アンデレ

 

1.信仰の服従

 

 

 

1.信仰の服従

 

黙示録講解821ロ[3]

 

これら三人の使徒はこうした意義をもっていたため、彼らは他の使徒たちよりも多く主について行ったのであり、そのことはマルコ伝に認めることが出来、そこには以下のように言われているのである−

 イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟のヨハネを除いてはたれ一人イエスについて行くことを許されなかった(5・37)。

 こうした理由のためペテロは、主によりアンデレを通して呼ばれた最初の者であったのであり、『アンデレ』は信仰の服従を意味しており、後にヤコブとヨハネとが呼ばれ、これら二人の者に主は新しい名を与えられたのである。

 

 

 

アンドレア

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P200

 

「先生、あなたに平和!」

「おまえにも、アンドレア。ここにおいで、おまえは小鳥のそばにいられる人だから。(中略)」

 

「私は、おまえが何も言わずに他人よりもよく働いているのも知っています。十二人の中には、仕事をするのに騒々しく音を立てる者、仕事だけする者がいます。大事だが地味でだれも気づかない仕事・・・他人には何もしていないように見えるが、すべてを見ている人は知っています。おまえたちはまだ完全ではないので、こういうふうな違いがあるし、また、天使が“時が終わった”と声を響かせるその瞬間まで、将来ずっとおまえたちに続く弟子たちの中にも常にそういう人たちはいます。いつも勤勉だが、世間の注目を引くことのないキリストの奉仕者“先生たち”がいます。そして残念ですが、音だけ立て、大向うの受けをねらって、大げさな態度をとる偽りの牧者も常にいます・・・彼らは司祭だろうか。いいえ、”芸人“以上の何者でもありません。司祭を作るのは、大げさな身ぶりでもなければ服でもない。人間を司祭にするのは、世間的な学問や知識、力関係ではない。大切なのは、その人の心と霊魂です。肉体を消すほどの大きな霊魂、私の夢見る司祭は霊だけです。未来の私の”聖なる司祭“は、このようなものです。霊には声もなく、悲劇役者の気どりもない。霊であるがために荘厳な衣装も仮面もつけない。司祭とは霊、炎、光、愛であるもの、それが司祭です。霊魂たちに話すまなざし、業、ことばの清さを持っています。

 人間は自分と同じような他人を見ますが、相手の肉体の他に何を見ているのですか。何かが、人のあわただしい歩みを止めさせ、考えさせます。“私に似ているこの人は、姿は人間だがその霊魂は天使のようなものです”そして、信仰のない人が、このような人によって神があること、天があることを信じることもあり得ます。そして、淫乱な人は、“この私に似ている人には、天の目がある。その目を汚さないよう、私の肉欲を抑えよう”と考え、けちな人は”富に執着しないあの人を模範として、貪欲を捨てよう“と決心する。そして、短気で残酷な人は、柔和な人を前にして平和で静かな人に変わる。このようなことができるのは聖なる司祭だけです。

 信じてもらいたいが、聖なる司祭たちの中には、神と隣人への愛に死さえ選び、一生涯完徳を実行しつつ、世間がその存在すら気づかないほど、すべてを何でなく行う人々がいます。世間が将来遊女屋と偶像崇拝の世界に変わらないとすれば、それはこのような、“沈黙と忠実な英雄たちの活躍によるものです。この人たち、そう、アンドレア、おまえのように清らかで控えめな笑顔を持つ人たちは常にいます。神の恵みによって、この世の幸運のために!」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P105

 

何時も思いやりのあるアンドレアが盲人を連れに行く。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P211

 

単純で正直なアンドレアは、ユダがうそを言っているのには全く気づかず、親切に言う。

 

 

マリア・ワルトルタ58・5/天使館第1巻P524

 

アンデレはただその場面を見つめるだけで言葉もない。しかしイエズスは彼の髪に手を置き、言う。

 

「あなたをもわたしはとても愛していますよ。あなたの曙の時が来れば、あえてふり仰ぐこともせずに、天の面に、あなたに微笑みかけるあなたのイエズスの照り返しを見るでしょう。そしてあなたに言うでしょう。『あなたを愛していますよ。おいで』と。夜明けへの渡りは、婚姻の部屋への入場よりもはるかに甘美なものとなるでしょう・・・」。