五十

 

 

 

天界の秘義2252

 

満ちているもの

 

[]『五十』が完全なものを意味していることは、それが七に七をかけてできた数、すなわち、四十九の次に来ているということから来ており、それでそれはこの数字を充足するものであり、そうした理由からその表象的な教会には五十日目に七つの安息日の祝祭があり、第五十年目にヨベルの祭典が行われたのである。

 

[]さらに、聖言に『五十』が言われているところでは常に、それは充分なものを意味している、たとえば以下のように言われているときは、そのことが意味されているのである―

 

レビ人は三十才以上の息子から五十才の息子にいたるまでも数えられた(民数記4・23、35、39、43、47、8・25)。

 

[5]そして同じく『五十』は充分なものを意味しているため、またこの数字は―すでに言ったように―表象的なものであったため、それと同じことが執事にかかわる主の譬え話の中にもその数字により意味されているのである、すなわち、その執事は油の負債を持っていた者に言った―

 

 あなたはわたしの主人にいかほど負債をもっていますか。するとかれは言った、百バテの油です。かれはかれに言った、あなたの証書を取り、はやく坐って、五十と書きなさい(ルカ16・6)。

 

『五十』は充分に支払うことを意味している。五十は数字であるため、それは実際数字以上のものを何ら含んではいないかのように思われるが、それに反しその内意ではそれにより充分なものが至る所で意味されているのである、たとえばハガイ書には―

 

 一人の者がぶどうのしぼり器のもとへ来て、そのぶどうのしぼり器から五十を汲み出そうとしたが、二十しかなかった(2・16)。

 

すなわち、充分なものがなく、多くはなかったのである。『五十』はもしそれが表意的なものでなかったなら、それは予言者の書のここには記されなかったであろう。