アブラハム

 

 

 

天界の秘義1416[2]

 

  あなたの名をかさねてアブラムとよんではならない、あなたの名をアブラハムとしなくてはならない、わたしは夥しい国民の父としてあなたを与えたからである(創世記17・5)

 

『アブラハム(Abraham)』の中のhの文字はかれがエホバをまたは主を表象しているため、エホバ(Jehovah)の名からとられたのである。同様にサライについても以下のように言われている―

 

  あなたはかの女の名をサライと呼んではならない、サラとかの女の名をしなくてはならない。わたしはかの女を祝福し、またあなたにかの女によって息子を与えよう、かくてわたしはかの女を祝福し、かの女は諸々の国民となるであろう、民の王たちもかの女から生まれるであろう(創世記17・15、16)。

 

 

天界の秘義1426

 

『アブラム』により人間的な本質の方面の主が表象されていることはアブラムについて言われている凡ての事柄から明白である。後には彼は主をその人間的な本質のみでなくまた神的な本質の方面でも表象していて、その時は『アブラハム』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義1834[3]

 

仁慈が消滅するとき教会の中に続いて起こってくる悪とそこから派生してくる誤謬とがここにアブラムが追い払った鳥(創世記15・11)により、即ち、ここにアブラムにより表象されている主が逃走させられた鳥により意味されているものである。アブラムは鳥以外には何物も追い払わなかったのであり、悪と誤謬とは些かも追い払わなかったのであり、またアブラハムも天界では自分自身では何事も為すことの出来ない人間以外の者としては知られてはおらず、ただ主のみが知られているのであって、イザヤによりまたそのように言われているのである―

 

あなたは私たちの父であられます、アブラハムは私らを知らないし、イスラエルは私たちを承認しません、ああエホバよ、あなたは私たちの父、私たちの贖い主であられます。あなたの御名は永遠から在リます(イザヤ63・16)。

 

 

 

 

 

天界の秘義2010

 

それで『名前』は性質を意味し、またその特性がいかようなものであるかを知ることを意味しているからには、わたしたちはこの節の『あなたの名前はもはやアブラムと呼ばれてはならない、あなたの名前はアブラハムとしなくてはならない』(創世記17・5)という言葉により意味されていることを、すなわち、彼の性質は過去においてあったようなものであってはならない、これからなろうとするようなものでなくてはならないことを認めることが出来るのである。アブラムは他の神々に仕え、神シャッダイに仕えたことは前に示した(1992番)、しかし彼は主を表象し、事実主の内なる人を表象し、かくて主の愛の天的なものを表象しなければならなかったため、彼の前の性質は消し去られねばならなかったのであり、すなわち、『アブラム』の名前の文字は変化して、それにより主が表象されねばならなかったのである。それでHの文字がエホバ(Jehovah)の名から取ってこられて―その文字は『エホバ』の名の中で神的なものを意味しているただ一つの文字であって、「わたしは存在している」または「存在」(Esse)を意味しているが―彼の名に挿入され、彼は『アブラハム(Abraham)』と呼ばれたのである。以下の記事に話されている『サライ』の場合も同一であって、その名前にも同じ文字が附加されて、彼女は『サラー』(Sarah)と呼ばれたのである。このことからまたわたしたちは聖言の内意ではアブラハムはエホバまたは主を表象していることを認めることが出来るのである。

 

 

天界の秘義2198

 

「アブラハムとサラとは年をとっていた」。これは主における人間的なものを、すなわち、それが脱ぎすてられねばならなかったことを意味していることは、アブラハムとサラとの表象から明白であり、また同じく『年をとる[老いる]』と『老年』の意義からも明白である。この章にくり返し言われているように、ここのアブラハムは合理的な善の方面の主[主の合理的な善]を表象し、サラは合理的な真理の方面の主[主の合理的な真理]を表象しており、かくて各々はここでは、前に言ったように、以下の理由から主における人間的なものを表象しているのである、すなわち、エホバは今や臨在されて、アブラハムと語られたのであるが、エホバは主の神的なものそれ自身であって、主からは分離されてはいなかったのである―たとえ歴史的に表象されているものの中では分離しているものとして示されてはいるが。なぜなら歴史的なものによってはそれはそのようにしか表象されることができないからである。しかし『アブラハムとサラとは年をとっていた』と言われていることがかの人間的なものが脱ぎ去られねばならないことを意味していることについては―『老年』は最後のとき以外の何ものをも意味していないのである。『老年』は聖言に色々な所に記されており、同じくまた人々は『死んだ』とも記されているが、しかし内意では、身体の老年または死といったものは決して認められてはいないで、その事柄の連続から明白になっている他の事柄が認められているのである、なぜなら他生では老年と死とは知られていないからである。ここに意味されていることは前に言われたように、事柄の連続から明白であり、すなわち主は人間的なものを脱ぎ棄てられねばならなかったことが意味されているのである。