アダとチラ

 

 

 

創世記第4章レメクの妻

アダとチラ

 

創世記第12

パロに疫病、サライ、

どうして妹と言ったのか

 

創世記第16章1−6節

サライの顔を避けて

 

 

レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。(創世記4・19)

 

 

天界の秘義405

 

『カイン』から数えて六番目の『ラメク』により、もはやいかような信仰も存在しない結果生まれてくる荒廃が意味され、その『二人の妻』により新しい教会の勃興が意味され『アダ』によりその天的な霊的なものの母が、『チラ』によりその自然的なものの母が意味されている。

 

 

天界の秘義406

 

『ラメク』により荒廃が意味されていることは、また信仰の存在しなかったことが意味されていることは以下の節(23,24)から明らかであり、そこにはかれは『男を殺して自分を傷つけ、小さい者を殺して自分を害った』と言われている、なぜならそこでは『男』により信仰が、『小さい者』または『小さな子供』により仁慈が意味されているからである。

 

 

天界の秘義407

 

教会の状態は全般的に以下のような経過を取っている。時が経つとそれは真の信仰から離れ去ってついには全く信仰を欠くようになり、その時『荒廃してしまった』と言われている。是がカイン族と呼ばれた者らの間の最古代教会の実情であり、また洪水以後の古代教会及びユダヤ教会の実情であったのである。

 

主の降臨の頃この最後の教会は主については何事も知っておらず、主はかれらの救いのために世に来られることを知っておらず、まして主に対する信仰については何事も知っていないといった荒廃の状態にあったのである。原始基督教会の場合も、または主の降臨以後に存在した基督教会の場合も同じであって、それは現今その中には一つの信仰も残存していない程にも完全に荒廃しているのである。

 

しかし教会の何らかの核は残っているのであり―この核は信仰が荒廃している者らには認められてはいないが―最古代教会の場合も同じであって、その教会の残りのものは洪水の時迄も存続し、その事件後も存続したのである。この教会の残りのものは『ノア』と呼ばれているのである。

 

 

天界の秘義408

 

 教会がもはやいかような信仰も存在しないほどに荒廃すると、その時―その前ではないが―新しく教会が始り、すなわち、聖言に『朝』と呼ばれている新しい光が輝き出てくるのである。新しい光または『朝』が教会が荒廃してしまわないうちは輝き出ない理由は、信仰と仁慈に属したものが汚れたものと混合して、そうした状態に在る限り[汚れたものと混合している限り]、光のまたは仁慈の如何ようなものも導入されることは不可能であるということである、なぜなら『毒麦』は『良い種子』を凡て破壊してしまうからである。

しかし信仰が存在しない時は、信仰はもはや冒涜される筈はない、それは人々は自分らに宣べ伝えられることを信じないし、そして承認も、信じもしないで、単に知るに過ぎない者は上述したように冒涜することはできないからである。現今のユダヤ人の場合がこれである、かれらは基督教徒の間に生活している結果、主がかれら自身が今まで期待してきた、また今後も期待しつづけるメシヤであると基督教徒により承認されていることを知っているに違いないが、そのことを承認もしないし、また信じもしていないため、そのことを冒涜することは出来ないのである。主について聞いている回教徒、異邦人の場合も同様である。ユダヤ教会が何物も承認しないし、何物も信じない迄は主は世に来られなかったのはこうした理由からであった。

 

 

天界の秘義409

 

 時が経つ中に荒廃してしまった『カイン』と呼ばれる異端の場合も同様であった、なぜならそれは愛を承認はしたけれど、しかも信仰を主要なものとして、それを愛の前に置いたのであり、この異端から由来した諸々の異端は徐々にそこからもさまよい出して、第六番目のラメクは全く信仰さえも否定してしまったのである。この時が来た時、新しい光が、または朝が輝き出て『ラメクの妻』と呼ばれて、ここに『アダとチラ』と呼ばれている新しい教会が作られたのである。

 

かれらはなんら信仰をもっていなかったユダヤ人の内なる教会と外なる教会のように、同じく何ら信仰をもっていなかったラメクの妻と呼ばれているのである。そしてこのことはヤコブの二人の妻のレアとラケルとにより表象され、その中にレアは外なる教会を、ラケルは内なる教会を表象したのである。

