六
1.聖書
2.労苦と争闘
3.教会の人間が信仰の諸真理と諸善とを教えられている最初の状態
1.聖書
創世記1・31
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
創世記7・6
ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。
出エジプト記23・10
あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
2.労苦と争闘
天界の秘義737
「ノアは六百年の息子であった[六百歳であった]」。これは彼の試練の最初の状態を意味していることは、第五章の年代と凡ての名前のように、ここでも、また第十一章のヘベルに至るまでも、数と期間と名前は実際上の事柄以外には何ごとも意味していないため、明白である。この『六百年』は試練の最初の状態を意味していることは六百年の中の支配的な数字から明白であり、それは十と六であって、それが二度かけ合わされているのである。同一の因数から発している数はその大小を問わず何ごとをも変えないのである。『十』の数については、それは残りのものを意味していることは既に(六章三節)に示されたところであり、ここの『六』は労苦と争闘を意味していることは聖言の多くの記事から明白である。なぜなら事実は以下のようであるからである、即ち、前に記された事柄の中では『ノア』と呼ばれた人間の試練に対する準備が主題となっているのである、即ち彼は主から理解の諸真理と意志の諸善とを供えられたのである。これらの真理と善が残りのものであり、それらは人間が再生しつつあるまでは取り出されて認められはしないのである。試練を通して再生しつつある者達の場合には、人間の中の残りのものはその者のもとにいる天使達のために存在しており、天使達はその残りのものから、人間の中に諸々の誤謬を掻き立てて、かくして人間を攻撃する悪霊らに対し人間を防禦するものを引き出すのである。残りのものが『十』により争闘が『六』により意味されているため、こうした理由からその年は『六百年』であると言われているのであり、その中の支配的な数は十と六であって、試練の状態を意味しているのである。
天界の秘義737[2]
特に『六』の数については、それが争闘を意味していることは創世記の第一章から明らかであり、六日が記されていて、人間は天的なものとなる以前にはその六日の中で再生したのであり、またその中には不断の争闘があったが、しかし七日目には休息が与えられたのである。労苦には六日が在り、第七日は休息を意味している安息日であるのはこうした理由からである。
天界の秘義1963
6・・・争闘。(720、723、900)
3.教会の人間が信仰の諸真理と諸善とを教えられている最初の状態
天界の秘義9272
「六年あなたはあなたの地に種を蒔かなくてはならない。」これは教会の人間が信仰の諸真理と諸善とを教えられている最初の状態を意味していることは以下から明白である、即ち『六年』の意義は再生しつつある人間の最初の状態であり(そのことについては下記の9274番を参照)、『地に種を蒔くこと』の意義は、信仰の諸真理と諸善とが植え付けられつつある時、このことが『地に種を蒔くこと』により意味されていることは、畠、播種、その作物の凡ゆる事柄が全般的には教会に属した事柄を意味しているためである。ここから聖言の『畠』と『土地』とは、畠が種子を受けるように、教会の中で信仰の諸真理と諸善とを受ける者たちを意味しているのである。それでまた聖言にはしばしば『畠』『種子』『種を蒔くこと』『収穫』『穀粒』それで作った『パン』と言われているのみでなく、畠に属した他の凡ての事柄が言われているのである。
黙示録講解376ホ
6・・・凡てのものを意味し、真理について述べられており