四十

 

 

1.聖書

2.試練の継続

3.充分な、完全になったもの

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記7・4

 

七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。

 

 

 

出エジプト記24・18

 

モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。

 

 

 

申命記2・7

 

あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。

 

 

 

申命記8・2

 

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたたちを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

 

 

 

申命記9・8−9

 

ホレブにいたとき、あなたたちが主を怒らせたので、主はあなたたちに向かって激しく憤り、滅ぼそうとされた。 わたしが石の板、すなわち主があなたたちと結ばれた契約の板を受け取るため山に登ったとき、わたしは四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。

 

 

 

マタイ4・1−2

 

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

 

 

 

2.試練の継続

 

 

天界の秘義730

 

 『四十日四十夜』により試練の継続が意味されていることは主の聖言から明白である。『四十』は試練の継続を意味していることは(マタイ4・1、2、ルカ4・2、マルコ1・13に述べられているように)主が四十日の間御自身が試みられるに甘んじ給うたという事実から発している。そして主が来られる以前のユダヤ教会と他の表象的な諸教会に制定された物はことごとく主の象徴であったように、四十日四十夜もまたその象徴であったのである―すなわちそれらのものは全般的に試練そのものを表象し、意味したのである。そして人間は試練におかれている時はその者自身のものと身体とに属した凡ゆる物を剥奪されるため(なぜなら人間は新しい人間として再び生まれる前に、または霊的な天的なものになされる前に、その人間自身のものと身体とに属した物は死ななくてはならないからである)こうした理由からもまた『四十日四十夜』は剥奪の継続を意味しており、それは『ノア』と呼ばれる新しい教会の人間の試練と洪水以前の人々の剥奪[荒廃]とが主題となっているここでも同じである。

 

 

天界の秘義730[4]

 

 イスラエル民族がカナンの地に入れられる前に荒野を四十年連れ廻されたことも同じく試練の継続とまた剥奪の継続を表象し、意味したのである、即ち彼らが後に聖地に入れられることにより試練の継続を、エジプトから出た二十歳以上の者は凡て、ヨシュアとカレブを除いて、荒野に死んでしまったという事実により剥奪の継続を意味し、表象したのである(民数記14・33−35、32・8−14)。彼らが再三不平を洩らした原因となった物は試練を意味し、彼らは頻繁に臨んだ疫病と破滅とは剥奪を意味しているのである。これらが試練と剥奪とを意味していることは主の神的慈悲の下にその所で示すことにしよう。これらのことについてはモーセの書に以下のように記されている―

 

  あなたはあなたの神エホバがこの四十年の間荒野であなたを導かれた凡ての道を憶えていなくてはならない。それはあなたを試み、あなたの心の中に在るものを、あなたがその戒めに従おうとするか、否かを知るためであった(申命記8・2、3、16)。

 

 モーセがシナイ山に四十日四十夜いたことも同じく試練の継続を意味している、即ち、それは彼が四十日四十夜止まって、パンも食べず、水も飲まないで、民が滅ぼされないようにそのために懇願したことから明らかであるように、主の試練を意味しているのである。(申命記9・9、11、18、25終りまで、10・10)。

 

 

 

天界の秘義760

 

 『四十日と四十夜』はその継続を意味することは前の四節に示された。前に言ったように、『四十』により、長いにしろ、短いにしろ、試練の継続がことごとく意味され、実に意志の事柄である苛烈な試練が意味されている。

 

 

 

天界の秘義2272

 

「彼は言った、恐らく四十人がそこに見出されるかもしれません」。これは試練の中に置かれた者たちを意味していることは四十という数字の意義から明白であり、それは試練である(そのことは第一部730番に説明した)。これらの事柄はいかように連続しているかは試練から認めることが出来よう。試練は人間が真理を確認するためのみでなく、真理が善に更に密接に連結するために起きるのである、なぜなら人間はその時誤謬に反抗して真理のために戦っており、彼はその時内的に苦しめられ、責められるため、欲念の生命の歓喜とそこから派生してくる快楽とは、止んでしまい、そしてその時善が主から流れ入り、その結果、それと同時に悪は嫌忌すべきものとして認められ、その結果前に持っていた思いに反した性質の新しい思いが生まれ、そうした思いにその後彼は向けられ、かくて悪から善へ向けられ、そしてこの善は真理に連結することが出来るからである。そして善と真理との連結は試練により遂行されるため、また前の節には、そのもとで善が真理に連結されることの出来る者が救われるであろうと言われているため、それでここに言われていることが続いて言われており、実に善と真理とは試練により連結されることが出来ることを意味しているといった言葉を用いて言われているのである。このように内意の中にいる者たちのために主題の内容が関連づけられているのである。

 

 

 

3.充分な、完全になったもの

 

 

天界の秘義9437

 

「モーセは四十日四十夜山にいた。」これは教えられることと流入の方面で完全なものとなったものを意味していることは、『四十』の意義から明白であり、それは充分な、または完全になったものである。『四十』が充分なもの、または完全なものを意味していることは『四』が『十』と同じく(3107、4638番)充分なものを意味し(9103番)、四十の数は四を十に掛け合わせて出来ているためである、なぜなら掛け合わせてできた数字はその数字のもとになっている単一な数字と同じことを意味しているからである(5291、5335、5708、7973番)。

 

 

 

天界の秘義9437〔2〕

 

『四十』は充分なもの、または完全なものを意味したため、それでモーセはこの場合のみでなく、また他の場合にも『四十日四十夜』止まったのである(出エジプト記34・28、申命記9・18、25、10・10)。こうした理由からイスラエルの子孫は、『その代の者はことごとく死に絶えた』と言われているように、その時まで『四十年』荒野にさすらったのである(民数記14・33、34、32・13)。またそうした理由からヨナによりニネベの人は『その都は四十日後にくつがえされるであろう』と言われたのである(ヨナ3・4)。(中略)このことから邪悪な人間は『四十の鞭打ちを受けなくてはならない』と命じられた理由が明白である(申命記25・3)、なぜなら『四十の鞭打ち』は充分な刑罰を意味したからである。ここからまた『イスラエルの四万人の中には楯も槍も見られなかった』というデボラとバラクの予言の歌の中に意味されたことは明白であり(士師記5・8)、『イスラエルの四万人の中に』は、凡ての中に、を意味しているのである。ここからまたソロモンにより建てられた神殿が『四十キュビットの長さ』があり(列王記上6・17)、同じくエゼキエル書に記された新しい神殿も長さが四十キュビットあった理由が明白である(エゼキエル41・2)、なぜなら『神殿』により、その最高の意義では主が意味され、その内意では天界と教会とが意味され、かくて『四十』により、表象の方面では完全になったものが意味されるからである。他の記事でも同じである。