アモリ人

 

 

 

天界の秘義1857

 

「アモリ人の不法は未だ満ちていないからである」。これはもはやいかような善も存在しない最後のときを意味していることは、『アモリ人』の意義から、また『満ちること[完結、終結、終末]』の意義から明白である。聖言では悪が全般的に意味されているが、それはカナンの地は(エゼキエル16・3、4、アモス2・9、10に明白であるようにアモリ人の地と呼ばれたという理由によっている。それでこの記事の『アモリ人』によりカナンの地のあらゆる国民が意味され、これらの国民により、前に言ったように、悪と誤謬とが特定的に意味されており、したがって『アモリ人』によりあらゆる悪が全般的に意味されている。『満ちること』によりもはやいかような善も存在していない最後のときが意味されているのである。

 

 

天界の秘義1857[2]

 

しかしアモリ人の悪が未だ満ちていなかったという事実により内意に意味されていることはアルカナ[秘義]である。なぜなら他生における悪い者の場合、かれらはその悪が頂点に達しない中は罰せられはしないのであり、そのことは全般的にもまた個別的にも行われているからである。なぜなら悪は悪自身を罰する、すなわち、悪い者は自分の悪の刑罰に向って突入するが、しかしそれはその悪がその頂点に達したときにのみ行われるということが他生における事物の均衡となっているからである。悪はことごとく個々の各々の場合に異なっているその制限[限界]を持っていて、その制限を越えることは許されてはいないのである。悪い人物がこの制限を越えると、かれはかれ自身をその刑罰に向って投げ込むのであり、これは各々個々のものにおいてもそのようになっているのである。

 

 

天界の秘義1857 [3]

 

全般的にもそのようになっており、邪悪な者は、瞬間的にではないが、継続低に地獄へ自分自身を投げつけるのである。これは主によって確立されている秩序の普遍的な法則から発している、すなわち、それは主は決して何人をも地獄へ投げ込まれはしないのであって、悪が悪自身を投げ下ろすのである、または悪い人物は自分自身を投げ下ろし、しかもそれが継続的に行われて、ついにはその悪が満ちて終局にたっして善が何一つ最早現れなくなるという法則から発しているのである。何かの善がある限り、かれは地獄の上の方へ上げられるが、悪以外には何ものもないときは、おのずから地獄へ投げ込まれるのである。善と悪とは先ず互に他から分離されねばならない、なぜならそれらは対立したものであって、何人もその両方に傾くことは許されてはいないからである。これがアモリ人の悪が満ちなくてはならないことにより意味されていることである。しかし善良な者の場合は異なっており、かれらは主により天界に向って絶えず挙げられており、その悪は絶えず拭い去られつつあるのである。

 

 

天界の秘義1857 [4]

 

教会の状態の場合も同一である。報復は、その教会の悪が満ちるまでは来ないのである。

 

 

 

天界の秘義6859

 

「アモリ人とペリジ人」。これは、悪とそこから派生した誤謬とにより、を意味していることは以下から明白である、即ち、アモリ人の表象は悪であり(1857、6306番を参照)、ペリジ人の表象は誤謬である(1573、1574番)。悪には二つの起源があり、誤謬にも二つの起源がある。悪の一つの起源は教義、または宗教の誤謬から発し、他は自己と世への愛の欲念から発している。今し方言ったように、最初の起源の誤謬は、教義または宗教の誤謬から発し、他の起源の誤謬は(今)述べた愛の幾多の欲念の悪から発している。これらの悪は『カナン人』と『アモリ人』により意味されるものであり、これらの誤謬は『ヘテ人』と『ペリジ人』により意味されているものである。