「私の主よ、私はあなたの勝利を見ました! あなたの普遍の栄光のために命をささげます」
イエズスがその家の下を通りかかると、甲高い叫び声を上げ、
「イエズス」とあいさつする。
ちょうどこの時、もう一度群集の歓呼を制するかのような叫び声が上がった。しかし、人々はこれを聞いても何の変化もない。とどまるところを知らぬ水の流れ、熱狂する群集の川である。この川の最後の波はまだ町の外だというのに、最初の波はもはや神殿へ上る坂を歩いている。
「あなたのお母様!」
モリヤへ上る道の角の家を指して、ペトロが声を上げた。イエズスは顔を上げて、忠実な婦人たちと一緒にいるマリアに笑みを送る。
この家を過ぎてまもなく、長い隊商が行列を止めた。イエズスは、母親たちがささげにくる子供たちをなでながら他の人たちと一緒に立っているとき、群集をかき分けて男がわめきながら近づいてくる。
「通してくれ! 娘が急死したんだ。娘の母が先生を請い願っている。私を通してくれ! 前に一度、先生に娘を助けてもらったことがあるんだ・・・」
人々は道を開け、男がイエズスに走り寄る。
「先生、エリーザの娘が死にました。あなたにあいさつを送った後『幸せです』と言って、あおむけに倒れ息を引き取りました。あなたの勝利を見て、あまりの歓呼に心臓が破れたのかもしれません。娘の母が家の近くの屋上にいた私を見つけて、あなたを呼んできてほしいと頼んだのです。先生、お願いです、来てください」
「娘が死んだ?! アンナリヤが? 昨日だって、はつらつとして幸せどうだったのに・・・」
使徒たちがびっくりして心配そうに集まると、羊飼いたちも寄ってきた。皆、アンナリヤが本当に元気だった姿を見ている。つい今し方バラ色に輝く彼女がほほえんでいるのを見たばかりなのに・・・降ってわいた不幸が納得できない・・・微に入り細に入り質問攻めにする。
「私は何も知らない。皆、アンナリヤのことばを聞いたでしょう。何の不安もなく甲高に叫んでいた・・・それが着衣よりも蒼白になってあおむけに倒れ、母が叫ぶのを聞いた。これ以上のことは何も知らない」
「うろたえるな。アンナリヤは死んだのではない。一輪の花が落ちて、それを天使たちが拾ってアブラハムの懐に運びました。地の百合は、もうこの世の汚れを知ることなく、天で幸福に咲きこぼれるでしょう。男よ、わが娘の運命を嘆くなとエリーザに伝えなさい。むしろ娘は神から“大いなる恵み”を受け、六日経てば神がどれほどの恵みを娘に与えたかはっきりすると母親に伝えなさい。皆、泣くな。だれも泣くのをやめなさい。アンナリヤの凱旋は私のよりも大きい。なぜなら天使たちが彼女を義人たちの平和に連れていくために迎えにきたからです。下ることを知らず、ますます大きくなる永遠の凱旋です。まことに私は言います。アンナリヤのためよりも、われわれ皆のために泣いた方がよい。さあ、行きましょう」
そして、使徒たちとまわりを取り巻いている人々にもう一度繰り返す。
「一輪の花が落ちました。安らかに憩い、天使たちはその花を拾い上げました。肉体も心も清い娘は幸せ! もうすぐ神を見るのですから」
「でもどうして、何で死んだのですか、主よ」
「どうしても納得がいかないペトロがしつこく尋ねる。
「愛の脱魂の中で、限りない喜びで、幸せな死に方!」
ずっと前方や後方にいう人たちは全然気づかない。イエズスのまわりには、物思いにしずむ沈黙の輪ができたにもかかわらず、ホザンナが叫ばれている。
沈黙を破ったのはヨハネである。
「来たるべき災いの前に、私も同じ運命がほしい」
「私も」とイザクが言う。
「あなたへの愛に死んだあの処女の顔を見たい・・・」
「その望みが、私のために犠牲にするように願います。私は、おまえたちがいまそばにいるのを必要としているから」
「主よ、私たちはあなたから離れるはずがありません。だけどあの母親に何の慰めも与えないのですか」とバルトロメオが問いかける。
「あの人のことは私にまかせなさい・・・」
マリア・ワルトルタ/復活/P157
エリーザは、閉ざされた部屋の中で泣き悲しんでいる。その部屋にあるベッドには寝具はない。恐らくアンナリヤの使っていたものだろう。
このベッドを抱くように腕をかけ、その腕に頭を垂れて泣いている。窓からは昼前の光線がわずかに入っているだけだが、急にそこが明るくなって、イエズスが入ってくる。
(入ってくると私は言ったが、実は、気がつくとイエズスがそこにいたという意味である。閉まっている所からイエズスが現れたことで、これからも、そのように表現する。まばゆい白光の中から現れるイエズスは、まるでその光が、壁も戸も溶かすように、間違いなく人間の姿で現れる。白光は彼の姿を浮き出させ、姿を消すときには、光と共に去る。その姿の美しさは、受難前の美しさの何倍と言ってよいか、栄光の王の姿である)
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「エリーザ、なぜ泣いているのか?」
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(間違いようのないイエズスのその声を聞いて、なぜエリーザが彼と気付かないのか、私は不思議でならない。アンナリヤが死んでから、ここにやってきて、日夜悲嘆にくれていたから、他の事に気付かないのかもしれない。彼女は、知りあいのだれかに問いかけられたように答える)
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「昨日、あの人たちの言った事を聞いたでしょう? イエズスは少しばかり魔法的な力をもっていたかもしれないけれど、神の力をもっていたのではないと、あの人たちは言いました・・・私は、娘のアンナリヤが、神さまに愛されて、今は安らかにいると思っていたのに・・・。けれど、何人もの人が、よみがえったイエズスに会っていますよ、よみがえりは、神さまだけにしかできない事ですと、私は言ってやりました。あの人たちに、私の希望と平和を打ち砕かせることはできませんでしたから・・・。
するとあの人たちは、それはイエズスの弟子たちが自分たちの狂った信仰の芝居をつづけるためにやったことだ、死んで腐りかけた死体を盗んで、どこかで、消してしまったのだと言いました。ああ、あの人たちの悪どさを思い知らせるために、神さまは第二の地震を起されたのでしょう。・・・でも私は、心に安らぎがありません・・・」
「あなたが自分の目でよみがえったイエズスを見て、触れることができたら、信じるだろう・・・」
「私にはそんなお恵みを受ける値打ちはありません。でもそんなことがあれば、もちろん信じます。神さまの御体なのですから、触れるなんて、とんでもないこと! “女は神のみ前に近寄れない”のですから」
「エリーザ、頭を上げて、あなたの前にいる私をごらん」
エリーザは白髪の頭を上げ、腫れ上がった目で相手を見る。びっくりして、口をぽかんと開けたまま、わけの分からぬ声が、のど元で鳴る。
「エリーザ、私だ、この手に触れて接吻しなさい。あなたは、自分の娘を私にささげた人だ。この手から、あなたの娘の霊的な接吻も感じるように。娘は幸せに、天にいる。このことを弟子たちにも告げなさい」
女は身動きもできない。イエズスは自ら手を伸ばして彼女の唇に軽く触れる。
「・・・ああ、本当によみがえられたのですね・・・私は幸せです・・・あなたは賛美されますように・・・」
ひれ伏して主の足に口づけする。
女がそうしている内に、白光に包まれたイエズスの姿は見えなくなる。
アンナリヤの母の心に、そうして不屈の信仰が生まれる。