天界の秘義716

 

 聖いものが『七』により意味されていることは第七日、または安息日について前に言われたことから(84−87番)明らかである、すなわち主は第七日であり、主から、天的な教会も、または天的な人間も第七日であり、さらに天的なものそれ自身が第七日であり、それは主のみから発しているため、最も聖いものである。こうした理由から、聖言では七は聖いものを意味しており、事実ここのように、その内意では些かも数の観念[考え]を持っていないのである。なぜなら天使と天使的な霊のように、内意にいる者は数とは何であるかを知りさえもしないのであり、それで七とは何であるかを知ってはいないからである。

 

 

天界の秘義728

 

 『七日たつと』は主が世に来られることを、また主が栄光の中に来られることを、個別的に主が来られることをことごとく意味している。主が来られることは再生しつつある者には始まりであるが、剥奪されつつある者の終わりであるということがその来られること凡ての特質となっている。かくてこの教会の人間には主が来られることは試練の始まりであったのである、なぜなら人間は試みられる時新しい人間になり、再生し始めるからである。同時にそれは滅びないわけにはいかないような者になった最古代教会の者らの終りでもあったのである。主が世に来られた時は正しくそうであった―当時の教会はその剥奪の最後の状態に陥り、そのとき新しくされたのである。

 

[3] ここに『七十週』と『七週』は『七日』と同じことを、すなわち主が来られることを意味している。

 

 

天界の秘義852

 

『第七の月』が聖いものを意味していることは前に言ったことから充分に明らかである(84−87、395、716番)。この聖さは天的な人に関連して述べられたことに(二章三節)、すなわち第七日は神がその日に休まれたため聖められたというおとに相応している。

 

 

天界の秘義1988

 

 例えば、『七』の数字が起るときはいつでも、天使には直ぐに七の代りに聖いものが考えられるのである、なぜなら『七』は聖いものを意味していて、そしてこのことは天的な人は『第七日』または『安息日』であり、かくて主の『休息[憩い]』であるという事実から発しているからである、(84−87、395、433、716、881番)。

 

 

黙示録講解20

 

7・・・凡て。

「七」は「一週」と同様、聖言では初めと終わりとを意味し、かくて一つの期間全体をまた充分な状態を意味しており、充分なものを意味しているため、凡てのものが充分なものを構成している以上、凡てのものを意味している。(728,6508、9228)

「三」もまた充分なものと凡てのものとを意味しているが(2788,4495,7715)、「七」は何か聖い事柄がとり扱われている所に用いられ、「三」は他の凡ての場合に用いられる。(10127)