 

これらの教会は二つの教会のように見えるけれど、実際は一つのものである。なぜなら内なるものから分離した外なるものは、または表象的なものは単に偶像的なもの、または死んだもののようなものに過ぎないが、外なるものと合した内なるものは教会を構成しており、実にここにアダとチラとが同一の教会を構成しているように、同一の教会をさえ構成するからである。

 

しかしながらヤコブとその子孫はラメクのように信仰を持たなかったので、教会はかれらの許に存続することはできず、背信の状態で生きはしないで、無知のままに生きていた異邦人に移されたのである。荒廃してしまった時にも己が間に真理を持っている者たちのもとに、たとえ教会は存在するとしても、それはまれなことであって、教会は真理については些かも知っていない者たちへ移されるのである、なぜならこれらの者は前の者よりも容易に真理をかき抱くからである。

 

 

天界の秘義410

 

 荒廃[剥奪]には二種類のものがある、一つは昔のユダヤ人や現在の基督教徒のように、知ってはいるが知ろうと願わない者、見はするが、見ようとは欲しない者のそれであり、第二は昔と今の異邦人のように、無知の結果、何ごとも知らないし、見もしていない者のそれである。

 

知ってはいるが、知ろうと欲しない者、すなわち、見はするが見ようと欲しない者の上に荒廃の最後の時が臨む時、その時新しい教会がかれらの間に起らないで、かれらから異邦人と呼ばれている者らの間に起るのである。このことは洪水以前の最古代教会に、その(洪水の)事件以後の古代教会に、またユダヤ教会に起ったのである。

 

その時新しい光が輝き出るが、それ以前には輝き出ない理由は、前述したように、その時かれらは啓示された物を最早汚すことができないということである、それはかれらはその真であることを承認しないし、信じないためである。

 

 

天界の秘義411

 

 新しい教会が起ることができる以前に荒廃の最後の時が存在しなくてはならないことは主により予言者の書の中に再三宣べられており、そこには信仰の天的なものにかかわるものは『荒廃[剥奪]』または『荒れ果てる』と呼ばれ、信仰の霊的な物にかかわるものは『荒涼』と呼ばれている。それはまた『終結[完結]』『絶ち切られる』とも言われている。(イザヤ6・9,11,12,23・8から終りまで、24章、42・15−18、エレミヤ25章、ダニエル8章、9・24から終りまで、ゼパニア1、申命記32章、黙示録1516章及び以下の章)。

 

 

天界の秘義412

 

20節「アダはヤバルを生んだ、かれは天幕に住む者と家畜との先祖であった。」

『アダ』により前のように信仰の天的な霊的なものの母が意味され、『天幕に住む者と家畜との父祖ヤバル』により、天的なものであるところの、愛の聖いものとそこから派生してくる善が意味されている。

 

 

天界の秘義413

 

『アダ』により信仰の天的なものの母が意味されることはその初児のヤバルが『天幕に住む者と家畜との父祖』と呼ばれて、それらは愛の聖いものとそこから派生する善とを意味するため、天的なものであることから明白である。

 

 

天界の秘義1242

 

 ペレグとヨクタンと名づけられているエベルの二人の息子により、かの教会の二種類の礼拝がすなわち、内なる礼拝と外なる礼拝が意味されていることは―ペレグにより内なる礼拝が、ヨクタンにより外なる礼拝が意味されていることは、とくに以下のことから明白である、すなわち、内意ではエベルとヘブル民族によりこの第二の古代教会が意味されており、教会の各々には内なるものと外なるものとがあるのである。なぜなら内なるものがないならそれは教会ではなく、また教会と呼ばれることもできないで、偶像崇拝となるからである。それで『息子たち』がここに教会について述べられているため、一人の息子により教会の内なるものが意味され、他の一人の息子により教会の外なるものが意味されていることが明白である、それは聖言における他の色々なところでも同じであって、ラメクの二人の妻の、アダとチラにより(409番参照)、レアとラケルにより、ヤコブとイスラエルにより―かれについては後に述べよう―また他の者たちによっても意味されているのである。本章にはヨクタンの子孫がとり扱われており、次の章にはペレグの子孫がとり扱われている。