五
天界の秘義798
「十五キュビットも高く水ははびこって、山々をおおた。」これは仁慈が何一つ残らなかったことを意味し、『十五』はほとんどいかようなものも存在していない程にも僅かしかないことを意味していることは、『五』の数の意義から明白であり(この数については前の6章の15節を参照)、そこには以下のことが示されたのである、すなわち、聖言の文体では、または内意では、『五』は僅かなものを意味しており、『十五』の数は僅かなものを意味している『五』と(前の6章3節に示されたように)残りのものを意味している十とから成っているため、『十五』はこの人々のもとにはほとんど存在しなくなった残りのものを意味しているのである。なぜなら誤謬の信念は善をことごとく消滅させてしまったほどにもそれはおびただしかったからである。人間のもとにある残りのものについては、事実は、既に述べたように、誤謬の諸原理は、ましてや洪水以前の人々の許に在ったような誤謬の信念は、その残りのものをそれが持ち出されることができないほどに、また持ち出されても、直ぐに誤謬化されてしまったほどにも全く閉じ込め、隠し去ってしまったということである。なぜならそれが信念の生命であって、それは凡ゆる真理を斥けて、誤謬をことごとく吸引するのみでなく、近づいてくる真理をことごとく歪曲してしまうからである。
天界の秘義1686
「四人の王は五人の王と」。これは最後に名を記されているものの結合と最初に名を記されている者の分離とを意味していることは『四』と『五』との意義から認めることができよう。『四』は、それが対のものから成っているため、結合を意味しているが、同じくまた二も(720番にもまた述べたように)それが事柄の結婚にかかわりを持っているときは結合を意味しているのである。しかし『五』は(649番に示したように)僅少なものを意味しているため、分離を意味している。凡ゆるものの意義はそのものがそれについて述べられていえる主題に応じているのである。